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シスターの説明を聞いて、子どもたちは口をそろえて「オーディアさま、かわいそう」と喘いだ。
「こーじょさまって、どんな人?」
「シスターはあったことある?」
エレノアはこっそりと聞き耳を立てていただけだったのだが、そこではじめてドキリとする。
もしここにいると名乗り出たのなら、目を回して驚いてしまうだろう。
シスターは眉を下げで首を横に振る。
「いいえ、ここは辺境の地のニールです。皇女殿下は王都にいらっしゃいますから……とてもじゃないけれど、平民の私たちがお会いすることはできないでしょうねえ」
「えー! シスターも見たことないんだあ」
「こーじょさまってきれいなのかなー?」
生まれてこの方、離宮に籠っていたエレノアにとって、祈りの儀式以外でサンベルクの民を見かける機会はなかった。
頼りない皇女だと思われてはいないか。不満がありやしないか。
己はいったいどのように思われているのか。回答を待っている間に、心臓が飛び跳ねるほどに高鳴った。
「皇女殿下は代々、白銀の髪に碧眼を宿していらっしゃるといいますね。女神オーディアの生き写しだともいわれています」
「へきがん……?」
「鮮やかな空のような色ということですよ、マルク」
「へえ~、すっごい! いいなあ! ぼくもいつかほんもののおひめさまを見てみたいなあ」
「そうですねえ、オーディア様を信じて、怠惰ない生活を送っていれば、いつかは王都に参ることができるかもしれませんねえ。だからどうか、精進するのですよ?」
シスターの問いかけに、孤児たちのはあーい!と返事がある。それぞれバケツや雑巾を手に持ち、教会の清掃をするために散っていった。
エレノアはそこで罪悪感を抱いてその場でうつむいた。
(――怠惰ない生活)
サンベルクの民はエレノアを神の申し子てしてあがめ奉る。
だが、エレノアには地に足がついていない感覚があった。
幼い頃から女神オーディアへ祈りを届けてきた。
それが己のすべてであると理解もしていた。
だから伴侶をはやく探して、女児を産まなければならないのに、こうして今ニールで休暇をとろうとしている。
これでは民に顔負けができないのではないか。
「エレノア皇女殿下、あまり立ち聞きしては怪しまれてしまいますよ」
すると、女騎士のターニャがしびれを切らしたように声をかけてきた。
(ほんの少しだけだ。少しだけ、馬に乗って気分転換ができたら、王都に戻ろう)
エレノアは慌ててマントのフードを被り、その場を去ったのだった。
「皇女殿下……またこちらにいらしたのですか?」
辺境の町ニールにて休暇をとること五日。
少しだけと決めたはずが、エレノアはすっかり乗馬に夢中になってしまった。
女神オーディアも呆れかえるほどだろう。
そう自覚はあるものの、やめられない。童心に変えるという言葉が当てはまるほどに、暇があれば町はずれの草原で駆け回っていた。
「あらターニャ、ごきげんよう」
「ご機嫌麗しゅう……ございます」
愛馬はレックスと名付けた。とても利口な馬であり、乗馬初心者ではありながらも主人の言うことをよく聞いてくれる。エレノアにとって動物と触れ合う機会は今までになかったため、己の手で餌をやったときの感動はすさまじいものであった。
「勝手に宿屋を抜け出されては困りますよ……!」
「ごめんなさい。レックスが寂しがると思って」
「馬など野に放っておけばよいのです! なにより、ご自身のお立場を考えてくださらないと! なにかあったら皇帝陛下に示しがつきません!」
「心配せずとも大丈夫よ。辺境の地とはいえ、ニールはとても穏やかな町だもの」
「ああ……もう、キャロル女官長はどうして放っておけなどとおっしゃるのか……」
心配してくれるターニャに申し訳ないと思いながらも、エレノアは愛馬と広い大地を走り回ることが楽しくて仕方がなかった。
連なる山々も、視界に収まりきらない青空も、草木の青々とした匂いも、新鮮であったのだ。
「いいですか? くれぐれも馬から落ちてケガなどされないように!」
「もちろんよ、分かっているわ」
「本当ですね? これから私は、宰相殿の使者様に定期報告をしに参らなければなりませんので、皇女殿下のおそばについてはいられないのです!」
女騎士のターニャが背筋を正し、必死にエレノアに伝えようとする。
焦っているターニャをよそに、エレノアは目を輝かせながら手綱を握っていた。
「私のことはどうか気にせず! レックスはお利口さんだもの」
「てっきり大人しい御方だと思っていたが、実はこれほどお転婆だったとは……。はあ、心配だ……」
女騎士のターニャが後ろ髪を引かれながらこの場を去った。
エレノアはこれを絶交の機会だと考え、普段よりも広い範囲を駆け回ることにした。
ターニャが見張っているときは、彼女の目に届く範囲内でしか駆け回ることができなかったからだ。
(乗馬にも慣れてきたところだし、少し遠出をしてもいいわよね?)
予期せずに絶景に巡りあえたときの感動が、まるで宝探しをしているようで楽しいのだ。
自らの足で大地を踏みしめ、自らの瞳であらゆる事物に触れる。それは、長らく離宮で過ごしていたエレノアが知らなかった世界であった。
レックスも今日は普段よりも快活なように見えた。空気も気持ちがよいくらいに澄んでいる。
(少しだけ、少しだけよ)
エレノアはそうして、ニールの町のさらに東の草原へと馬を走らせた。
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