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二
サンベルク帝国の皇女エレノアが、伴侶候補探しのために離宮を出た。
疾風のごとく王都中に知れ渡ると、連日、エレノアのもとには我こそはと言わんばかりに男たちが侍った。
十六になり、大人の仲間入りを果たしたエレノアは、もう離宮で守られる必要はなくなった。
伴侶を探すためという目的があるものの、己の足で大地を踏みしめ、己の目で世界を知ることができるようになった。
待ちわびていたことに変わりはないのだが、ここ数日、エレノアの気はどことなく晴れなかった。
宮殿の前には、エレノアに謁見すべく男たちの列が生じている。手土産を山ほど抱えた男たちは、ここぞとばかりにエレノアを褒めちぎった。
皇女として、一人一人と誠心誠意向き合わねばならない。
相手の名前を覚え、家督を覚え、職業を覚え、今後の展望に耳を傾ける。だが、どんな素晴らしい地位や名誉を披露されようとも、エレノアの胸は波音ひとつ立たない。
まるで早口の呪文のように聞こえてしまった。これではいけないのに。きちんと向き合わねばならないのに。
休む間もなく来訪者の接待に追われていたため、エレノアは疲弊していた。
「エレノア皇女殿下、お気に召す男性はいらっしゃいましたか?」
自室で紅茶を飲んでいると、女官長であるキャロルが声をかけてくる。
「皆様、素敵な方だと思うのだけれど」
「あらまあ……ただのお一人も?」
「贅沢なことよね。皇帝陛下は寛大でいらっしゃるけれど、はやく伴侶を見つけて、子をなさなくてはならないのに」
「そう気を落とさないでくださいまし、皇女殿下。きっと運命を感じさせるような男性が、この世界のどこかにいるはずです」
求婚をしてくる男たちはどれも、祖国のために勤勉に働き、一切の惰性もないような素晴らしい人ばかりであった。そんな彼らからの熱烈なアプローチに、エレノアの心がついていけていないのだ。
「運命…、キャロル女官長もそうだったの?」
エレノアは父と母の馴れ初めを知らない。育ててもらった乳母とは、とくに親しい話をしてはこなかった。サンベルクの民は厳粛な性格をしており、女神オーディアからの加護を授かるために、娯楽行為の一切を惰性であるとしていたためだ。
どことなく楽し気に話すキャロルに、エレノアは少し驚いた。
「ええ、そうですよ。あまり大声では言えないのですが、私は夫と大恋愛をいたしまして…」
「大恋愛…?」
「みだりに心を揺らしてはならない。そう伝え聞かされてきたにもかかわらず、胸が真っ赤に燃え上がってしまったのです」
「まあ…!」
「この人しかいない、とそのように思いました。この人の隣で生涯笑って過ごしたいとも。ですから、きっと皇女殿下にも、運命の糸でつながっている殿方がいらっしゃいますわ」
恋愛というものに触れる機会がなかったエレノアにとって、キャロルの話は興味深かった。サンベルク皇帝は自由恋愛をして伴侶となる男を選んでよいとしていたが、この国の男女のほとんどが政略結婚であるか、または親が定めた相手と結ばれている。
恋愛感情そのものが人を愚かにさせ、惰性を産むからだとされているからだ。そうしてサンベルクの民は、清らかな心で女神オーディアをあがめ続けているのだ。
「サンベルクの皇女がそのようなものを信じてしまって、よいのでしょうか…」
「それがきっと、御身のためでございます」
女神オーディアは怒らないだろうか、とエレノアは喘いだ。女神からの加護は、真面目に生きている人間に与えられるとされている。祈りを届ける人間が男性の間をふらふらしていては、きっと女神オーディアの反感を買ってしまうだろう。そうすれば、祖国のためにならないのではないか。
「大地の女神オーディア様からの加護は偉大であり、その力なくしてはこの国が栄えることはなかったことでしょう。ですが」
乳母も純粋な女神オーディアの信徒であった。だからエレノアも、一切の穢れのない実直な娘として育てられた。
「私たちは自らの足で大地を踏みしめているのです。誰のためでもない、己の人生を歩んでいるのです」
「キャロル女官長…」
「そうして人は恋をする。花に、空に、月に、海に、山に、文化に、書物に、動物に、人に。それが惰性だとは思いません」
キャロルは外の世界で様々なものを目にしてきたのだろう。幼い頃から離宮の中で育ったエレノアにとっては衝撃的な内容であった。
「本当に、オーディア様は怒らないかしら」
「滅相もございません。きっとお喜びになられますよ」
「…本当に、本当に?」
「ええ、人は誰しも、愛し、愛されるべきでございます」
「む、難しいわ…」
「そうですねえ、ああ、そうそう、ハインリヒ様から本日も薔薇の花束が贈られてきましたよ」
楽しそうに両手を合わせているキャロルを見て、エレノアは紅茶を吹き出しそうになった。ハインリヒからは毎日何かしらの贈り物が届く。素敵な便せんには赤面するような愛の言葉が添えられていて、とてもじゃないが恥ずかしくて読めたものではなかったのだ。
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