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* * * * * * * あの日も、今日みたいな炉端焼きの居酒屋だった気がする。いや、焼き鳥屋だ。 仕事が終わってトオルさんに誘われて二人で飲んでいた。 炭火に鶏肉の脂が落ちて香ばしい匂いと煙たさが一緒になって、その時はなぜかいつもよりやたら酒が美味しく感じた。 炭のにおいとタバコの煙。飲んでいる焼酎のツンとした香り。いろんなものが合わさったこの心地よさは大人になってよかったと思えるものだ。 他愛もない話を散々して気持ちよく酔っ払ったところに、ふと、トオルさんがいつになく真剣な声で言った。 「ケンタロウ。お前に頼みがある」 「何ですか、急に」 「もし俺に何かあったとしたら、ヨーコにしてやってほしいことがある」 さっきまでの話と何の脈絡もない、思ってもみなかった発言に俺は声をつまらせた。 冗談なんか言う人じゃないのは分かっていたけれど、俺は冗談だと信じたくてトオルさんを見返す。 アルコールが入っているからわずかに瞳は潤んでいるけれど、酔っ払ったそれではない。表情は真剣そのものだった。 何だかいつもの様子と違うのに気付いた俺は言葉をつげないでいると、トオルさんは静かに続けた。 「国内でも、海外でも……とにかく良いと思った景色があったら写真に撮ってヨーコに贈ってほしい。旅先のポストカードでもいい」 「何言ってるんですか。トオルさん……そんなわけないでしょう」 「はは。俺だってそう思ってるしそのつもりだ。……けど、絶対はない。何事も」 「……変な冗談やめてくださいよ」 「俺が冗談言う玉に見えるか?」 「……」 「なぁ。頼むよ。ケンタロウ。お前に頼みたいんだ」 「……ヨーコさんに写真送るって……」 「お前が良いと思うのでいいんだ。……ヨーコに贈ってほしい。ただし、差出人は俺の名前で出してほしいんだ」 「は?……それって……」 「ヨーコとの約束なんだ。……何があっても、どこにいても、俺が見たものを送るって」 「けどトオルさんが言ってんのは、トオルさんが見れなくなった状況が“おきてから”の事でしょう!そんなこと……」 「だから、お前にしか頼めないんだ」 突然の無茶な願いに、俺は唇を噛んだ。 心臓が嫌な音を立てながら頭の中で不安がじんわりと広がる。 「わけわかんないっすよ。そんなのできるわけないじゃないですか。っていうか、死ぬようなとこには行くわけじゃないですよね」 「仮にもしそうなったらの話だよ。……頼む。ケンタロウ」 「そんなのっ……ヨーコさんが辛くなるだけじゃないですか」 「……あいつが辛くなったら、お前はヨーコの傍にいるだろう?」 「え……」 「お前だから、いいんだ。……お前だから頼んでるんだ」 年季の入った木のカウンターテーブルに焼酎のコップを置くと、こもった音を立てた。水のように透明な液体はただ静かに揺れていた。 トオルさんの射るような視線に、観念するしかなかった。 それにそんな目をされたら、武器も何も放り投げて両手をあげるほかない。 俺がはじめから彼女の事が好きだということに、気付いているから出来る瞳だった。 何て人だと思った。 初めて尊敬するこの人を恨んだ。 だって、あんまりじゃないか。 人の心を分かっていて彼女に会わせて、おまけに自分がいなくなった後の事を頼んでる。正気の沙汰じゃない。 そもそもどうしていなくなる人の名前で手紙を出し続けなければいけないんだ。 これは「俺はいなくなるかもしれない」というメッセージなことは確実な気がした。 だからといって彼女との約束だろうがなんだろうが、そんなことは間違っているし、俺を巻き込む事じゃない。 ……それなのに、巻き込まれても良い。 口では否定しながらも心のどこかで、むしろ巻き込まれたがっている俺がいるのを、トオルさんは見逃さなかった。 どんな形でも彼女と接せられれば、いつか俺を見てくれるんじゃないかという期待なんか虚しいだけなのに。 頭では善良な自分が必死に否定していた。もちろんこんなことは断るつもりだった。 それなのに心はあっという間に引っ張られて、考えとは裏腹な言葉を既に口にしていた。 「……俺でよければ、分かりました」 と。 その3週間後、トオルさんは消えた。 個人的に依頼された登山家の撮影で、トオルさんが海外の山頂付近でクレバスに落ちたまま見つからないと連絡があった。 当然、もう二度と連絡がつくことはなかった。 * * * * * * * 駅から出ているバスに乗って自宅へと向かった。 なんて事のない単身者向けのマンション。途中でコンビニに寄ったけれど、何となく酒もつまみもお互い買わなかった。酒を交えてするような話じゃないという気がしたからだ。 部屋の前に着き、ヨーコさんに少しだけ玄関外で待ってもらう事にした。 俺は部屋に入るなり電気をつけ、部屋の散らかっているのが目立つところを簡単に片づけた。 キッチンを見ると、シンクには空になったカップ麺が置いたままで、慌てて中をゆすいでゴミ箱へ入れた。 部屋は全体的に白と黒と飴色のウッド調のもので無難に統一していた。 壁には自分の撮った写真と、トオルさんから貰った写真。それと初めて自分が撮った写真が使われた商品ポスターを飾っていた。 俺は玄関を開けてヨーコさんを招き入れた。 ヨーコさんは「おじゃまします」と言うと、どこか遠慮がちにしてスリッパへ足を入れた。余ったかかと部分が何となく目に入り、俺なんかよりもずっと小さい足だと思った。 「テキトーに座っててください。コーヒーでも大丈夫ですか」 「あ、うん。ありがとう」 多分、彼女が俺の部屋に入るのはものすごく久しぶりだと思う。トオルさんが生きてた頃に1回か2回くらいきただろうか。 遠い記憶なのもあって、まるで初めて入った風にきょろきょろと俺の部屋を見渡していた。ひととおり写真を見ると、部屋の真ん中に敷いたやわらかな白色のラグにちょこんと座った。 黒いアイアンが足になったウッドテーブルにコーヒーカップを置くと、彼女は両手でそれを包んで「ありがとう」と愛想笑いの頬笑みで見上げたけれど口はつけなかった。 「ヨーコさん、さっきの話の続き、いいですか」 ここで余計な話を前置きにすると、二人してずっと誤魔化して触れない気がした。 ヨーコさんは小さな声で頷き、俺は自分のカップをテーブルに置くも、彼女の正面には座らず、すぐそばにパソコン机の椅子に腰かけた。 この微妙な空気にどう切り出そうかと少し迷っていると彼女の方から先に口を開いた。 「……はは。なんか、みんなが変に心配してたみたいだね」 自嘲気味なセリフに俺は「多分俺がダダ洩れだっただけです」と返すとヨーコさんはしばらく黙ってから「……もっといるじゃない。他に」とぽつりと言った。そしてそれは、一番言われたくない言葉だった。 「もっといるかもしれない。たしかに。……でも、それでも俺はあなたが良かったんです」 俺の言葉に、ヨーコさんはびくりと肩を震わせる。表情はどこか戸惑っているようで、彼女の迷いに自分の心がひりつくのが分かった。 そしてその表情は、俺がヨーコさんに頭を下げたあの日を思い出させた。 トオルさんが消息を絶ってから、色々な事が目まぐるしく変化していった。 頂上前で登攀を中止にし戻ってきた登山家が謝罪に来て、ベースキャンプに残っていたフィルムやデータを手渡された。 消えたところの場所が場所なだけに引き上げは不可能に近く、莫大な費用もかかるのでトオルさんの両親は諦めると言った。そもそも初めから登山の趣味には反対していたようだった。 遠く離れた山間部の実家でごく内輪での形だけの葬儀と連絡がきて、それでも俺と社長と、他の社員も行ける人間だけ行った。 葬儀場につくと、親族席にヨーコさんが座っていた。 いや、ご家族のご厚意により座らせられていたというほうが正しいのかもしれない。そのくらい何となく居心地が悪そうに思えた。 ヨーコさんは、見た事のない表情だった。 空を見つめるようにしながら、しかしその瞳には何にも映していなさそうで、多分参列している見知った顔や、俺にもほとんど気付いていなかったと思う。 悲しむでもなく、怒るでもなく、困るでもなく……つまり、何の表情のない空っぽな顔をしていた。それがひどく気味が悪いと感じた。 それと同時に、心が無になった時の人間の表情はこういうものなんだと漠然と思って、不謹慎だとは思いつつも彼女から目が離せないでいた。 しっかりした彼女でもトオルさんの死はじわじわと彼女の心を蝕んでいたのか、葬儀の前後からヨーコさんは仕事に行けなくなった。 当時はホテルのスーシェフで、女性シェフとして将来を期待されていただけにホテル側も事情を汲んで休職扱いにしたようだが、彼女の座を狙う同僚はごまんといるのだから戻れる場所なんかないのは誰にだって予想がついた。 トオルさんの死によってそのキャリアは白紙になったも同然だった。 しばらくして、退職したようだとヨシダさんから聞いたのと同じ頃、突然の異動辞令が俺にやってきた。 トオルさんのいた、社の専属カメラマンのポストだった。 どう反応していいか分からない俺に、トオルさんの後押しも予めあった事と、それを踏まえていずれここへ配属するつもりだったと言う事を社長が自ら説明しにきてくれた。 このタイミングで告げるべきかは分からなかったけれど、俺はそれを彼女に告げることにした。 写真を撮っている事も当然知ってくれていたし、おまけにトオルさんの後任だからこそ会わずにはいられないと思った。 ヨシダさんにヨーコさんの家を教えてもらうと、玄関に出てきた彼女は少し痩せたように見えた。 中に通されると綺麗好きのヨーコさんらしく部屋は片付いていた。逆に整然とし過ぎて、俺は急に不安になったぐらいだ。 後任の件を言うと、戸惑うように瞳が揺れた。 俺がポストにつくことでトオルさんがもういないという現実に、彼女が泣いたり取り乱したりするかと一瞬思った。けれど、ヨーコさんは声を失ったまま立ちすくんだままだった。 そして小さな声で「……そう」とだけ言った。まるで自分に言い聞かせるみたいに。 感情が止まったままの彼女を前に、俺は気がつけば土下座していた。 どうしてそんな事をしたかは分からない。トオルさんがいなくなったからゆえに拓けた自分のキャリアのへの後ろめたかもしれない。 ただ、彼女に顔向けができない、と思ったのは確かだった。 それもトオルさんがいなくなる前に俺は会っていたのに、強く引き止めることも断ることもしなかった。罪悪感となって一気に胸に押し寄せた。 感情が止まった人を前に、自分のほうが耐えられなくなったのは事実だ。 なんで人は、両方を手に入れる事ができないのだろう。 多くを望んだわけじゃないのに、手にする為に手の内にあるどれかを失わなければいけないなんて、あんまりすぎる。 俺はこの仕事が欲しかった。憧れだった。だから追い続けた。 けれど、その為にあの人の死が用意されてたなんて思わなかった。望んでなかった。 何も言えずに頭を下げたままでいると、細指がかすかな力で、肩に、次に背中に触れた。 そしてそのまま包み込むようにして俺を抱きしめた。 まさかそうされるとは思わなかった俺は顔を上げると、同じように涙にぬれた顔がすぐ目の前にあった。 自分の薄情さに、呆れるほかなかった。 ……どうしようもなく、彼女のことが好きだ。 確信してしまった。 理性が外れるっていうのは一瞬で、何を考える間もなく彼女の濡れた頬を両手で包み、唇をおとしていた。 それからしばらくして、俺はトオルさんとの約束を守り始めた。 ヨーコさんも仕事を再び始めた。親戚が女性客専門のダイニングバーを開きたいとのことで、彼女はそこで働く事になった。 トオルさんの名前でポストカードが届き、俺が出張土産を持って彼女へ会いに行く。 忙しくて会えない事もあるけれど、会えたら飲みに行ったり、時間がある時は何となく一緒に夜を過ごす。 そういうことが何回かあり今日まで至るも、お互い本音は晒さなかった。 彼女と終わりたくないから、俺は言えなかった。 言葉にする事で、本当に彼女に拒絶されるのが怖かった。 自分の「本当はそうなりたい」という未来からずっと逃げていたのは、俺だったんだ。 * * * * * * * トオルさんがいた頃の記憶と、いなくなってからの記憶が時系列関係なく、めまぐるしくフィードバックされる。 もしかしたらどの場面だって俺の思いこみやねつ造で現実のものとは違うかもしれない、とさえ思う。 それなのに、どれもヨーコさんの表情だけは嘘がなく、すべて好きだと思うなんて自分はバカだ。 「……私がいい、だなんて嬉しいけど勿体ないよ。っていうか、いつまでも昔の人引きずってるようなのなんかやめたほうがいいのに」 「そんなこと言ったら俺の方が引きずってますよ。トオルさんは、今でも憧れの人ですから。だから誰だってあの人の代わりなんかなれないし、俺もなれない。なるつもりもないです」 すると俺の一言が癇に障ったのか、ヨーコさんは初めてヒステリックな声をあげた。 「だから私はトオルの代わりなんか求めてない!」 「でもポストカード、信じてるじゃないですか!?」 「あれはっ……たしかに、トオルじゃない。わかってる……全部、ケンタロウ君の優しさなのはずっと知ってるよ」 優しさ、というワードに何故だか無性に腹が立って、それに対して今度は自分が反論した。 「優しさ?そんなわけないじゃないですか。あんたバカですか」 「はぁ?どういうことよ」 「優しい奴だったらあんなの贈るわけないじゃないですか。……トオルさんとの約束を、守ってるだけにすぎないだけです」 彼女を好きな気持ちと、こんなことをやめにしていっそ傷つけてやりたくなる気持ちがぐちゃぐちゃになって、どんどん嫌な言葉が口から溢れてくる。二人の間の空気がやけにひりつく。 一瞬おりた静寂のあと、彼女がぽつりと言った。 「……知ってるよ。それくらい。だって、私がそう頼んだんだもん。トオルに」 「え……」 「どこにいても、何してても、貴方が見たいものを送ってほしいって」 “だってあなた、山の神様に好かれていそうだから。だからきっと、見たいものが見れるよ。” 「だけど!……こんな風になるなんて、思わなかった。こうなるんだったら、ケンタロウ君を傷つけることになるなら言わなきゃよかった。トオルに何にも、言わなきゃよかった!!」 叫ぶようにしたヨーコさんの瞳がら涙がどんどん溢れて、こぼれた。 涙でぐしゅぐしゅになりながらも、まだどこかに彼女の本音が隠されているようにも思えて、それを見たところで俺の腹は収まらなかった。 椅子から立ち上がり、自分でも驚くほどの冷たい口調で言い放つ。 「それで?トオルさんにも俺にも、あんたは結局本音言わないじゃないですか」 何も言い返さないということは、やはり図星なのだ。それが分かった俺は言葉が止められなかった。 「俺はっ……!……トオルさんがいなくなってから、卑怯かもしれないけれど貴方に心を見せてきました。けど貴方は絶対に見せてくれなかった。ホントは会った時からずっと同じ気持ちを持ってる癖に、見ないふりばっかりして!俺がいらなきゃ、じゃあ今ここでハッキリ言って下さいよ!」 言い終わった俺の言葉にヨーコさんは何か言いたそうにしたけど、結局言葉をつまらせたままぐっと一の字に結んだ。 相変わらずの彼女の頑固さに、俺は自嘲的な笑いが思わず出た。 「……ほら、やっぱ卑怯だ。……“いらない”って喉まで出かけてるし、そう言いたいんでしょ、ほんとは。……でもヨーコさんはそれを言わない。言えない。……何でだか当ててあげましょうか。 ……俺の事が好きとかじゃなくて、独りにされたくないからだよ」 「違う!!」 たまらずに立ち上った彼女は、俺に詰め寄るようにして小さな拳で俺の胸を叩いた。 意外と強いその力に驚いたけれど、俺は踏みとどまりそのまま彼女に胸を叩かせた。 「……じゃあ、トオルの気持ちはどうなるの……?」 「え……?」 思ってもみない言葉に、俺は彼女の顔を見た。 涙顔で見上げたヨーコさんは、初めて見る感情に溢れた顔だった。 さっきまで叩いていた拳は胸のとこで止まり、力なく握ったままだ。まるで頼りない小さな女の子が泣いているみたいに。 「私が、ケンタロウ君を好きだと思ってても、それを言ったら、トオルの気持ちはどうなるの?トオルといた私の本当の気持ちも嘘になるみたいじゃない……そんなの差し置いて、貴方が好きだって言えるわけない! ……だからっ……だから、いっそ私なんかほっとけばよかったのに!なんで優しくしてくるの?甘えたくなっちゃうに決まってるじゃん!私はそこまで強くなんかないっ……!」 言い終わり、ドン、とひとつ胸を叩かれる。ちっとも痛くなく、かえってそれが辛かった。 「でも、それで素直になれたらいいのに、それもできない。……だって、こんな重い自分じゃケンタロウ君を幸せにしてあげることなんてできるわけない……それなのに、貴方来るんだもん。……好きなのに冷たい事なんか、どうしたって言えるわけないじゃない。……でも、ケンタロウ君がもう辛いなら、いい。 傷つけるんなら、全部いらない。……だから、」 「全っ然分かってないな!」 俺はヨーコさんの肩を掴んで向き直らせる。彼女はきょとんとしながら俺を見つめた。頬に雫がぽろりと伝っている。 「トオルさんが俺に託したのは、ヨーコさんに手を差し伸べやすくする為じゃないですかっ!どう考えてもっ! だって、最初から俺がヨーコさんを好きって分かってて頼んできたのがトオルさんなんですよ! トオルさんが……たとえどんな形であれ、ヨーコさんが俺を頼ってくれるようにしたんじゃないですか。……だから、トオルさんの気持ちなんて、初めっから……」 こうなる事を、きっと知ってたんだ。 気持ちを言わない俺達の事を初めから知ってたんだ。もちろんトオルさんは自分が死ぬつもりなんて思ってもない。そういう人じゃない。 だけど、“もしもの時”として、俺にああ言ったんだとしたら――……。 ずっと前の夜に、耐えきれずに彼女に一度だけ言った事がある。 その時は最後の告白のつもりだった。 二度とこんな事、言わないと思ったほどだ。 けれど今、もう一度伝えるべきだと思い、決めた。 彼女の肩に置いた手に、ほんの少し力がこもる。 服越しに彼女の体の熱が伝わり、生きている温度を感じた。 「トオルさんの代わりにはなれません。だから代わりじゃなくて、俺を――……見てください」 言い終わると、彼女の表情が歪んだ。 けれどそれは彼女が泣いたからじゃなくて……俺が泣いていたからだった。 ほとほととこぼれ落ちる涙に、一瞬誰のものか分からなかった。 それが自分の涙だと自覚した瞬間、漏れた息と一緒に心の底に沈めていた感情が一気に浮上して抑える事ができなくなった。 瞬きをすると涙の粒が一緒に落ち、床とラグの境に染みていったのが見えた。 「トオルさんにずっと憧れてます。好きです。尊敬していたし、いなくなってほしくなかった。ずっと俺の前を歩いていてほしかった。写真を見続けたかった……あなたと幸せになってほしかった。トオルさんの前で幸せそうにしているあなたを見ていたかった」 涙が止まらない俺の頬を、ヨーコさんは何も言わずに両手で優しくぬぐう。 それでも止まらない雫は彼女の手のひらから腕にそのまま伝い落ちた。 「でも、半分、嘘ついてました。……俺、ずっと嫉妬してたんです。 トオルさんに。あなたの傍にいられたらいいのにと思ってたのは……いたいのは……俺のほうだったんです。 ……俺がそんなこと思ってたからっ……そうしたら、あの事故で……っ……」 「違うよ、それは違う」 咄嗟のヨーコさんの否定に、俺は首を横に振った。 「違わなくない!……だから……ヨーコさん、……俺をっ……許してください」 最後はほとんど嗚咽になっていた。 許して欲しい、という言葉と、愛して欲しいという想いは同じ叫びだった。 あなたのことが、好きなんです。どうしようもないくらいに。 けれど、トオルさんがいなくなって少しでも手に入るんじゃないかと思ってしまった自分が、卑劣で、弱くて……こんなことになるなら最初からトオルさんに宣言するべきだった。 初めて会ったその夜に、正々堂々トオルさんにメールでも何でも伝えるべきだった。 こんなかたちでしか告白ができない俺を、トオルさんにもヨーコさんにも……許してほしかった。 ここで強い風でも吹いたらそのまま持っていかれるんじゃないかと思うくらいに、自分の立ち位置は頼りないものだった。 今まであんなに失くしたくないと思っていたのに、今では失くしても仕方ないと思う。そのくらいに酷いことを彼女に言った事は承知している。 俺は、途方に暮れていた。 それでも、俺をここに留まらせてくれようとしたのは、ヨーコさんだった。 ヨーコさんは俺の背中に腕を回して、しっかりと俺を抱きしめてくれていた。 まるで初めて口づけをしたあの時のように。 温もりに気がついて涙が先ほどより落ち着いた俺に、ヨーコさんは子どもに言い聞かせるみたいにゆっくり、落ち着き払った声で言った。 「……トオルは、怒ってないよ。ケンタロウ君の事。 たぶん、何があってもあの人はケンタロウ君に怒らないと思う。……怒られるのは……私のほうだよ」 「ヨーコ、さん?」 見下ろすと、ヨーコさんは俺の胸にうずめていた顔をそっと上げ、同じ泣き顔のまま優しく微笑んだ。 「俺の大事な後輩、泣かすなって」 親指で優しく俺の頬や目尻を拭う。 さっきまでは彼女のが頼りなく見えていたのにすっかり逆転してしまったと思い、かっこつかない自分に思わず小さく笑った。 「トオルさんの、大事な後輩なんですから、俺の事大事にしてください」 「代わりなんて、思った事、ないよ。ケンタロウ君は、はじめからケンタロウ君だった」 まさかの言葉に返す言葉が見つからなかった。ヨーコさんは続けた。 「……どこまでもトオルに見透かされてたなんて、やんなっちゃうね。……もう、いないのに」 もう、いないのに。 寂しそうな響きだったけれど、まるで自分自身に言い聞かせているようだと思った。 もう、いないんだ、と。 俺も同じようにしてヨーコさんの頬に触れる。涙はまだ乾いておらず、濡れたあとを感じた。 どうして素直になれなかったのか。 許さないはずがないトオルさんを、二人してどうして怯えていたのか分からない。 二人して泣きに泣いて言うだけ言ったら、なぜ本当の気持ちを打ち明けない事に拘っていたのか、ほんの少し前のことなのに自分たちの事が分からなかった。 もしかしたら案外、ヨシダさんの言った「トオルは絶対に嫌いになったりなんかしない」という言葉が、“思い込み”の呪いをとく言葉だったんだろうか。 なんだか、ずっと長い旅をしてきたような気分だ。 じゃあずっと長い旅をしてきたようなら、もうここが終着点と思っていいだろうか。 失っても仕方がないと諦めていた。 けど、彼女はここにいてくれた。それがもう答えなんだ。 俺は何も言わず、もう一度彼女を抱きしめる。 するとしばらくして、背に彼女の手のひらを感じた。 その温度にジンと再び目頭が熱くなりながらも、今度はそれを悟られないようによりいっそう強く抱きしめた。 唯一諦められなかった愛しさを、もう逃がしたくないと思いながら。 * * * * * * * 「ヨーコさん、これでいいと思う?」 俺は礼服の胸ポケットに入れたチーフをヨーコさんに確認してもらおうと、ドレッサー前でメイクを仕上げる彼女に訊いた。ヨーコさんはちらりと俺の姿を確認すると少し呆れたように笑った。 「いいんじゃないかな。似合ってる、似合ってる」 「ほんとですか?」 「第一ケンタロウくんは人に聞いたって自分の中で初めから決めてるタイプじゃない」 「だって今日は俺スピーチすんですよ!一応カッコイイいお墨付きほしいです」 「はいはい、カッコイイ、カッコイイ」 「ヨーコさんテキトーすぎ。って、まぁ最初からこのチーフって決めてましたけど」 俺の答えにヨーコさんは「ほらね」と分かったように微笑んで仕上げのリップを唇に引いた。鮮やかな薔薇が咲いたような色に、妙にドキッとする。 いつもとは少し違うメイクに、他の男性の目が少し心配になるだなんて言ったら呆れられるに違いないと思って、言うのをやめた。 彼女はそんな俺に気付かず、必要最低限のメイクグッズを小さなポーチに入れると、それを結婚式用のこれまた小さなバッグにしまった。 電車の時刻と時計を確認すると、もうそろそろ家を出る時間だった。 改めてお互い身だしなみやご祝儀などの持ち物を確認し玄関へと向かう。 「……にしても、ヨシダ先輩もほんっと憎いわぁ。計ったように私たちの記念日に結婚式挙げなくたっていいのに」 「あははは。けど授かり婚ってとこがヨシダさんらしいっすよね」 「ほんとほんと。マタニティドレス選びも私んとこに写メで相談されたんだから。どれが似合うか女子目線で教えてくれって。ネタバレもいいとこよ」 「でもホームパーティーでもすごく良い人でしたね」 「ヨシダ先輩にはお嫁さんみたいなしっかり者がぴったりよ。山登りにも理解があるしね」 「そういえば記念日の埋め合わせの来週は、天気も良いみたいだよ」 「ほんと?本格的に寒くなる前に登りたかったから快晴なんてご褒美みたいね」 「あ!……今日、あれも一緒に持ってっちゃ駄目かな?」 「あれ?」 「ちょっと待ってて」 俺は慌てて引き返し、テレビ台キャビネットに飾ってある色々な写真のひとつから、小さな写真立てに入ったそれを取り出した。 俺が持ってきたそれを見て、玄関で待っていた彼女は微笑んだ。 「……そうだね、うん。きっと、祝いたがってると思うし、トオルも」 「それにヨシダさんの転職の恩人ですしね」 「あはは。そうだ。トオルに怒られちゃうわ」 あれから、トオルさんの名前で送られてくる写真は無い。 二人の部屋には彼の写真だけでなく、俺の写真も飾られるようになって、二人の写真も増えた。 そして今日は俺と彼女が付き合って、ようやく1年だ。 本当なら今日、記念日のお祝いをしたいところだけど、結婚式の予定が入ったのでゆっくり二人で過ごす事は叶わなくなってしまった。 だから翌週の平日、ヨーコさんの定休日に合わせて俺も有休をとることにした。 なんたってうちの社長は理解が深いので、登山休暇なんてものがあるんだ。今回はそれを施行させてもらうことにした。 おまけにさっきテレビで見た天気予報ではその日はちょうど快晴になっていたからラッキーだ。 本当はトオルさんの墓参りの話も上がったけれど、何となくトオルさんはそこにはいない気がするというのもあって、せめて3人がよく一緒に登った山へ行こうということになった。 それにヨーコさんがトオルさんの実家の方へ顔を出すのは、何となく気が進まなさそうに感じたので、きっとトオルさんの葬儀の時に何かがあったんだろうなと察したのもあった。 トオルさんの遺体はまだあがっていない。 もしかしなくても、この先も手元にくることはないと思う。 だから、二人で山へ行くのだ。 前よりも彼女はよく笑うようになった。仕事も相変わらず楽しそうだ。 店の方も女性の方が意外とジビエ料理が好きらしく、新しいレシピのおこぼれをしょっちゅう預かっている俺は毎回舌鼓を打たせてもらっている。 まぁ、何でもかんでも俺は美味しいと言ってしまうので「試食の張り合いがない」と嘆かれる事もしばしばなんだけど。 寂しい表情はふとした時にするけれど、それはきっと俺も同じだろう。 マンションから出ると、秋晴れが広がっていた。 彼女と並んで歩きだした時に指先がお互い触れると、歩み寄るように彼女が指先を絡める。 少しひんやりした細い指先が愛しくて、俺はそっと絡めていたそれを恋人繋ぎにして握る。彼女もそれにこたえてくれて、何だかやけに嬉しくなる。 「電車も遅延してないみたいだしスムーズにつきそうだね」 「あ~~。緊張してきた。緊張すると噛みそうになるから気をつけよ」 「そしたらアサヒ君がエール送ってくれるんじゃない?」 「ヨーコさんとアサヒ、二人揃うと最強ってくらい俺のことあおってくるんだもん。気、合いすぎ。緊張するってば」 「なんかアサヒ君とは妙に気が合うんだよね~。きっとアサヒ君も私に負けないくらいにケンタロウ君のこと大事に思ってくれてるからじゃない?」 「まぁ、アサヒすげぇ良い奴だから否定しないけど」 「私もアサヒ君も応援してるし、大丈夫!今日のケンタロウ君は噛まずにスピーチ立派に言えるよ」 頼もしい彼女の一言が俺よりもずっと男前すぎるなんて情けないとこだけど、今日は確かに失敗するわけにはいかない。 なぜならこの緊張の一日を乗り越えられれば、次に待っているもっと緊張しそうな事にも挑んで行けそうな気がするからだ。 彼女と肩を並べて歩く中、どこまでも高く広い青空に、俺は一つの事を想う。 彼女に告げるつもりの “俺と結婚してください” という言葉を――……。 ( ずっと貴女のところへ帰りたいと思っていた  )
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