第12章 自由

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「いえ、何の役に立つかもわかんないですけど。せめてそのくらいは…。わたしの我儘で外に出て行くのに。水底さんには本当に、最初の頃から最後まで。ずっとよくしてもらってばっかりで」 そんなことをごにょごにょと目立たないよう、木の陰でやり取りをしているうちにバスの来る時間になった。 この村は始発兼終点の地なので、空のバスが坂の向こうからやって来る。幸いなことに中途半端な時間の上りの便には、わたし以外の他の乗客は一人もいなかった。 乗り込む前に水底さんとそっと軽く抱き合う。 「…ほんとにありがとう、水底さん。あなたがいなかったらわたし…。こうやって自分の足で歩いて出て行くほどの元気も取り戻せなくて、立ち直れないままだったかも。忘れません、わたしに。…してくれたこと」 彼女と交わしたさまざまな行為や言葉を思い出し、何とも甘酸っぱい気持ちでいっぱいになる。こんなこと言っていいのかな、とちょっと逡巡したけど。結局耳許に唇を寄せてごく小声で囁いてしまった。 「水底さんとしたこと。多分全部ずっと、これからも覚えてる。…女の人とは。後にも先にも、あなただけになると思うし」 「わたしも」 彼女のふわふわした胸の感触が息が止まりそうなほど強く押しつけられて、わたしのあちこちが変な風に反応して大変なことになりかける。…この身体と。あんなことやこんなこともしたなぁ。最後に何とかもう一回できなくて、それだけは少し。…心残り、かも。 水底さんもわたしの頬に自分の頬をそっとすり寄せて、愛おしそうに囁く。 「いっぱい、数えきれないほどたくさんの人と何でもしてきたけど。…柚季ちゃんは特別。身体だけじゃなくて。セックスって心も交わるものなんだってわかった。ありがと、わたしの人生に。…色を与えてくれて」 わたしたちは名残惜しくお互いの身体を放した。 昼間だし、一応人目もあるから最後のキスは残念ながら諦める。それでもやっぱりバスの運転手さんが好奇の目を向けて来なくて助かった。まあ、久しぶりに会った友達同士か何かだとでも解釈したんだろう。別れ際に抱き合って親しく言葉をかけ合ってる女の子同士が実は半分恋人みたいな関係だなんて。普通の人はあんまり想像しないと思う。 まだ本格的に寒くはなってない季節なので、遠慮なく窓を開けて発車間際に彼女と顔を合わせる。水底さんは手を振りながらまっすぐにわたしを見上げて告げた。 「あとのことは心配しないで。上手くごまかすわ、トイレに行くって言ってそのまま帰って来なかった、一応周辺を探して回ってたんだとか言い訳しとくから。…気をつけて行ってね。無事にお母さんと会えたら、後でいいから。必ず教えて」 「はい。水底さんもお身体気をつけて。あの人たちにはあなたは何も知らなかったことにしておいてください。絶対連絡します、落ち着いたら。…あの二人のLINEはブロックするけど」 「そうして。…わたしのも一旦ブロックした方がいいかも。念のため名前を変えたメールか何か別の手段でやり取りしましょ。ほとぼりが冷めるまで、ね」 停車時間が終わり、ゆっくりとバスは動き出した。なるべく目立たない位置に引っ込んで、彼女はまだこちらに向けて小さく手を振ってる。 その姿をずっと見つめていたら、たまらなく胸がぎゅうっと痛くなって苦しさが止まらなくなった。 ほんとにこれでよかったのか。あの人をここに一人残して、自分だけ因習から逃れて。 無理にでも、強引にでも連れて来ればよかった。きっと外の世界に自分の居場所はないだろうと勝手に思い込んで最初から諦めてるんだ。そんなことはないよって、仮に何もできなかったとしても役目なんて別になくても。誰でも自分のいたいところにいていいじゃんって、ちゃんと力強く説得してあげられたらよかったのに。 バスはあっという間に坂を下り始めて、水底さんの小柄な身体はもう既にわたしの視界には入らない。 …でも、仕方なかったのかな。わたしは小さくため息をつき、深々と座席の背もたれに背中を沈めてその振動に身を任せた。 あの人だってれっきとした二十歳の、わたしより大人なひとりの独立した人間なんだ。 彼女が自分で考えて判断したことを間違ってる、と決めつけられるほどわたしの方が絶対的に正しいわけじゃない。…そりゃ、この村にそこまでして全人生を捧げるほどの価値があるのか?水底さんが村のためにしてあげてる貢献度に充分報いるほどのものを、村は彼女に与えてあげられるだろう、とは。…正直全然思えないが。 それでも、他人様が真剣に考えて出した結論を無視してまで力尽くで引きずっていくべきじゃない。少なくとも今はまだ、それを強行したとしても彼女の納得は得られそうじゃなかった。 結局、充分な時間が必要だ。と目を閉じて考え、バスのタイヤが路面と接して生み出す細やかなリズミカルな振動にゆったりと身を任せる。まだどこか落ち着かず、辺り構わず絶えず周囲をチェックしたくなる焦りを抑えて何とか自分自身を鎮めようとしながら。 これからも連絡を取って、外でのわたしが楽しく充実した毎日を送ってることを彼女に伝えてあげられたら。
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