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「聡明な男性であると、宰相殿の御評価も高いようでございます。一度逢瀬されてみては?」
「は、はしたないわ……! お、逢瀬だなんて」
「皇女殿下はハインリヒ様がお気に召さないのですか?」
「め、滅相もない! 私にはもったいない素敵な男性だと思っているわ」
「ではよいではございませんか。ハインリヒ様からの恋文にも、“今度ぜひお茶をしたい”とありますし」
「で、でも……!」
どうしてキャロルが楽し気なのだろうか、とエレノアは眦を下げた。
「失礼いたしました。これでは皇女殿下をいじめているようですね」
「いいえ、いいのよ。私がはっきりしないのが悪いの」
「悪いだなんて、そのようなことはないのですが、うーん、そうですねえ」
キャロルは考える素振りを見せて、何かを閃いたように表情を変えた。
「ハインリヒ様には申し訳ないのですが、公務に伴侶探しにと最近は特にお疲れのようですから、気晴らしに郊外にて休暇をとられてはいかがでしょう」
「休暇? ですが……今はそのような」
「宰相殿には私からお伝えいたします。宮殿にいらしてから皇女殿下はいつも緊張されているようですので」
キャロルからの提案に、エレノアははっとした。
ハインリヒを伴侶とすれば、サンベルク皇帝はもちろん、宰相もキャロルも、この国の民すべてが祝福するだろう。
だが、エレノアは決断ができずにいたのだ。焦る気持ちをごまかすように連日訪れる男たちの応対をして、張り付けたような笑みを向ける日々。
サンベルクの民が皇女の子を期待している。サンベルク帝国の安寧を望んでいる。使命だ。使命である。そのためにここにいる。己が果たさねばならない役目である。
だが、そう考えるごとに形容し難い重圧がエレノアの身に降りかかった。
「そうですねえ……皇女殿下さえよろしければ、ニールなどはいかがでしょう」
「ニール? 東の端の町の?」
「ええ、辺境の町ではございますが、私は好きなのです。オーディア様の"加護"なくしても緑豊かで、空気も澄んでおります」
ニールの町は、サンベルク帝国の東の果てにある田舎町だ。
エレノアが祈ることにより生じる女神オーディアの"加護"は、王都を中心に広がる。そのため、王都から離れれば離れるほどにその恩恵は薄まってしまう。
これは、大地に染み込んだ女神オーディアの血の濃度に関係しているとされているため、その恩恵をうけない辺境の地ニールはてっきり荒廃しているものだと思っていた。
「きっと宰相殿のお耳に入ってしまったら目を回して心配をされるかもしれませんが、なんと、馬にも乗ることができます」
「う、馬…ですって!?」
――つい、楽しそう、とエレノアの胸が弾んだ。
遊んでいる場合ではないのに、これではやはり女神オーディアに叱られてしまうかもしれない。
(馬に乗ってはしゃぐだなんて、惰性よ)
と、己を律するが、胸の高鳴りが止まらなかった。
幼少期から一歩も外に出たことがなかったのだ。大事に守られていたがゆえに、身の回りの世話はすべて乳母が担っていた。そのため到底、馬に乗るような場面などなかった。
「私は皇女殿下に、この世界がどれほど広大であるのかを知っていただきたいのです」
「キャロル女官長…」
「そうして、あらゆるものを愛していただきたい。もうここは離宮の中ではないのです。エレノア皇女殿下、私は貴女様の幸せを心から願っておりますわ」
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