第三章 -金言-

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 命の危機に瀕すると、取り巻く全てがスローモーションに替わるらしい。一秒が十秒に。十秒が百秒に。吹き上がる気流が肌に貼り付いて離れない。薄味の無重力空間で、精神ばかりが老いていく。  循環する浮遊感には覚えがある。「救世主」と初めて出会った時も、私は地上1.5メートルを飛んでいた。違いを挙げるなら、前回は前のめりで倒れたのに対して、今回は天と向き合いながら沈んでいる。どちらが好みかと問われれば、当然後者だ。開けた景色は()れったい一枚絵だが、冷たい地面よりは趣深い。  白いドアが目の端を掠める。二階、右から二番目の瀟洒(しょうしゃ)な扉。(つぼみ)を模したノブを捻れば、その先には聖域が広がっているはずだった。安らぎが遠ざかっていく。遠ざかっていけ。防空壕で一人守られていても、外の戦火は消えやしない。  むざむざ死に急ぐなど馬鹿馬鹿しい。戦場に残るなど愚にも付かない。理屈では分かっていても、感情を制御するのは難しい。()い交ぜの音色に包まれて、彼が応えてくれるのを待つ。 「――受け取ったよ。君の声」  狂っていた時計の螺子(ねじ)が再度巻かれる。肩甲骨と太ももに抵抗が生じ、温かい痛みに襲われる。抱き留められる展開は一緒でも、焼き直しなどでは断じてない。黒い瞳も、頬のタトゥーも、赤い髪も余さず眺められる。「お姫様」を名乗れるほど偉くもないが、彼を独り占めできる特別席、誰にも譲ってやるものか。 「ハハハ! 君も度胸があるよねえ。清水の舞台じゃあるまいし、あんまり無茶しないでよ。まあ、命を懸ける価値があるっていうなら、トコトン付き合っちゃうけどさ。それとも――俺を信じてくれてたの? だったら光栄至極だね。  ――ご覧の通りです、送り狼さん! 本人の意向に従い、モモコお嬢さんを証人に推薦します! ただし、貴女が不審な動きを見せたなら、問答無用で避難させますのでご了承ください。  ――さてと。それじゃあお嬢さん、すぐに降ろしてあげるね――あらあら、なるほど。うん、君が望むならこのまま行こう。だもんね」  雄弁さを取り戻した「救世主」が、こちらの心を読み取ってくれる。派手に形作られた面の裏に、が潜んでいるのを知っている。どんな道を選んでも、彼は。確信していたから、我儘をやってみたくなった。軽はずみに、悪魔みたいに、ずっぷりと甘えてみたくなった。  浅ましいのは承知で、独りごちてやる。  こんなコミュニケーションも、悪くないでしょう?
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