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第一章 ー外の世界ー
一
「エレノア、十六の誕生日本当におめでとう」
格式のある高い天井に向けて、やさしくてあたたかな声が響いた。伝統的な装飾が施されているマントを翻し、男はエレノアの顔をよく窺う。エレノアは緊張しながら表情を引き締めた。
「サンベルク皇帝陛下のご尊顔を拝し、恐悦至極に存じ奉ります」
大地の女神の国――サンベルク帝国。
エレノアの正面に立っている人物は、この国を統治する王、その人である。
まさに天照らす陽光のような人物だと、エレノアは敬愛のまなざしを向ける。
片足を引いて礼をとると、サンベルク皇帝はこれを制した。
「ここでは父上でよいと言っているであろう」
エレノアは気恥ずかしくなり、とっさにうつむいた。
「で……ですが、よろしいのでしょうか」
「かまわん。どうか父と呼んでおくれ。我が娘、エレノアよ」
――エレノア・ラ・サンベルク。
白銀の髪と碧色の瞳を持つサンベルク帝国第十三代皇女はこの日、十六になった。
「は、はい……ち、父上」
サンベルク帝国の皇女にとって、十六という節目は至極特別な意味をもつ。
エレノアは今日という日を心待ちにしていた。
「長らく離宮で過ごすのは寂しかったろう。宰相どもが口煩く、自由に外出することも叶わなかったからなあ」
「いえ、そのようなことはございませんでした。それに、父上がたくさんの贈り物をしてくださっておりましたから」
エレノアは、生まれてから昨日までの十六年間を離宮で過ごした。
西部の森の中にあるごくちいさな離宮は世間的には秘匿されていて、尋ねる者は王室の関係者のみだった。
サンベルク帝国の皇帝である父とは、当然自由に面会することは叶わない。
また、エレノアの母も物心がつく前に亡くなっていたため、幼少期から今までを乳母に育てられた。
乳母とエレノアは、あくまでも皇女と指南役という間柄であり、親と子のそれとは異なっていた。
乳母はエレノアを立派な皇女として育てるべく日々研鑽した。それが乳母にとっての矜持でもあったのだ。
日中、エレノアは大陸神話や帝国の歴史を学ぶ。時に淑女としてのマナーもしこまれた。
すべては敬虔な皇女になるため。女神オーディアへ皆の祈りを届けるため──と。
夕食以降の時間帯はたとえ庭先であっても外出は許されなかったため、エレノアは基本的に自室にて一人で過ごしていた。
木製のベッドと机、本棚が置いてあるだけの狭い部屋。天井に近い位置にある窓はとても小さく、日中であってもあまり日が差し込んでこなかった。
そのため、王都の華やかさを前にするとエレノアは激しく緊張をしてしまう。
つい昨日まで過ごしていた離宮は、この宮殿のように豪華絢爛な装飾は施されていなかった。
「私はこのサンベルクの“大地の姫”でございます。オーディア様に祈りを捧げられるのは代々、皇女のみ。この力を決して途絶えさせてはならぬと心得ております」
エレノアはうやうやしく礼をとると、サンベルク皇帝の前で誓いの言葉を並べる。
女神オーディアは、サンベルクの民が崇め奉っている"大地"の神だ。
今から2000年前。神話の時代に大陸全土を飲み込む大厄災が生じた。四方を囲む海は荒れ果て、大地は干からび、空には常に分厚い雲が覆っていたという。
禍々しい厄災は大地を次々と飲み込んでゆく。人々は淘汰されてゆくばかりであった。
女神オーディアは、己の身をもって悪しきものを払いのけ、大陸の民を未曾有の危機から救った。
その際に流れた女神オーディアの血が、雨や川となって大地に染みわたる。すると、朽ち果てていたはずの大陸が再び息を吹き返した──…という神話は、サンベルクの民であれば子供のころから聞かされるものである。
竜脈に近い。だが、少し異なる。女神オーディアの血が流れたとされる土地には、人知を超えた生命エネルギーが宿った。
サンベルク帝国は、大陸全土でもとくにその濃度が高い場所にあり、他国よりも豊かな資源に恵まれた。
──そして長い年月を経て、女神オーディアと精神を共有する人間の娘が誕生する。
娘の声は"祈り"として女神オーディアに届けられる。女神オーディアは娘を介して民の願いを聞き入れ、大地に持続的な力を与えた。
女神オーディアの声を聞く娘は、しだいに“大地の姫君”と称されるようになる。
娘の子孫は皇族として崇められ、やがて力を受け継ぐ女児が生まれると民たちは大いに沸き立った。
“大地の姫君”なくしては、サンベルク帝国の栄華はない。
枯渇しない資源。豊穣の土地。
この帝国において、皇女の身の安全は第一なのであった。
「エレノア、おまえは私の大事な娘。あまり使命にはとらわれず、一人の女性として幸せになってほしいと思っているのだよ」
「ご温情をありがとうございます。父上」
エレノアは慎み深く礼をとる。
サンベルク帝国では、女は十六、男は十八で婚姻が可能になる。
エレノアが離宮から出た背景には、伴侶を得て、力を受け継ぐ子孫を残すという極めて重要な目的があった。
優しい笑みを前にして、エレノアの胸はあたたかくなる。
エレノアはこれまで自分にかされた使命のことばかり考えていたため、サンベルク皇帝の思慮深さに感嘆した。
「人生を添い遂げるにふさわしいと思う殿方を見つけるがよい」
「そのようなこと、本当によろしいのでしょうか?」
「よいよい。まったく、宰相には何度も規律緩和をするよう働きかけているのだがねえ。いつまでも堅苦しくて敵わん」
厳格主義の色があるサンベルク帝国では、政略結婚や見合いが主流であり、自由恋愛は推奨されていない。
民のほとんどが親が決めた相手と結ばれているというのに、サンベルク皇帝の心は寛大だった。
(人生を添い遂げる──)
いち早く子孫を残すことがエレノアの使命であるというのに、いざ十六になってみると漠然とした不安が押し寄せる。
長く離宮に引きこもっていたせいで、エレノアはただでさえ人前でひどい緊張を覚えてしまうのだ。
ましてや、同年代の異性と親しい会話をした試しもない。
(誰かを好きになるってどういうものなのかしら)
離宮でひとり閉じこもっていたエレノアは、恋を知らない。
母と父はどのように愛をはぐくんだのだろうか。考えてみても自分が誰かに愛されるという実感が沸かなかった。
「婿候補といえば、ハインリヒからおまえに挨拶をさせてほしいと申し出があった」
「ハインリヒ様から、ですか…?」
エレノアは何度か瞬きをして、はっと息を呑んだ。
ローレンス侯爵家の嫡男であるハインリヒは、国境防衛軍特別遊撃隊の小隊長を担っている男だ。
この国で最も軍功を上げているとされ、サンベルクの民からその勇姿を讃えられている。
かつてエレノアは、王都の大聖堂で“祈り”をした帰り際に、一度だけハインリヒに声をかけられたことがあった。軍人らしい精悍な出で立ちであり、エレノアからすると雲の上の存在であるように思えていたのだが。
「おまえに求婚をしたいそうだ」
「そ……そんな、何かの間違いではないのでしょうか?」
「こらこら、せっかくの好意を疑ってくれるな。エレノア、おまえは私自慢の美しい娘だ。皇女が結婚相手を探している、と今頃は国中の話題になっているだろうからなあ。ほかの男どもに出遅れてはならぬと息巻いているのであろう」
「で、ですが、いきなり求婚だなんて、私どうしたら」
「そう慌てずともよい。子をなすことは大切だ。だが、エレノア。私は王でありながらも、おまえの父である。幼い時代をともに過ごしてやれなかったことが口惜しいけれど、おまえが心から誰かを愛し、そして愛されることを願っているからね」
エレノアは予想もしていないことに赤面をして慌てた。
生まれてこの方、男性に求婚をされた試しはない。まさか自分がとは夢にも思わなかった。
――…伴侶となる者からの愛情。
それは、きっとあたたかいものなのだろう、とエレノアは思う。
母の腕に抱かれることはなかったが、父であるサンベルク皇帝から向けられるひだまりのようなあたたかな眼差し。
生まれてから今までを離宮で過ごしていたエレノアにとって、サンベルク皇帝からの尊い愛情がすべてであった。
(私はサンベルク帝国の皇女…)
帝国の未来のために、力を宿す女児を産まねばならぬという使命感はあるものの、やはり、心のどこかでは憧れがあったのだ。
母と父も、愛し合ったのだろうか。どのように出会い、産み落とされた私をどのように腕に抱いたのだろう。
十六になった朝、閉ざされていた離宮の門がゆっくり開いたとき、エレノアはまぶしいほどの太陽の祝福を受けることになった。
自分の足で青々とした地面を踏みしめたとき、感動のあまり泣き出してしまったほどだった。
サンベルク皇帝には見栄を張ってしまったが、閉ざされた離宮での暮らしは孤独だった。
夜眠るときには寂しさに胸を焦がし、誰も外の世界に連れ出してはくれない事実に恐怖を抱いたこともあった。
いつまで外には出られないのか? 問えば、十六になれば伴侶となる男性を得るために外に出ることができる――と回答があるのみ。当時、幼子であったエレノアにとっては途方もない、未来の話のように思えた。
鮮やかなまでの緑。鳥のさえずり。
狭く薄暗い部屋で本ばかり読んでいたあの頃とは――もう、決別するのだ。
不安と期待が入り混じるエレノアを、サンベルク皇帝はやさしく包み込んだ。
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