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「私達は此界のものを受け付けませんの」
空の御膳の前に座らされた太郎を挟んで座る姉妹は、これまでに太郎が夢に想ったこともないような、まばゆい美しさを放っていた。
「食べられない、ということですわ」
妹が補足をした。だから御膳は空なのだろうか、と太郎は現から遠く離れた心地で考える。
豊かな黒髪を優雅にうねるままに流しているのが姉、珊瑚のように赤い髪を結い上げているのが妹だ、との説明はリュウグウに到着してすぐに受けた。浜で助けたウミガメの背に乗せられて来たはずが、辿り着いて太郎が降りるやいなやウミガメは赤い髪の美女へと変じた。
「生まれた子どもたちもみな飢えて死んだでしょう。全然帰ってきませんもの。いくら卵を産み此界に放っても、これでは意味がありません」
つきましては、と妹が続けようとするところを、オトヒメγ、と姉が遮った。
「おもてなしの途中でしてよ、あとで私から説明いたしますわ。ねえ、鯛はお好きかしら。妹の命の恩人ですもの、いくらおもてなししても足りません」
太郎の目の前では鯛、蛸、鮃が舞い泳ぎ、ウツボは赤や青の海藻の輪をくぐり、海老が髭を鳴らして泡粒を吐いていた。頭上に海月がひしめき、光を放ちゆらぐのだけは、美しいけれど勘弁してほしかった。海月には刺されたことがある。
平素の太郎が見ていた海とは、ときに荒れ、太郎ら漁師を飲み込まんとする恐ろしいものだった。それに曽祖父の代には、大津波が漁村を襲い、容赦なく全てを連れ去ったこともあるという。太郎の知る、恐ろしくも離れられない海と、今居る海は全く違う顔をしていた。
「ねえ、鯛はお好き? それとも海老?」
姉妹の姉、オトヒメαが、太郎の肩に貝殻のように白い手を置いて言った。
「どちらも、はあ、好きです」
太郎がそう答えるか答えないかのうちにオトヒメγが鯛と海老を漢服風の広い袖に吸い込んだ。
右袖に入った鯛と左袖に入った海老が、それぞれの形を布に浮かび上がらせながら二の腕へ、そして肩へと這い上っていく。
ふぅ、ふ、ふ、
オトヒメγが笑って身を捩ると胸元がほころんで鯛のお造りが生まれた。
続いて深く息を吐いたかと思うと、高く結った髪のうなじのところから焼き海老が生まれた。
空だった御膳にはいつの間にか、先の鯛と海老に加えて香の物と汁物が並べられている。
空の猪口を覗き込んでいると、膝立ちで裾をはだけさせたオトヒメαがどこから出したものか酒の徳利を持って、さ、さ、さ、と囁きながら注いでくれる。
いい気持ちで飲み食いをしたところだった。オトヒメαは太郎にしなだれかかりながら言った。
「私達は遠いところから此界に参りました。私達の島は陽に焼かれ、干上がりました。道中で多くの姉妹が死にました。私達はみな姉妹で、意識を等分しております。いまや残った姉妹は私とγのふたりきりです。ふたりであれば交配は可能でしたが、先に申しました通り子どもも飢えて死ぬばかりで」
「交配?」
太郎の箸が止まる。太郎の手からオトヒメγが箸を抜き取った。
γがお造りを摘んで口に持ってくるので、太郎は雛のように口を空けてそれを受けた。咀嚼しながら鯛のなにが美味いのだったか分からなくなった。
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