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木々がざわざわと薙ぐと、まるでおぞましい呻き声のように聞こえた。閑寂たる風はエレノアの背筋を粟立たせ、得体のしれぬ寒気すら感じさせる。
立ち込める深い霧。鬱蒼と茂る緑。どちらが北で、どちらが南であるのか分からない。森は、訪れた者を飲み込む迷宮のようであった。
「レックス、いい子だから、ゆっくりね」
剥き出しになった木の根を、愛馬が怯えるように踏み超えていく。霧の中でエレノアの長い白銀の髪がひらりとなびく。宝石のごとき碧色の瞳が、夜のような森の中でまばゆく煌めいた。
エレノアはどうどうと声をかけ、軽く手綱をさばいて宥め聞かせる。
自身の不安が伝わらないようにと、できるだけ気丈にふるまった。
──それにしても、帰り道をすっかり見失ってしまった。
エレノアはちいさく喘いだ。深い森の中には目印になるものなどなく、同じ場所を何度も通っているようにも思えた。
乗馬が上達したからといって遠出をするものではなかったのかもしれない。広大な大地を駆け回ることがつい楽しく、あと先考えずにこのような森の中に入ってしまった。
(本当にどうしましょう…)
進めども戻れども、出口は見つからない。ただ生き物のようにうねっている木々がエレノアを覆いこむだけだ。
心のよりどころになる人間がいない。幾度声を上げても返事はこない。エレノアを包み込むのは不気味な静けさだけ。このまま永遠にひとりぼっちになってしまうのではないか。
エレノアはこのような寂莫たる恐怖を知っていた。
(あの頃と今は違うのよ。私はもう十六になったのだから)
手綱を握り、エレノアは自らを奮い立たせた。
「このあたりで少し休みましょう」
ヒカゲ草が群生している小川のほとりで愛馬の足をとめる。エレノアは愛馬から降り、川の水を両手で掬って喉に流し込んだ。
ふわり、風が吹いてエレノアの白糸のような髪が舞い上がる。
草木が薙ぎ、木の葉が落ちてくる。ふと何者かの気配を感じ、エレノアは顔を上げた。
誰か……いる。
とたんに霧が晴れてゆく。
背筋がぞくりと震えた。大きなクスノキの下には、光をひとつも通さない美しい漆黒があった。
(人…? いや、違う)
――綺麗。
まがまがしい黄金の瞳。優美で凛々しい角。私と同じように、鼻も耳も、口もある。そして、鈍く輝く一対の黒翼。ぎょろりとした目がエレノアをとらえると、空気が冷たく凍り付いた。
「あ、あの、お怪我をされているのですか……?」
魔族(イェリ)だ。
姿はほとんど人と変わらないが、エレノアにはない大きな翼や角がそれを物語る。
本物を見るのははじめてで、身が強張った。震えあがるほどにおそろしかった。今に食われてしまうかもしれない。だが、エレノアは自ら声をかけずにはいられなかった。
金色の羽織に真っ赤な血がにじんでいた。よく見ればクスノキの下一帯に、血だまりができている。エレノアは怯えつつも、使命感に駆られて男のもとへ歩み寄ろうとした。
「近寄るな──人間」
天地が震えるほどの声だった。
すべてを拒絶するような、怒っているような、酷烈な低音。男は目を吊り上げ、口の端から湯だったような禍々しい吐息を吐いた。
愕然と足がすくむ。本来であれば今すぐ逃げなくてはならないのだろう──だが。エレノアはそれでも、傷のことが気がかりで見過ごすことなどできなかった。
(放っておいたら、死んでしまう)
愛馬に声をかけてから、さらに男へと近づいた。色白い肌に漆黒がよく映えていた。
美々しすぎて恐れおののくとは、このようなことをいうのか。
「……食い殺されたいのか」
月のような瞳がぎらりと光った。
「去れ。忌々しい」
エレノアは震えながらも、男から目を逸らさなかった。
喉をうならせて威嚇をしようとも、魔族の男はとうに立ち上がる力など失せていた。
エレノアは男の前に膝をつき、出立時にこしらえてきた薬草を取り出す。
「触れるな」
「大丈夫。――誓って、私はあなたを害すことはいたしません」
ざわざわと木々が薙ぐ。
陽光のささぬ孤独な森の中、人間の娘と魔族の男は、邂逅した。
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