第1章

6/7
23人が本棚に入れています
本棚に追加
/89ページ
「飛ばされた……?」  アリシアがオウム返しに尋ねる。  ――何故? 誰に? どうやって?  離れた場所に移動する杖力の存在は彼女も知っていた。しかし、空間移動の影響を受けるのはあくまで杖を使った当事者に限定される。アリシアの杖は、腰の杖袋に仕舞われたまま指一本触れられていない。イアンに関しても同様である。  アリシアはこの不可思議極まりない現象についての原因究明に集中しようと試みたが、傍らで異常なほど落ち着き払っている先輩の方に気を取られ、失敗に終わった。 「ここに飛ばされたのは、きっとここにやるべきことがあるからだろう」 「……というと?」 「たとえば、課題の手がかりとなる本を探すとか。見たところ図書塔にはない古文書ばかりだし」  その後も何やら独り言のようにブツブツ呟いているイアンを他所に、一か八か、アリシアは今度は自分で空間移動を試してみることにした。まだ講義で概要に触れただけだが、感覚で成功することもあるかもしれない。事実、彼女が実践杖力学の成績を人並に収められているのは、感覚によるところが大きかった。  杖力を引き出すコツは、適切な文句と、鮮明なイメージである。アリシアはできるだけ克明に学校の外観を思い浮かべようと努めた。曲線を組み合わせた精巧な門、煉瓦に覆われたU字型の校舎、その奥で無限に天頂を伸ばす図書塔――。  しかし、いくら試しても見えてくるのは深い森にひっそりと佇む廃墟だけだった。建っている場所も、建物の造りも同じはずなのに、外壁はツタに覆われ、窓ガラスは破損し、タイルの外れた床は崩れ落ちた天井の穴から射し込む陽光に照らされている。まるで何百年もの間、誰一人足を踏み入れていないような、閑散とした様相だった。 「どう?」  いつこちらの試みに気付いたのか。尋ねるイアンに、アリシアは力なく首を横へ振った。 「だろうね。セキュリティ上、あそこは部外者が侵入できないようヒイラギの〈魔除〉の杖力がかけられている。教授は、僕たちが課題を達成するまでは学校に戻さない腹積もりらしい。現時点で試行錯誤したところで空間そのものに弾かれる」 「魔除け? 弾かれる……?」 「混乱するだけなら訊かない方がいい」  悪びれる様子もなくすました横顔に、彼女は何も返せなかった。この人物、もしかしなくとも彼女が極めて苦手とするタイプである。表面的な意味をなぞるだけでは会話が成立しない。相手を煙に巻くだけ巻いて、放ってどこかに行くタイプ。 「先輩は試さないんですか」  ムッとして言う。しかしイアンはあっさり断った。 「僕はいいよ。実践は向いてないから」  アリシアはおやと思った。教師キャンベルが、――正確にはキャンベルから言伝を預かった教師オリヴィアが、なぜこの月学年の男子学生と一緒に課題を進めるよう言ったのか、その理由の一端を掴んだような気がしたからだ。  彼女は、理論杖力学の単位を補うために課題を出された。それなら、ひょっとして、彼は実践杖力学の――。  その時、イアンの背後で何かの影が動いた。異変に気付いたアリシアが咄嗟に声を上げると、手近な本の背表紙に指をかけていた彼は弾かれたように振り返った。  ――遅かった。  ゴンッ、という鈍い音に数刻遅れて、彼の手から滑り落ちた古書が中途半端に開かれた状態のまま床へ着地する。破れたページが舞い上がり、ただでさえ暗闇に慣れないアリシアの視界をいたずらに遮った。  まるで劇の一幕を鑑賞しているようだった。紙吹雪の向こうで揺れる影。人体がドサリと床に崩れ落ちる音。その後には、ただ息の詰まるほど重たい沈黙と、緊張。  あまりにも一瞬間の出来事だった。足元で、つい先ほどまで冷静に本棚を物色していたイアンが、古びた紙の絨毯へうつ伏せに身を沈ませたままピクリとも動く気配がない。その上へ降り注ぐ冷ややかな月光を、黒い影が遮っている。その現実を頭で処理する間もなく、彼女の手は腰に巻き付けた杖袋に伸びていた。柄を掴み、胸の前で杖を構える。先端に灯った青白い閃光が、薄闇の中に影の正体を浮かび上がらせた。  酷く分厚い本を手にした少年が、こちらを向いて立っていた。
/89ページ

最初のコメントを投稿しよう!