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「シベリアから、故郷の海に戻ってきたんだよ。家族にも会えないまま、あの世に行くなんて堪らなく悲しいもんだ」
「なんで父ちゃん知ってるの?」
「夜漁に出る漁師は、みんな知っている。シベリア出兵が始まってから、夜の海でこの現象が起き始めたんだ」
辺りを見渡すと明かりを落した船の上で、漁師仲間も気配を消して、この現象をじっと見守っているようだった。
中には小さく念仏を唱える人もいて、すぐ横では、ト吉さんのすすり泣く声が聞こえてきた。
「それじゃ、芯ちゃんもこの中にいるの?」
芯ちゃんはト吉さんの息子で、たった一人の家族。半年前、シベリアの零下30度という極寒の戦下で命を落とした。
「そうだな。きっとト吉さんに別れを告げにきているだろう」
瞬時に私は、もう一人の顔が浮かぶ。
「母ちゃんは、この中にはいないの?」
父が細いため息をはく。私の背中に添えた手の力も、ふっと抜けた。
なんて答えればいいのか、父が困っているのがわかった。それでも私は心を抑えることができなかった。
「ねぇ、母ちゃんの御霊は、あたしと父ちゃんに会いに来ないの?」
「碧‥‥」
「ねぇ、あたしは母ちゃんに会いたい。きっと何処かで母ちゃん、あたし達を探してるはずだよ」
「なぁ落ち着け、碧」
「父ちゃん船を出して。探しに行こうよ」
私は父の腕をほどいて、立ち上がろうとした。
「やめろ碧。船の上で騒ぐな」
「父ちゃん、なんでよ! 母ちゃんに会いたくないの?」
「違う。そうじゃねぇ」
「違わない!」
「違うんだ! 母ちゃんはな‥‥っ!」
私を引き戻そうとした途端、父は急に息をのんで目を見開く。
「父ちゃん、どしたの?」
「‥‥あれを見ろ」
父は恐る恐る、夜空に指を差す。
太くて骨ばった人差し指が、小さく震えている。
私は指先のその向こうに、そっと目を移した。
「えっ....」
おもわず言葉を失う。
あ‥‥あれは何?
ずっと静かに私達を見下ろしていたまるい月が、突然潤んだ瞳のようにぽってりと膨らみ始める。
やがて強く青い光を放射すると、それは涙の雫のように滴り落ちる。
「あっ!」
遠い記憶の断片が、眼前の景色にピタリと重なった。
──月が碧い涙をこぼす時、白銀の龍が星屑の海に舞い降り、御霊をさらいにやってくる。
あれはまさか‥‥
私はおもわず、父の着物の衿をギュッと掴んだ。
「父ちゃん」
「しっ‥‥黙って見てろ」
父は私を庇うように、しっかりと背中を抱く。
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