第一章 ー外の世界ー

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          三  エレノアが宿屋に戻ったのは日が落ちた頃であった。ターニャは血相をかえてエレノアを出迎え、心身の憂慮をした。  エレノアは心配をかけてしまったことを謝罪しつつも、イェリの森で出会ったオズという男の身を案じた。  できれば今にでも薬草をこしらえて戻ってやりたかったが、今日のところはターニャの監視の目をかいくぐることは難しいと判断せざるを得なかった。 (オズ…)  その晩、エレノアが眠りにつく際に、窓辺に大きな満月が浮かんでいた。きらきらと輝くその月を眺めると、森で出会ったあの漆黒の魔族の男の姿を思い起こす。  人間を拒絶する瞳は刃のようでもあり、また、ひどく傷ついた色をしていた。あれほどまでに深傷を負い、死にかけていたというのにも関わらず、我が身を案ずることもせずに只ひたすらに人間への怨嗟を募らせていた。  あれほどの怨恨を抱いていたということは、かつてよほど愛していたものがあったのだ。それは、生まれてからこの方離宮で暮らしていたエレノアが抱いたことがない感情であった。 (あなたの傷はどうしたら癒えるのかしら)  己に向けられた圧倒的な敵意の目がどうにもエレノアの脳裏から離れない。エレノアは月を眺めながらオズという男のことを考えていた。 「皇女殿下、よいですか? 本日も少々おそばを離れることになるのですが、くれぐれも遠出はなさらないように」 「分かったわ。心配をかけてしまってごめんなさい」  翌日もターニャは公務で外すようであった。エレノアはそんな彼女に申し訳ないと思いつつも、隙をみてイェリの森に通うつもりでいた。そのために薬草をたんまりとポーチに詰めてきている。 「皇女殿下はもう十六になったのですよ? 女は野に放たれるからこそたくましく成長するものです」 「キャロル女官長…! 何をおっしゃるのですか? 皇女殿下はわが国の大切な…!」 「“大地の姫君”。だからこそ、皇女殿下は世界を己の目で見て、学ぶべきだと思いませんか?」  捲し立てているターニャをよそにキャロルは優雅にお茶を飲んでいた。 「ですが、皇女殿下の身に何かあったりすれば…!」 「ですから、ターニャは心配がすぎるのです。あなたは、エレノア皇女殿下が何もできないか弱い少女だとでもお思いなのですか?」 「…っ、そのようなことは、申し上げてはおりませぬ」 「ならば、私たちは彼女を信じ、見守り、時に必要とあれば支えて差し上げましょう」  エレノアはキャロルに頭が上がらない思いであった。また、昨日の出来事を打ち明けられていない部分に後ろめたさも感じた。  きっと魔族と出会ったことを話してしまえば、あの森に近づくことを許されなくなってしまう。それだけでなく、王都に伝わればあの森が粛清されてしまうかもしれない。そうなってしまえば、深傷を負っているオズの身に危険が及んでしまう。  エレノアはこれまで、このような強い私欲を抱いたことはなかった。何かをなし得たいと思うこともなかったのだ。 「キャロル女官長、ご温情ありがとうございます。ターニャ、決して心配させることはしないわ」 「皇女殿下…」 「自分の立場は弁えているつもりよ。ただ…今は、もう少しいろんなものを見てみたいの」  ターニャはしばし難色を示していたが、エレノアの質実な眼差しに肩を落とした。 「では…くれぐれも御身を大切になさってくださいよ?」 「ええ、約束するわ」 「それから、王都よりハインリヒ様の使いの者の来訪がありました。近々この付近で国境防衛軍の遠征があるようで、皇女殿下にご挨拶に伺いたいと」 「そうですか。ハインリヒ様が…」  ターニャの口から聞かされた“ハインリヒ”の名前にエレノアの背筋がピンと伸びた。ハインリヒからの求婚に何の返事もしていないからだ。 「まあ、このような東の果ての町までいらしてくださるなんて、まるでロマンスのようだとは思いませんか? 皇女殿下」 「…キャロル女官長、オーディア様の信徒であるにも関わらず、ロマンスなどと。はしたないですよ」 「あら、良いではありませんか。生真面目で融通がきかない女など、つまらない」 「何故あなたのような怠惰極まりない者に、女官長が務まっているのか! 女神オーディアへの冒涜だ!」 「あらあら、そうカリカリしないでくださいな。けれどそうねえ、ハインリヒ様には申し訳ないけれど、エレノア皇女殿下はハインリヒ様にご執心ではないようですし…」 キャロルは微笑を浮かべて紅茶を一口流し込んだ。 「伴侶探しのことはしっかりと考えているわ…。ハインリヒ様は、その、私にはもったいないくらいに素敵な男性だと思っています」 「では、今にでもハインリヒ様を伴侶として迎えられるべきでは? 彼ほど皇女殿下にふさわしい殿方はいらっしゃらないでしょう」 「そ…そうかしら」 「そうでしょうとも。我が祖国を防衛する若き軍人の将が伴侶となれば、民への影響力も絶大でございます。きっと皇帝陛下も安心されるでしょう」
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