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春の葬式
軍曹がお歯黒溝を渡る。年は三十路の中頃か。顔の左に在る生々しい向こう傷が、秋風に冷えてじくじくと痛んだ。それは宛ら黒く恐ろしい獣につけられた爪痕の様だった。
軍曹の手には風呂敷に包まれた桐箱があった。大きな腕にしてみれば小脇に抱え歩けるようなものなのに、彼は何故だが両手で抱き抱え、後生大事に其れを運んだ。
痴れた桜が咲いている。
彼岸桜の花弁は孤独に苛まれる心の隙間に冷たく舞い込んだ。
あたりは宵闇にとうに汚されて、金銀砂子を散らかして沈んでいる。
軍曹が足を止めた菊の籬の庭先に、美しい子供が居た。禿に見紛うほどの麗しい化粧を施して、小さな白い顔を傾げている。
軍曹は風呂敷を道端で寛げ、桐箱の蓋を開けた。中には軍帽と肩章、そしていくらかの青白い骨が入っていた。軍服は余りに千切れ過ぎていて収める事が出来なかった。その事を詫びてから、軍曹は道すがら買った敷島を其処に添えた。
「──すっかり軽くなっちまったな」
低い鼻声で呟いて、軍曹はさらさらと乾く其の蓋をそっと閉じた。
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【解説】
昔の話。桜は刺青にしました。あれから一度も吉原には行かない。
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