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一世一代
「おたまや、おいで。おいで」
都司が廓の瓦を見上げて呼ぶと、黄色い瞳をした黒猫が何処からともなく降ってきた。それは角海老楼の白い時計塔がよく映える、夕暮れ時のことだった。
「何だよそいつ。お前猫飼ってたっけ?」
「太夫の猫ですよ。でも僕に懐いてる」
おたまは大名縞の着物にずりずりと頭を擦り付けて、『これは私の男だよ』と言わんばかりに媚びていた。
「このところ主人が『まる』と呼んでも来ないのに、僕が『おたま』と呼ぶと飛んでくるようになりましてね。少し悪いけど、可愛いもんです」
「ふーん、おたまね。おたまー」
おたまは俺にプイと背を向けた。都司の足袋にぐりぐり額を擦り付け『みやあ』と仔猫のように鳴いた。
「チッ、俺ァ鹿十かい」
「恭さんだけじゃないですよ。皆にそうですから」
お前は人見知りなんだよね、賢くて。都司の言葉を解するように、おたまはニャニャと相槌を打った。
「ほら美味しいよ。たんとおあがり」
都司は落ちる袂を留めながら、小皿に乗った煮干しをやりに軒先に屈んだ。どうにも面白くない俺は、それをパパッと二匹ちょろまかした。
「あっ」
「ほんとだ美味えや」
都司がムッとして俺を窘めようと腰を上げたその時、『どらねこ!』と確かに聞こえた。
「泥棒猫とは何だよ。たかが煮干し二匹ぐれえで」
「僕まだ何も言ってません」
都司と俺は暫く互いの顔を見て、どうやらどちらも嘘を言っていないらしいことを感じ取った。とすればさっきの言葉は──
おたまはじっと俺を見上げている。見上げながら煮干しをもぐもぐやっている。ほんの少し身動ごうもんなら、皿を前足で引き寄せて『これは私のまんまだよ』とやった。ガチリと大時計の針が動いた。
煮干しの骨は奥歯に細く挟まって、なかなか取れそうになかった。
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猫は一生に一度だけ人語を話すと言われています。
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