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青い鱗に様変わりした龍が、今度は大きなとぐろを巻いてこちらを向いている。
シュルシュルと逆巻く長い髭。
全てを吸い込んでしまいそうな鋭く切れ上がった赤い瞳が、私を捉えた。
体の真ん中。心臓の奥深く。魂の場所。
ギュンと手で握られるような衝撃が走り、胸に手を押し当てる。
遠い記憶の片隅で、何かが回り出すのがわかった。
──青い鱗を纏う龍。その赤い眼に睨まれた選ばれし者、魂を抜かれあの世とこの世を繋ぐ番人となる。
「しまった! 碧っ! あの目をみるな!」
父があわてて盾になり、私の視界を塞ごうとするも赤い瞳に完全に捉えられ、自力で視線を逸らすこともできない。
青い巨体は波風を巻き上げ、私を目掛けて猛然と突き進んできた。
こわい。でももう逃げられない。
赤い巨眼が、突風を連れて目の前をかすめかけたその時、眩い閃光が弾ける。
ギュッと目をつむった。でもなぜか、激しくぶち当たる衝撃がない。
それどころか、驚くほど柔らかい風が体を通り抜けていく。
どんどんそれは温かみを増していき、心地よさすら感じる。その温もりにとても懐かしさを覚え、覆っていた恐怖が白い靄のようにしだいに薄くなっていく。
眼裏に断片的に何かが浮かんできた。
それは現実的な体感を伴う、母との思い出の場面。
母と歩いた夕暮れの波止場。
繋いだ手の温もり。
イジメられ泣いて帰った日、頬を撫でてくれた柔らかい手のひら。石鹸とほのかに混じった潮のにおい。
いつものように朗らかに笑う母が、さざ波のような優しさで私を呼んだ。
「母ちゃん‥‥」
どうしようもなく懐かしくて、熱い涙が込み上げる。細胞の一つ一つに、母の想いが染み込んでいくのがわかった。体中が安らぎに満ちていく。
あぁ、ずっとここにいたい。
「碧っ!!」
ずっとずっと遠くの方で誰かが私を呼んでいる。でも私は、母とこのまま一緒にいたい。
──パシーンッ!!
強い衝撃が頬にぶつかる。痛い。やめて。
「碧っ!! 戻ってこい!! 碧っ!!」
鼓膜を突き破る太い声。胸ぐらを思いっ切り引っぱられ、喉から空気の塊を吐き出して私は目覚めた。
「碧!!」
ぐしゃぐしゃに汗にまみれた父が悲痛な顔で、ト吉さん達と横たわる私の顔を覗き込んでいた。
「碧! わかるか?!」
「あぁ助かった!!」
「無事で良かったな!」
みんな眉尻を下げ、口々に安堵の声を上げる。
ゆっくり起き上がると、父ちゃんは心底ホッとした表情で私の頭を、クシャッと掴んだ。
「父ちゃん‥‥」
「よく戻ってきたな。お前は導き手に連れ去られるとこだったんだ」
「えっ! それじゃあたし、番人に選ばれたの?」
「バカ言うな! お前まで番人にされてたまるか! 魂を抜かれちまうんだぞ!」
強く言い放ったあと父は、ハッとする。
私はしっかり聞き逃さなかった。
「父ちゃん、今お前までって言った?」
少しの沈黙のあと、観念した父がゆっくりと告げる。
「お前の母ちゃんは、導き手に魂を抜かれたんだよ。母ちゃんが父ちゃんの船に、どうしても乗りたいって言った日だ。覚えてるか?」
「うん」
何故か自分でも不思議なくらい、父の言葉に驚かなかった。まるで既に知っていることのように聞こえた。
「母ちゃん、夜の海に浮かぶ御霊を弔いたいんだって聞かなくてな」
「うん」
「母ちゃんは心が綺麗だったからな。御霊に手を合わせている母ちゃんの魂を、あっという間に導き手が連れ去ってしまったんだよ」
もう寂しさも感じなかった。とっても母らしい最期だったのだろうと、むしろ誇らしさすら感じてしまう。
それもそのはず私はついさっきまで、母の温もりの中で全てを悟ったのだから。
あの日、母は自らの宿命を受け入れたのだと。
「さっきの龍神さん、きっと母ちゃんだよね」
言うか言うまいか少し迷ったけれど、自然と口からこぼれた。
「お前もそう思うか?」
「うん」
「‥‥そうか」
少し戸惑うも、私の言葉に父の顔が綻んだ。
「母ちゃん、きっとあっちで大忙しだね」
明るい声で言ってみると、父は眉尻を下げ今度は切なく微笑む。
「あぁ、そうだな」
その目に、キラリと何かが光った。
漁師仲間の漁猟船に、再び漁り火が灯る。
帰港の掛け声が上がると、疎らに船が帰っていく。
「父ちゃん、帰ろうよ」
「よし。家に帰ったら、母ちゃんの仏壇に烏賊を供えような」
月は青白い光と静寂を取り戻していた。
空をぐるりと見渡すと、幾千もの光の粒が白い靄の河の中で瞬いていた。
昔、祖母がよく話してくれた碧い月の伝説は、本当にあった。
けれどもあとにも先にも、あの光の番人を見たのはあの日だけ。
歳を重ねるごとに記憶は薄れていくと言うけれど、私は大人になった今でも、碧い月夜の海で光の番人となった母との再会をずっと忘れない。
おわり
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