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マグノリア
「先生よ、何だってそんな所にいやあがる」
「……上ったんです。夕陽を眺めたくて」
地面からほど遠く。白木蓮の黒い細枝に、まるでソファにでも掛けるように体を預ける。好い香りがした。一番太い枝に座ったが、冷たい夕凪が吹けばキシキシ泣いて頼りなく揺れた。
「──どうせなら、もちっと頑丈な木に登れ。危なっかしくて見ちゃらんねえ」
「大きなお世話ですよ」
僕は視線を夕景に逃がす。ロイド眼鏡はすっかり冷え切って、落日のうつし世を歪に反射す。好い香りは足早に風下に流れた。
「したっけお前さん、それじゃてめえで降りられめえが。ちいと待ってろい」
慈兵衛さんは短い髪を掻きながら、脚立を担いできた。高い鷲鼻をサッと親指で擦る。
「ここんとこ、ゆーっくり先に足置けい」
「……厭です」
「あ?」
慈兵衛さんはふと考えて、今度は自分が脚立を登ってきた。
「ほら来い。降ろしてやる」
「……別に怖いってんじゃないんです。降りたくないだけで」
「何でえ、そりゃ」
不満顔を見下ろすと眼鏡がするりと前へずれた。正そうと枝を離れた僕の手を、慈兵衛さんは離すなと言った。
「……来てください」
「来てったって、お前さん一人座ってんのも奇跡だぜ。その枝はよ」
僕は慈兵衛さんの羽織の袖を引いた。小枝に髪を引かれる。目元に白い花が当たる。耳元でパキッと小さな音がした。
「──来て」
「お前……」
慈兵衛さんは何も言わず、僕の座る枝に手を掛けた。華奢な黒い枝は、幹は、ただそれだけでギシッと揺れた。何方が腕で何方が枝か分からない。切切と日は落ちる。
「……そんなに俺と逝きてえのかえ。人の姿を借りてまで」
くるくる廻る白い花。降って僕の目元を秘す。
『──如何しましたか本山軍曹。
柳の幽霊でも見たような顔をして』
僕は思わず自分の口に手を遣った。
**********
憑かれているのと疲れているの、どっちが怖いのでしょうね。白木蓮は落ちたら助からないような高木、それに立て掛けるだけの長い梯子をすぐ持って来られたのも奇妙。慈兵衛さんはどの話でも幽霊を怖がらない。
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