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怖い――だが、伝え聞かされているほどに卑しくは感じない。
むしろ魔族はとても原始的で美しいとエレノアは思った。
「庇護を施したつもりか……忌々しい帝国の人間……」
薬草を塗ってやると、男の顔色がわずかながらに血の気が通ったように見受けられた。男は痛みに顔を歪めながら巨木に躰を預ける。
「清きオーディア様を信じる我が国が、愚かであるわけがありません」
男は氷のような目でただエレノアを一瞥した。
「あなたがどうしてそのように人間を憎悪するのか……そのお心を私が理解することは難しい。ですが、他人からの善意を疑うなど、あまりに嘆かわしく、悲しいことでございます」
女神オーディアによって厄災が沈められてからというもの、ことの元凶となった魔族と人間は互いに住む世界を切り分けたとされている。
以降、現在に至るまで二つの種族が相交えることはなかったとされていたが――果たして、本当に魔族なるものがこの世に存在していたとは。
まさに晴天の霹靂であった。
書物でしか知り得なかった存在。人間とは異なる生命。エレノアは、目の前の美しい魔族に魅入られていた。
「私はエレノアというの。あなたの、お名前は?」
「………」
「どうか教えてくれないかしら」
先程から口がきける程度には薬草が効いているようであった。
問いかけに対して魔族の反応はなかったが、エレノアは義務感に駆られて傷の手当てに集中する。
ポーチから包帯を取り出すと、特別な祈りを施した。
「忌々しい人間の娘が。よほど食い殺されたいようだ」
「いいえ、食い殺されたくなどありません。それに、あなたのお名前を伺ったらいけないのですか?」
エレノアはどういうわけか、この美しい異種族の男を知りたいと思った。
怖いのに、近づきたくなる。残酷なまでに神秘的で、煌めく瞳に引き寄せられる。
何故かわからない。この感情はどこから沸いて出てくるものなのか。
わき目もふらずに手を伸ばしたくなるような感覚は生まれてはじめてだった。
今頃ターニャが青ざめた顔をして探し回っているかもしれない。であればこの森の出口を早く探さねばならないというのに、エレノアは男のそばから離れられなかった。
(冷たくて、とても悲しい瞳)
エレノアは静かに見つめた。
「人の娘。おまえは、俺が恐ろしくはないのか」
地面が震えんばかりの低い声は、この森と共鳴しているようであった。
この男は何故、これほどまでに人間への怨嗟を膨らませているのか。エレノアは只知りたいと思った。
「恐ろしいか恐ろしくないかと聞かれたら、すごく……恐ろしい」
「ならば、何故助けた」
「ただ、死んでほしくなかった。あなたがたとえどんな存在であろうとも、命というものはとても尊いものよ」
男の躰に包帯を巻いてやり、最後に今一度女神オーディアへ声を届ける。エレノアにできることは、祈ること――それだけであった。
「このような深い森の中で、一人苦しみ、孤独のままに息絶えるなど寂しいでしょう。それは人であれ、魔族であれ、同じこと」
「今に助けたことを、後悔するぞ、人間」
魔族の男が目を細める。薬草が効いているといえど躰に障るのか、こめかみからは汗が流れていた。
「それでもやはり、このような暗い森の中で独り逝くのは、寂しいことです」
川霧が悠然と流れていく。
「どうか、名前を教えて?」
「浅慮な女だ」
「そうかもしれない。あなたは人間が憎いのかもしれないけれど、私は、あなたのその瞳……その翼、とても美しいと思ったわ」
エレノアはサンベルク帝国の安寧のため、女神オーディアへ祈り続けた。
それは国民の願いを聞き届ける大業であり、誇りに思うべきことなのだろう。
だが、それ以上に男をこの手で救った出来事は、エレノアの胸に訴えかけてくるものがあった。
ざわざわと木々が薙ぎ、白銀の人間の娘と黒き翼をもつ獣の男が対峙する。
「その傷では当分はこの場から動くことができない。だから、できれば最後まであなたの手当をさせてほしい」
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