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21 持たぬ者
さらに神官長はその次に、それ以上に大きな話題を持ち出していた。
『最後のシャンタル』
今のままでは確かにその可能性が高い。次代様が最後のシャンタルになる可能性が。
キリエは神官長を「秘密を共有している相手」と認識はしていたが、さきほど本人が口にしていた「自分の人生の続く間には何も影響のないこと」として、知らぬ顔を通すであろうとも思っていた。八年前、それが「神の死」という前代未聞の出来事であったとしてもその姿勢が変わらなかったように。
だがそれは間違いであったようだ。言い換えれば「甘く見ていた」と言ってもいいだろう。それでもキリエも他の人間と同じくそう思っていたのは事実だ。
それが、気がつけば取次役という役職を立て、宮の中を思い通りにしようとしている。気がついてはいたが、全ては先代が戻ってくる日のため、そう思ってあえて反応はせずにいた。いらぬ揉め事のないように、できるだけ宮の中が平穏であるようにと。
もしかしたら次の交代はないのかも知れない、次代様はお生まれにならないのかも知れない。そう思うこともあったが、それでも黙って耐えてきたのは「黒のシャンタル」がいらっしゃったからだ。
千年前の託宣にあったように、もしも先代が託宣に従わず、神ではなく人としての選択をされていたら、その時にはこの国にも世界にも滅びの日が来たのかも知れない。
「だけどそうはなさらなかった。神としての選択をなさった」
そのほんの少し前までラーラ様とマユリアの中で眠るように己を持たずいらっしゃったのに、たった二十日ほどの間に赤子から神へと成長された。わずか10歳という幼さで、神として正しい道をお進みになったのだ。だからきっとこの道で、今の道で正しいはずだとキリエは自分に言い聞かせる。
神官長という人間は確かに頭脳だけは優れた人間であると認めていた。だからこそ、前任の神官長の勇退時に起きた跡目争いの際に緩衝材として神官長の職を引き受けることになったのだ。日和見であってもなんの能もない人間に、仮に期間限定とはいえ任せられる職ではない。
だが同時に、正式に権力争いが決着した時には素直にその座を明け渡すだろう、そう思われていたことも事実だ。キリエもそう思っていた。それほどに事なかれ主義、おどおどとした自分の考えを表には出せぬ人間だとばかり思っていた。
自分が神官長という人間を見誤っていたのだろうか。キリエはそう考えて、いや、そうではなかろうと思い直す。当時、間違いなく神官長は「そういう人間」であった。
キリエがそう考えるにはちゃんとした根拠がある。キリエと神官長が共有しているあの秘密、それを一度だけ、神官長が思い余ったように話題に出そうしたことがあった。
「あのキリエ殿、当代のご誕生についてなのですが……」
「黒のシャンタル」が生まれて間もなく、わざわざ神官長がキリエを訪ねてきて、おずおずと、それでも決意を秘めた顔でそう話を切り出してきた。
「なんでしょう」
物問いたげな神官長にキリエは一部の隙も与えずに、ただただ鋼鉄の仮面を向けた。
「いえ、あの、特に大したことでは……」
それだけで神官長は何も言い出せず、そのまま話は終わりになった。
そのことで神官長が理解しただろうとキリエは理解していた。
決して口に出してはいけない秘密はある。そのことを伝え、伝わったと思っていたのだ。
それ以来十八年、そのことに一言も触れなかった神官長が今になってその話題を出してきた。しかも、前回とは違って意味有りげに、自信たっぷりに。
「一体何があったというのか」
キリエがポツリとつぶやく。
そう、神官長は変わったのだ。当時のそういう人間ではなくなったのだ。
人は何かをきっかけに変わることがある。それはキリエ自身も自覚していることだった。
あの出来事でトーヤたちと知り合い自分は変わった。以前の自分は何があろうと鋼鉄の仮面の侍女頭そのものであった。その意識は今も変わらない。自分を見る多くの者の目も変わることがない。だがその仮面の下で「何か」が変わってしまった。そう思う。
思うに、自分は何も持っていなかったがために、その仮面をかぶり続けることができたのではないだろうか。さる大貴族の庶子として生まれ、5歳の時に行儀見習いとして宮に入れられた。13歳の時に実父が亡くなったことから誓いを立てて生涯宮で過ごすようにと言われた。親族の情も慈しみも知らずに育ち、なぜこのような身の上なのかと思うことはあっても答えは出ず、ただひたすら宮に仕えることだけを考えて今日まで来たのだ。
それが八年前の思わぬことから思わぬ者たちと関わりを持ち、笑うことを、幸せを感じることを知った。そうして変わった。
おそらく神官長の上にも何かそのようなことが起こったのだろう。自分と同じく、何も持つこともなくひたすら真っすぐに道を歩くしかなかった神官長が変わるような出来事が。
だが、その身に何が起きたのか、それは想像をしても到底分かることではなかろうと思った。
「それが分かれば何か方法が分かるかも知れないけれど」
キリエはまたポツリとそうつぶやき、ゆっくりと目を閉じた。
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