第三章 -金言-

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「ねえ、置いてかないでよ。モモコお嬢さん」 「……?」  声が聞こえた。聞こえた気がした。甲高い声を「黄色い声」と称したりするが、やや低めで、しっかりと通って、熱いビートを伴うのは「赤」だった。暴力が搾り出す血の色であり、男女を煽り立てる恋の色であり――他でもない、彼自身の色であった。 「いやね、()ねているわけじゃあないんだ。君が誰とどんな取引をしようが、俺に口を挟む権利は無い。最後に決断するのは君だからね。『護衛』としては、『主人』の命令に従うだけさ。  ただし――それは君が冷静な場合に限る。今一度見つめ直して欲しいんだ。君が大切だと思うものについて、ね」  頭蓋を揺さぶる隙間風に、多彩な意味が与えられていく。変則的な火風が突き抜けるそばから、行き詰まった思考を焼き払っていく。私は()れ者だ。危うく化物の口車に乗せられて、「救世主」の覚悟を無下にするところだった。  戦闘は万事彼に任せて、弱い自分は安全圏に引き籠る。何が最善かなんて、初めから分かりきっていたじゃないか。下らない情報に興味を引かれるなどあり得ない。希望を背負う身として、正しくなくては。果たしてそうか? こんな崇高な志、私は元から有していたか? 私にとって本当に大切なのは何だ? 駄目だ。駄目だ。考える度にこんがらがって―― 「ねえ、」 「……!?」  声が聞こえた。はっきり聞こえた。人間味が若干剥がれた、素直な喋りに違和感を覚える。何故、「置いてかないで」なんだろう? 足手まといを始末したいのなら、もっと突き放した言い方をすれば良いのに。わざわざ押し止めるなんて不自然だ。すると他に狙いがある? 誰よりも雄弁なはずの彼が、削り取られた言葉に何を委ねている? 「……あ、これじゃあ伝わらないのか。ごめん、ごめん! 師匠の指導で慣れてきたつもりなんだけどね。えーっと……よし、こっちだ。  ねえ、モモコお嬢さん。」 「……!」  声が届いた。想いが届いた。「一つ目の異人」は正しかった。背中越しの対話だからこそ、笑顔が前面に出ていないからこそ、かえって本質に辿り着く。「話が下手くそ」とは言い得て妙。ジョークや雑学は尽きないくせに、本音を明かすのは苦手ときている。  情けないことを言おう。私は失望されるのが怖かった。期待に応えなければとか、ご立派な理由は後付けでしかなく、ただ格好付けたかっただけなのだ。ゆえに自分の弱さを認められず、媚びた手付きで鍵を摘まもうとしている。  このままアパートへ逃げ込むのは簡単だ。では、その次は? 態度を偽ってみても、私の弱さは誤魔化しようがない。最愛の人を疑ってしまった事実は消えない。ならば低能と罵られようが、自分勝手と責められようが、弱いなりにカンマを打たねばならない。  飾り気のない意志に駆られ、痺れた足をピンと伸ばす。鍵はその場に放置しておく。どうせ後から回収するのだから、問題あるまい。伏せがちだった目線を上空に合わせる。澱んだ雲はますます広がり、大粒の雨でも降ってきそうだ。  丸く膨らんだ水面に、一滴の毒が落ちる様を想像する。お役御免になった天秤を、胸の内でひっくり返す。新鮮な悪戯心を抱きながら、私は仰向けに階段を踏み外した。
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