“らしくない”

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“らしくない”

 みんなには内緒の話があるの。  合唱部の部室に向かいながら私がそう言うと、知里(ちさと)の耳がほんのわずかに大きくなったように見えた。 「実はね、私、陽介先輩と付き合ってるんだ」 「……え?」  知里の口角が一瞬持ち上がる。きっと私の告白を冗談だと思ったに違いない。信じていない知里に言い聞かせるように、私はまた同じを、今度はゆっくりと言葉を繰り返す。陽介先輩には絶対に他の人に喋ったらダメって言われていたけれど、どうしても、誰かに話したくなった。誰でもいいから、あんなに優しくて素敵な先輩と私は付き合ってるんだって自慢したくなった。知里はとても驚いているのか口をぽっかりと開けて、信じられないと言わんばかりに唇を震わせている。言葉を探しているのか、視線があちこちにさまよった。 「え、待って……それって変だよ、陽介先輩、彼女いるじゃん」   私が合唱部の部長である咲先輩の事を思い浮かべる。咲先輩が、陽介先輩の【本当の彼女】。私は彼と付き合っているけれど、正式なお付き合いじゃない。 「絶対、絶対別れた方がいいよ!」  私の事を心配しているのか、それとも咲先輩の身を案じているのかは分からないけれど、知里の語気は荒くなる。 「それって、浮気ってことでしょう? 陰でこそこそ付き合うなんて、真面目な結月(ゆづき)らしくないよ」  その言葉に私はムッとする。知里の、こうやってすぐに正論を言うところはあまり好きじゃないし、彼女が正しい事を言うたびに私は「つまらない人間だ」と思っていた。でも、同じクラスで同じ合唱部なのは知里だけだから渋々仲良くしている。 「別れた方がいいよ、絶対その方が良いって」  何を焦っているのか分からないけれど、知里が早口になっていく。私はそれに絡め取られないように、ほんの少しだけ早足になった。合唱部の部室に近づくと、ちょうど陽介先輩が引き戸を開けようとしていた。私たちを見つけて、柔らかく微笑む。そのちょっとしたしぐさに私の胸は簡単に高鳴ってしまう。名前を呼ばれたわけでもなく、触れ合ったわけじゃなく目が合っただけなのに、好きって気持ちが溢れ出して体が熱くなっていく。知里が今どんな表情をしているのかも考えられなくなるくらい、一瞬で彼に夢中になってしまう。  陽介先輩は私たちの1つ上、合唱部の副部長でもある。誰にでも分け隔てなく優しくて、低い声がとても素敵だった。隣に立つ、さっきまで私の事をコテンパンに否定してきた知里だって入部したばかりの頃は「かっこいい」とか「優しい」とか「歌上手い」とか言ってはしゃいでいた。けれど、咲先輩っていうちゃんとした彼女がいると知った途端、その膨らんでいた気持ちから一気に空気が抜けて知里はひと目で分かるくらい萎んでいた。 「絶対、別れた方が良いって」  知里はとても小さく低い声で私にそう念押しする。ムッとしたままの私は、同じように低く小さな声で言い返す。 「もし誰かに話したら友達やめるから」 「そんなの、結月の勝手じゃん。私は知らないよ。……こんなこと続けてて、バカみたい」  ぼそりと呟く知里のその言葉は、私の耳にはやけに重たく聞こえてくる。私はちょっとだけ芽生えた罪悪感を振り切るように、部室に足を踏み入れた。  合唱部は地方コンクールを控えていて、入った瞬間、ピンと張り詰めた空気が私たちの体を包み込んだ。私たちの高校は、かつては全国大会の常連校だった。けれど、今は古豪と呼ばれていて、ここ数年は賞からも遠ざかっている。ジャージに着替えた私は練習が始まる前にウォーミングアップを始める。私は知里とパートも一緒だから、知里と組んでストレッチしていた。ふっと陽介先輩を見ると、彼も他の男子と笑いながらストレッチしている。    数日前に陽介先輩の部屋に行った時、彼が話していた事を思い出す。部長の咲先輩が、コンクールのプレッシャーのせいか最近すごくイライラしている。陽介先輩もたまに強く当たられる。深いため息をつきながら愚痴を言っていた。そのわずかに疲れを見せる横顔に、私は唇を近づけた。先輩は私の手を握って、あの優しくて暖かな笑みを私に見せる。 「ほんと、俺には結月ちゃんがいてくれて良かったよ」 部内で一番美しいソプラノを出せたとしても、咲先輩に陽介先輩を癒すことはできない。 「こんな話できるの、結月ちゃんだけだよ」  陽介先輩はやさしい声でそう言って、私の頭を撫でた。彼を癒すことができるのは私だけなんだ、そんな優越感に頭のてっぺんまで浸っていく。前屈する私の背中を押す知里の力がいつもより強い事も、頭の上でチカチカと点滅する切れかけの蛍光灯の事も気にならなくなってしまうくらい、私は幸せの海に沈み込む。  ちらり、と窓際で夕日をあびる咲先輩を見た。楽譜を見つめながら鼻歌を奏で、頬に垂れ下がった髪を優雅に耳にかけている。咲先輩も陽介先輩と同じくらい優しい。誰かが明らかに音を外しても怒ることなく丁寧に指導して、上手く歌えない後輩を力強い言葉で鼓舞する。みんなから頼られているし、先生からの信頼も篤い。咲先輩に憧れている、と話す子も少なくない。そして、この合唱部の中で一番歌が上手い。パートはソプラノで、高い音を出すのが他の誰よりも得意だった。伸びやかで、喉がひっくり返ることなく、まるで鳥のようにまっすぐ飛んでいく美しい高音。羨ましくないと言ったらウソになる。非の打ち所がない完璧な先輩。そんな咲先輩と陽介先輩は、我が合唱部が誇るベストカップルだった。  そう、思っていた。あの話を聞くまでは。  コンクールに向けた練習が始まる前、男子部員がひそひそと話していた噂話が私の耳に飛び込んでくる。きっとその中に「陽介」というワードが含まれていたから、私は敏感にキャッチしたに違いない。 「陽介って、咲とキスもしたことないんだって」  先輩の一人がそう言うと、他の男子部員は「えー」とまるで咲先輩を非難するような声をあげていた。 「なんかウブ? すぎて、手繋ぐぐらいしかしたことないって」 「えー、マジすか。それじゃ陽介先輩、かわいそうですね」  かわいそう。その言葉が私の耳に残り続けた。かわいそうな陽介先輩。彼女に【彼女らしい】ことをさせてもらえないなんて。 知里の事を笑えない。私だって、陽介先輩の事がずっと好きだった。咲先輩っていう立派な彼女がいることは分かっていたけれど、どうしても断ち切ることができなかった思い。私の欲が芽吹く。もしかしたらチャンスが訪れたのではないか、と勝手に期待する。その欲望と期待に背中を押された私は、気づけば陽介先輩に告白していた。
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