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宰相の許可を得るのには、時間がかかった。皇女を辺境の町で過ごさせるなど言語道断であるという考えがあり、キャロルが直接皇帝陛下に上奏するまで首を縦には振らなかった。
エレノアは、はじめてサンベルク帝国東部の辺境の町ニールを訪れた。
世話係兼監視役として女官長のキャロル、護衛のために女騎士のターニャが同行することが条件であったが、エレノアはそれでも開放的な気持ちで満たされた。
サンベルク帝国は王都を中心として円形状の国土をもつ。
女神オーディアは王都を中心として血を流したとされており、加護の力も国の中心であればあるほどに強くなる。
そのため、王族や貴族、軍人が生活をしている中心部、主に商売人が住む中間区、そして一般庶民が暮らす国境付近が辺境とされている。
エレノアが十六になるまで過ごしていた離宮は中間区にあったため、辺境の地ははじめて訪れたのであった。
どきどきしつつ馬車を降りると、王都では見ることのできない鮮やかな緑が広がっていた。
辺境の地は女神オーディアの加護が薄まるため、土地が痩せている──だから、中心部に住む貴族たちは足を踏み入れることすらも躊躇う。
だが、エレノアが目にした世界は、躊躇う理由もないまでに清々しかった。
「辺境の地の民は王都へ赴くことができませんので、エレノア皇女殿下の御顔を存じ上げている者もいないでしょう。思う存分のびのびとできますよ」
「キャロル女官長、本当に大丈夫でしょうか? 正体を知らない分、かえって無礼を働く者も出でくるやもしれません」
楽天的なキャロルと、心配そうに眦を下げている女騎士のターニャ。
やはり、使命を放棄して我が身を慰めようなどと、わがままが過ぎているのではないか。
宰相にも無理をいって許可を得た。皇帝陛下は優しくエレノアを送り出してくれたが、心の底では心配をしているかもしれない。
エレノアは申し訳なくなって、俯いた。
「それはたしかに心配ではありますが……。おそらく、この町を知ることは、今の皇女殿下に必要なことなのでしょう」
「まったくもって理解しかねます。しかも、よりによってこのような辺境にお連れせずともよいではありませんか」
「おやおや、ニールはとても素敵な土地ですよ。王都から離れているからなんだというのですか」
「はあ……女官長ともあられる人が聞いて呆れますよ」
女騎士のターニャはこの度のニールでの休暇に反対していた。
黄金に輝く甲冑。凛々しい身のこなし。閉鎖的な性格をしているエレノアとは違い、発言の一つ一つに快活な自信が感じられる。
(私も、彼女のようにたくましい女性であったら……どんなに)
きっとうじうじとした不安は抱かないのないのだろう。勇ましく民を導くことができるのだろう。
果たして自分はうまくできているのだろうか、とエレノアは喘いだ。
ひと月に一度、ただ女神オーディアに祈っていただけだ。
寂しく孤独である中で、それを唯一の生きる意味としていただけなのだ──。
*
「良いですか? 馬はとても神経質な動物です。いきなり背に乗ろうとしても、足で蹴られてしまうので危険です。ですから、まずは信頼関係を築いてから──」
「あ……」
ターニャから乗馬の指南を受けつつ馬宿へと向かっている途中で、エレノアは小さな教会を見つけた。
「エレノア皇女殿下?」
「ターニャ、あれはいったい……?」
ふと気になって足を止めると、庭先にてシスターが子どもたちに読み聞かせをしている場面があった。
「皇女殿下がわざわざ足を止めるようなものではございませんよ。ただの身寄りのない孤児たちです」
「孤児……」
「辺境の地にはオーディア様の加護が行き渡らない。だから、生活に余裕のない家庭で生まれた子が捨てられることはよくあるのです。シスターはそんな子どもたちのために教会で教養を授けているのですよ」
子どもたちは布きれのような服を身にまとっていた。エレノアの幼少期とは天地の差があった。だがなんとなく、シスターへ深い信頼の目を向けている子どもたちが自分と重なって見えたのだ。
実の父であるサンベルク皇帝に抱く敬愛の念と類似する。
子どもたちにとっては、ここが心の拠り所なのだろうと思った。
「伝え聞かせているのはこの大陸にまつわる神話でしょう」
「あの有名な?」
「そうです。国の成り立ちを子どもに伝え聞かせるのは親の務め。シスターは、彼らの親代わりをしているのです」
ターニャに代わり口を開いたキャロルは、エレノアを見て何かを言いたげに眦を下げた。
「――原始、大陸には二つの神がおりました。大地のあらゆる生命をつかさどる女神オーディア、そして森羅万象の力をつかさどる魔神デーモスがこの世の理を作り、人と、魔族(イェリ)を生み出したのです」
子どもたちは熱心にシスターの話を聞いていた。
「オーディアは心優しい神でした。人と魔族の共存を願った──けれど、魔神デーモスは、それを拒み、この大陸全土を飲み込む厄災を引き起こしたのです」
「えぇぇぇぇ! ひどい!」
「怖いよぉ、シスター!」
「理性を失った魔族たちは、次々に人間を襲いました。海は荒れ狂い、暗雲が立ち込め、空は赤く染まり、大地は干からび――人々は希望を失いかけました」
エレノアも幼い頃に乳母から伝え聞かされていた神話であった。
荒れ狂った魔族により、人間が滅びかけたという悲しい話。
女神信仰をかかげる団体では、魔族が踏み絵の絵柄として使われているほどだ。
帝国内でそれほど忌み嫌われている存在であるが、エレノアにとっては魔族(イェリ)にまつわる書物は興味深かった。
夢中になって離宮にて何度も読み返していたほどだ。
サンベルク帝国は人間の国だが、この大陸のどこかにはまだ魔族が存在するのだという。
凶悪で恐ろしい生物とされているが――それは、いったいどのような姿をしているのだろう、とエレノアは思った。
「我らが崇め奉りし女神オーディアは、この窮地から我々を救ってくださったのです。自らの躰を盾としてこれを守り、自らの血を豊穣の雨や川として大地に行き渡らせ、自らの魂で黄泉に向かう人間を呼び戻してくださった。こうして魔神デーモスが引き起こした厄災を沈め――この大地と一つになりました」
「オーディアさまは、わるいやつをやっつけて、しんじゃったの?」
「いいえ、亡くなってはおりませんよ。けれど、厄災を払うためにお力のほとんどを使われてしまったのです。今は……大陸に染み込んだオーディア様の血が、皇女殿下の祈りに応えているといわれています」
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