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「入るぞ!!」
大杉が入ったのは、美術部室だった。部員達が一応席について製作をしていたようだが、特に進んでいる様子はない。転がっている筆は水分を吸っておらず、キャンバスは白かった。顔は無機質であったが、流石にヘルメットを被って木刀を手にした集団がドカドカと入ってきて動揺しているようだった。
「せ、先生!」
部長の佐々木紀子が席から立ち上がり、目を白黒させる。
他の部員達は、大杉がこれからすることを悟ったのか、無機質だった顔に生気が戻っていた。中には手を取って喜んでいる部員もいる。
「今まで気づいてやれなかった教職員一同の無力さを許してくれ」
大杉教諭はヘルメットを脱ぎ、深く頭を下げた。企業の謝罪会見でしか見たことのない深い一礼だった。
こう言う謝罪ができるのか、と夕は少し意外に感じる。
「先生!もう良いんです。来てくれただけで…」
目に浮かんだ涙を拭いながら部員の一人が大杉に面を挙げるように促した。
「あ、教えたの俺だよ。新聞部」
この藤野という男は、死ぬまで風邪など引かないだろうなと夕は思った。
「美術準備室に、呻き声はまだ響いているか」
「はい。まだ、たまに」
大杉は黙って美術準備室のある二つ隣の教室へ目をやった。
「突入」
「ええっ⁉︎」
佐々木部長が素っ頓狂な声を上げた。
「あ、危ないと思うんですが」
「何を言うんだ、君は部長だろう。美術部で部員達が無事に創作活動を行えるように万全を期す義務があるんだぞ」
佐々木は根が真面目なのか、そう言われてしまうと押し黙ってしまった。
なんだかんだで、生徒の事を考えてはいるんだな。夕はこの不良教師の教師らしい一面をここに見た気がした。大杉が入ってきた時に、部員達の何人かは明らかに安心感が表情から滲み出ていた。こんな格好の集団がいたら、普通は通報案件だと思うのだが。大杉の人望は夕が知らないだけで存外厚いのかも知れない。
「斬り込みは俺が。直後に東雲くんと藤野くん、大島くんと山南くんが入りなさい。君ら4人が本隊だ。しっかり頼むぞ。木下くんは入り口を固めて、ドアから敵を一歩も外に出さないようにしてくれ。仮に木下くんが突破された場合の最後の砦として、ドアの外側には夕くんが構えていなさい。安心しろ。死ぬ時は私が最初だ」
各々が返事をしていく。夕は一番外側だった。安心感が心の中に広がる。これならば危険度は7人の中で最低だ。何しろ室内に入らなくて済む。仮に逃げられてドアの外に幽霊だか狐狸妖怪の類が来たところで、そんなもの夕にどうにかできるわけがない。へっぴり腰になりながらゲバ棒を突き出して終わるのが関の山であろう。
廊下は天井が高いから、ゲバ棒も振りやすい。夕の予想は見事に的中した訳である。
美術部員は、最後に呼ばれた夕の格好を見てギョッとしていた。なんだ、なぜ私だけそこまで怖がられなければいけないんだ。好きでこんな格好はしていないのに。夕の恥ずかしさはピークを迎えつつあった。
美術準備室の前に着くと、東雲が引き戸に手をかけた。大杉は木刀を腰だめに構える。体ごとタックルするように突いていくつもりだろう。
「いいか。室内で、色々ものがある。美術部員達の作品もある。荒らさず、騒がず、迅速にやるぞ。木刀は短く持て。長く持つと周りにぶつけて味方や、下手すりゃ自分をも傷つけてしまう。間抜けな味方の刀は幽霊より怖いぞ」
全員が頷いた。美術部員達は廊下に出てきて、大杉達の様子を心配そうに見つめていた。ある部員は椅子を、ある部員はイーゼルを持ち出していた。戦うつもりである。夕なんかより余程腹を括った生徒ばかりだった。
東雲と大杉がアイコンタクトを取る。
次の瞬間、戸が勢いよく開かれ、大杉が脱兎の如く突入した。後続も続いていく。
大杉は中にはいると暗い部屋を見渡した。埃っぽい以外に特にこれといった気配はない。後から入った生徒達も、周りを見ながら「何かいるか?」「いや…」などと小声で話している。
「木下くん、電気を」
入り口を固めていた木下は、大杉に言われて電気のスイッチを入れた。
次の瞬間、教室の中で呻き声が響き渡った。
「あ、これ!この声です!」
美術部員達が室内の大杉へ叫ぶ。
「近いぞ!」
大杉は木刀を声のするであろう方向へ向ける。
「…この声は」
木下が首を傾げているのを見た夕は、そっと小声で話しかけた。
「聞いたことあるの?」
「うん。多分、この声の正体は…」
「いたぞー!!」
大杉の声である。木下も夕も身構えた。
「あっ!逃げた!入り口だ!!」
夕は顔面蒼白になる。一番先に危うい状況になるなど聞いてない。
ーーキシャー!!
「?キシャー??」
「ああ、やっぱりか!!」
木下は前屈みになって「それ」を捕まえようとしている。
しかし、木下はうまく捕まえられずもんどり打って倒れてしまった。
「森本さん!そっち行った!」
「ええっ!?」
夕はとっさにゲバ棒を入り口に突き出した。しかし屁っ放り腰だったためか、全く威力は無い。
「う、うわああああああ!」
夕は、自分の中では思い切り「突き」を出していた。しかし、側から見たらその「突き」はただ数センチ前に棒を出し引きしているようにしか見えなかった。
その瞬間、夕のもつゲバ棒の先端に「何か」が当たった。
「へ?」
ぐいっとゲバ棒の先を揚げる。
そこには猫が一匹しがみついていた。
「ね…ねこぉ!?」
美術部員達が呆れに近い声をあげる。部長に至ってはへたり込んでいた。
ゲバ棒の先にいる猫は、地面に落ちないように必死に棒にしがみついていた。
「に…にゃ〜??」
夕は、猫を飼ったことがない。友人にも猫を飼う家はなかったので、近所の野良猫くらいしか知らないのである。
だから、どうして良いか分からず、苦し紛れの行動が今の「にゃ〜」であった。
猫はじっと夕を見る。何か反応をしてくれ。にゃ〜と言った自分がめちゃくちゃ恥ずかしいじゃないか!と、夕は顔を真っ赤にしていく。
すると猫は、およそ夕にとって「猫の鳴き声」のイメージとはかけ離れた声をあげる。
夕はゾッとした。まるで赤ん坊が絞め殺されるような、「高くて低い」うめき声である。もしや、大杉のような外道教師がいるくらいだから、この学園の雰囲気に当てられた野良猫が長い年月を経て妖怪化したのであろうか。
「ああっ!」
廊下に出ていた美術部員達が叫ぶ。
「この声だ!!」
やはり、犯人はこの化け猫か。夕は猫を再び凝視した。しかし、猫又とは違い、尻尾は分かれていない。一本のままである。これでは普通の猫と全く変わりない。
猫は自分の位置と床までの距離を見て、ぴょんと床に降り立った。そして、トコトコと歩いていく。
辿り着いたのは、美術部部長の膝下だった。猫は部長の膝頭に顔を擦り寄せて咽喉を鳴らす。
夕は、今度は屁っ放り腰ではなく、猫に向かってしっかりと下段にゲバ棒を構えなおした。幽霊じゃなければ強気である。
「……猫ってあんな声するんですか……?」
ちょうど、美術準備室から大杉達がぞろぞろと出てきたので、大杉に恐る恐る尋ねる。
「夕くん、春だよ」
夕は大杉の言葉に一瞬理解が追いつかなかった。しかし、「春」と言うワードから連想した印象を考えると、流石の彼女も察した。
「まさか…発情期?」
大杉は静かに頷いた。夕は肩と脚の力が抜けてしまい、壁に倒れかかった。木下が咄嗟に夕を抱える。女の子の様に華奢な体躯をしていると思いきや、腕力は夕より遥かに強い。「やっぱり木下君も男の子なんだな」と思いながら、ほんの少しの間、学園一の美少年の腕に抱かれるひと時を満喫した。無関係なのだから、これくらいの役得は許して貰いたかった。
つづく
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