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3 無花果(いちじく)渦巻くミステリーサークル
その日、白銀さんからおつかいを頼まれた僕は、いつもより早く家を出て、天星町のとあるハーブ園へ赴いた。出勤前に、注文していたハーブを受け取りに行くのだ。
徐々に夏の日差しを感じ始める季節。水田の苗は青々として、爽やかな風が葉先を揺らしながら吹き抜けていく。
目的のハーブ園は『夜迷亭』から歩いて数分の場所にあり、その一帯は広い農地になっていた。ミントやカモミールといった西洋ハーブだけでなく、漢方薬の原料になるような珍しい薬用植物なども栽培しているらしい。
香りも薬効も優れた良質なハーブは、全国から客が買い付けに訪れる。そんなハーブ園を経営しているのは、『夜迷亭』の常連である太郎さんだ。
「こんにちは、太郎さん。白銀さんに頼まれてハーブをもらいに来ました」
畑に向かって声を掛けると、Tシャツにデニム姿のひょろりとした男性が立ち上がりこちらへ歩いて来た。
青い髪に首筋の奇妙なタトゥー、たくさんのピアス。低血圧っぽくて退廃的な美しさを感じるこの人は、あやかしの河童である。
こんなに尖った格好なのに名前は"太郎"。これは河童の代表的な名前らしい。
「用意しておいた」
「ありがとうございます」
ハーブ園の隣にある作業場について行き、大きな紙袋を受け取る。ここで仕入れたハーブで作られる『夜迷亭』のハーブティーは、香りも味も自慢の一品だ。
「少し休んで行くか?」
「いえ、すぐに戻って開店の準備をしないと」
「じゃあ、これを持っていけ」
太郎さんが手渡してくれたのは、透明な小袋に入って可愛くリボンを結んだクッキーである。驚いたことに、これは太郎さんの手作りだ。
「いつもありがとうございます! この前いただいたベーグルもすごく美味しかったです」
「それなら良かった。気をつけて帰れ」
太郎さんは微笑して、ハーブ園の出口まで僕を見送ってくれる。
見かけによらず、この人、というかこのあやかしは本当に穏やかで親切だ。細かい気配りが自然にできるし、手作りクッキーはとても美味しい。
いつも口数が少なくて近寄りがたい雰囲気だから、当初は「ハーブはハーブでも、もしかして違法のやつ?」などと失礼な想像をしてしまったことを今は申し訳なく思う。
はっきり言って、騒がしい麗巳さん黒羽さんはもちろんのこと、やや強引な白銀さんよりも常識的なのではないだろうか。
「ちょっと待て、恭也。道が塞がれている」
太郎さんがいきなり僕を引き留めた。
彼の視線の先に目をやると、前方の畦道に泥だまりがあり、そこで泥人間のようなあやかしが蠢いている。前にも見たことがあるあやかしだ。
「太郎さん、あのあやかしはなんなんですか? 以前も見たことがありますけど」
「あれは泥田坊だ」
「泥田坊?」
初めて聞く名前である。形は人っぽいが、全身泥まみれだし、人に変化しているわけではないようだ。
白銀さんが言うには、人に変化するにはかなりの妖力を必要とするらしい。『夜迷亭』で会うあやかしたちは当然のように化けているが、できないあやかしのほうが多いという。
人に変化していない状態のあやかしは、普通の人間の目には映らない。花ちゃんなどどれだけ人に近い見た目でも、やはり僕以外の人には見えていなかった。
「……ハン、タイ」
泥田坊がなにか言いながら、泥だまりの中からしだいに体を現していく。
この前もなにか言っていたが、なんと言っているのだろう。聞き取ろうとして僕は耳を澄ませた。
二本の腕がにょろっと伸びたかと思うと、それを支えにして、泥田坊はぬかるみの中からぴょんと飛び出した。
頭も手足も泥で出来た、小さな子供くらいの人形のようなものが立っている。頭部には穴が空いただけの目と口があり、真っ黒な雪だるまのようで、ちょっと可愛くないこともない。
なにをするのかと見ていると、泥田坊は両手を上げて叫んだ。
「パンショク、ハンタイ! ニッポンジンナラ、コメヲクエ!」
それから、すぐ近くの水田に華麗なフォームでとぽんと飛び込む。稲のあいだにその姿が消えると、あたりはシンと静かになった。
意味がわからない!
あやかしは人の理解を超えているが、今まで見た中で一番謎の行動だ。
「もう行っていいぞ」
「太郎さん、今のはいったいなんなんですか?」
「泥田坊はああやって、誰彼構わず米食を推奨して回るだけで害はない。だがウザい。そういうあやかしだ」
「……そうなんですね」
そんな主義主張を持っているとは……。
本当にあやかしもいろいろだ。害がないどころか、米農家さんにとってはありがたいあやかしではなかろうか。
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