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2 キャラメルは幸せの味がする
近頃、僕の一日は昼に始まる。
遅く起きて祖父母と一緒に昼食を取ってから、祖母の手伝いをしたり、自分の雑用を片付けたり。そうこうしているうちに日暮れが近くなり、家の裏手にある神社へと赴く。
ここ天星町の外れにある森の中に鎮座する天星稲荷神社、その近くにある夜カフェ『夜迷亭』。それが、現在の僕の職場である。
先日、店主から直々にスカウトされたのだが、接客業は初めてな上にその手の仕事にまったく自信がないので、とりあえずバイトから始めさせてもらっている。
ここの店主である白銀さんの正体は、天星稲荷神社の祭神、通称天星様だ。
千年以上も生きている天狐という強力な狐のあやかしで、普段は人に変化して暮らしている。ちなみに、人であるときの名前は稲荷宮白銀というらしい。銀髪銀瞳のキラキラした外見と同様に、名前までキラキラだった。
白銀さんの存在は祖父母にも認識されている。ただし、その正体が神社に祀られている天星様であることは知らない。それを知っているのは今のところ、人間では僕だけだ。
神様のカフェでバイトをするという非日常的な出来事は、僕にとってだんだんと当たり前の日常と化しつつあった。最初は戸惑いもあったけれど、始めてみるとこれが結構楽しく充実している。
なんの取り柄もない僕を、神様である白銀さんが必要としてくれた。そのことが、これまでなにに対しても消極的に生きてきた僕の背を押して、不思議な世界へと足を踏み入れることになったのだ。
☆
「こんばんは、お疲れ様です」
『夜迷亭』は既に入口が開いていて、中では風斗先輩がひとりでモップを掛けていた。ドアを開けた僕を見て、先輩はムッとした顔でモップを突き付けてくる。
「遅いよ、恭也! 普通、後輩は先輩より早く来て掃除するもんじゃないの?」
「すみません、風斗先輩! すぐ代わります!」
『夜迷亭』の営業時間は日暮れから夜明けまで。開店時間がきっちり決まっていないので、出勤時間もアバウトなのである。
僕は慌ててモップを受け取ると掃除を始めた。
ふと見ると、先輩はなぜか険しい表情を弛ませて口元をむずむずさせている。
「……先輩、悪くない」
小声で呟くのが聞こえた。これまで店には彼より下っ端がいなかったので、先輩扱いされることがまんざらでもないらしい。僕に対してやたらと先輩風を吹かせてくるが、こういうところが可愛らしい。
サラサラの金髪に宝石のような緑の瞳という、どこから見ても外国の美少年である風斗先輩は、白銀さんの眷属であり、野狐という狐のあやかしだ。
人間に変化するとなぜか幼くなってしまうらしく、夜間営業の『夜迷亭』では労働基準法違反を疑われそうな外見だが、これでも実年齢は僕よりも上だという。
「恭也、掃除はいいから、先に着替えて来てよ」
「あ、はい。それじゃ、お願いします、先輩」
先輩の口元がまたむずむずしている。わかりやすい。
僕は急いで厨房の奥にあるバックヤードへ駆けこむと、白銀さんが用意してくれたウェイターのユニフォームに着替えた。黒いベストとパンツと蝶ネクタイ。これが結構かっこいい。
『夜迷亭』はこじんまりとした平屋だが、店の奥にはスタッフルームとパントリーがある。
白銀さんと風斗先輩はここには住んでいない。彼らが昼間どこにいるのかは謎だ。
祖父が言うには白銀さんは天星町の住人だそうだから、人としての住居もあるのだろう。神様がどういう家に住んでいるのかすごく気になるけど、そこまで立ち入っていいものか迷う。やはり、神様にもあやかしにもプライバシーはあると思うのだ。
フロアに戻って掃除を代わり、それが終わる頃、窓の外はさっきよりも闇が濃くなっていた。そろそろ店を開ける時間だ。
「もうすぐ主がいらっしゃる頃だから、表に看板を出して来て」
「はい」
風斗先輩は、白銀さんのことを『主』と呼ぶ。
僕は主と呼ぶ立場にはないけれど、当初は『天星様』と呼ぶべきかと悩んでいた。しかし、当人……ではなく当神が『白銀』と呼んでくれと仰せなのだ。
あやかしの常連客たちも白銀と呼んでいるから、その呼び方にも慣れてきた。白銀さんはいくつも名前を持っていると言っていたけど、もしかすると、芸名とか源氏名とか通り名とか? そんなものがあちらの業界(?)にもあるのだろうか。
店の外に出ると空はすっかり暗くなり、森の上空には星が瞬き始めていた。
神社の参道から延びている小道の両脇に並ぶ赤い灯篭に、ぽつぽつと火が灯っていく。ただの明暗センサーなのか、白銀さんの術によるものなのかは聞いていないが、それによって店を包む空気がガラリと幻想的に変わる。
黒い板に白い文字で『夜迷亭』と書かれた置き型看板を出したとき、森の中をふわりと風が吹き抜けた。
「お疲れ様です、恭也」
いつの間にやら、白銀さんがすぐ目の前に立っている。
仕立てのいい黒のベストとパンツ、皺ひとつない白シャツに黒いネクタイという洗練されたその姿は、相変わらずどこぞのイケメン貴族のようだ。
「お疲れ様です、白銀さん」
「君がこの店で働き始めて一週間ほどですが、いかがですか?」
「お陰様でなんとか頑張ってますけど、正直、疲れました」
「君はとてもよくやってくれていますよ。お客様からの評判も上々です」
「本当ですか? とてもそうは思えないですけど……」
今のところ大きな失敗はないが、僕は愛想がいいとは言い難いし、気の利いた言葉も出てこない。ただ、今はとにかく必死で仕事をこなしているという感じだ。
「君は真面目で礼儀正しい。接客において大切なことです。ですが、もう少し肩の力を抜いたほうがいいかもしれませんね」
「どうすれば力が抜けるんでしょうか」
肩の力を抜くにはどうしたらいいのかと考えて、また疲れる。僕はそういう性格だ。自分でも面倒くさい。
白銀さんがおかしそうに笑った。
「ともあれ、今夜の仕事が終われば明日と明後日は定休日ですから」
「そうですね」
今日は金曜日。『夜迷亭』は土、日曜日が定休日という、飲食店にしては恵まれた業務形態である。白銀さんの方針らしいが、日本の神様にも安息日は必要なのか。
「さあ、開店しましょうか」
店の扉へ向かう白銀さんの後に僕も続いた。
今宵も『夜迷亭』の開店である。
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