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冒険
“女が作るカクテルはさぁ、深みっつーもんがないんだよね”
じゃあ私が今作ってる水割りなんてのはもっと薄いに違いない。
そう心で思いながら張り付けたような笑顔でグラスを差し出した。
そんなことがあって、キャバクラのバイト帰りにムシャクシャしていた夜。
「ねえ。店員もお客さんも、女性限定のバー、手伝ってみない?」
いつも寄る牛丼屋。
アタマ多めで玉入りにして、人目もはばからずかっこんでいたところ、たまに見かける夜のお姉さまからいきなりスカウトされた。
この人は私の何を知って声をかけてくれたのか。
ごくんと肉を飲み込んだ私は逆に聞いたのだった。
「女でも真剣に、カクテル作っていいんですね?」
試してくるかのような妖しい瞳は、今度はまっすぐに私を見据えて意外なことを言った。
「あら。たまには不真面目に作ったっていいのよ?気まぐれな女性がお客さんだもの。女心で作るお酒は、ちょっとの遊び心と冒険心があるほうが楽しくて美味しいわ」
元々私のやりたかった仕事を持ちかけられて「NO」なんて言う理由なんてどこにもなかった。
入口にボードを立てて、チェリー色のネオン看板のスイッチを入れたら、あとはお客さんを待つのみ。
ここは、女性による女性のためのバー。
『PASSI♦N』
【 冒 険 】
バーだけど午後3時半にオープンにしているこのお店に入る条件は、女性であること。
繁華街ビルの2階でひっそりと開いているそこは、男性のいない空間で女性が気軽にお酒を楽しめる空間を作りたいと、スタッフもお客さんも女性限定のバーをオーナーのカオルさんが作ったお店だ。
「リカさん、もうお客さんきちゃいました!?」
慌ただしく階段を駆け上がる音がして、扉が開くと同時に切羽詰まった声がした。
ものすごく真っ赤な顔で息切れしている彼女は、スイーツ担当のカノンだ。
私より3歳下で26になったばかりだけどまだあどけなくて、栗色に染めたマニッシュなショートヘアがよく似合っている。
「まだお客さんきてないから大丈夫」
「久々に電車乗ったらいきなり遅延しててホントマジやばかった~すぐ支度しますね!」
「あー、カノンおはー。電車大変だったね。バックで着替えてきなー」
私の後ろにいた料理担当のヨーコが仕込みを終えて業務用冷蔵庫の大きな扉をバタンと閉める。
時間を確認し、仕上げのソース作りのために鍋を棚から出す。
しっかり者のヨーコは私より2歳上で、私が働く1年前のオープン時からずっとここで働いている。といってもお店自体は3年目なのでまだまだ新しい。
バーだけあってカクテルはもちろん、日本酒も取りそろえているしおつまみも気の利かせた逸品からガッツリとお腹にたまるメインもあって、女性限定ダイニングバーというのがしっくりくるかもしれない。
もちろんスイーツだってカノンがいるから夜カフェなんかも叶ってしまう。
カクテル担当、コック担当、スイーツ&バリスタ担当といった感じでフロアをまわしている。
カウンター席とソファー席で気兼ねなく、なおかつゆったり過ごせるようにしていて、いつもスクリーンには女性に人気の映画が流れている。
店内のヴィヴィッドピンクの壁に飾られる永遠の乙女のオードリーやアンディ・ウォーホルのセクシーなモンローがこの空間を楽しむ女性たちを見守っているなんてなかなかに贅沢だと思う。
コンセプトが女性のためのバーなので普通に女友達同士で飲みに来る子もいれば、何となくパートナーなんだろうなと感じる二人組もいる。
けれど誰であっても気持ち良くこの空間を楽しんでくれるのならば関係ない。
私もそういうところが気に入って勤務しているし、お酒を楽しみにきてくれる子がほとんどだから、この冒険に出てみて本当に良かったと思った。
今では働く女子の口コミも広まり、女性雑誌でも何回か取り上げられてからは、客足も伸びている。
客層は20代から30代の仕事帰りの女性が多く、楽しむ空間はまさに女子会そのものだ。
ヨーコの仕込みを手伝いながらカトラリーやボトル、エスプレッソマシンをチェックする。
夕方一番乗りのお客さんは、女子大生が多かったりするからだ。
着替えを終えたカノンがショーケースにスイーツを並べ始め、カップスイーツの盛り付けをはじめた。
「カノン、それキャラメルアーモンドのやつ?」
カノンがデコレーションしているカップスイーツを見ると、この間出して即完売になったプリンだ。
キャラメルアーモンドの風味で、ショコラオランジュが上に飾ってある。
カノンはあどけなさの残る顔で嬉しそうにした。
「うん。今回のもビターめにきかせてるから、エスプレッソにもワインにもブランデーにも合うと思って。お姉さまたちに人気だったから、お酒と合うスイーツをしばらく続けてみようかなって」
「あぁ、お酒飲むお客さんが結構頼んでたよね」
カノンは天然ぽそうだけど意外と人を見ていたりする。
お客さんの味の好みを見抜くのも早いし、味覚が変わっても対応が早いのでカノンのスイーツのファンも結構多かったりするのだ。
ヨーコは料理人らしい料理人。
豪快な料理を作るのが上手で、ジビエ料理の具材を仕入れる時なんて目をキラキラさせながら買い物リストと見つめあっている。
登山が趣味だから本当は山で作る男の料理みたいなのが得意と言っているけれど、やらせてみれば繊細なイタリアンのコース料理もお手の物なんだからやはりプロはプロだ。
みんなここで働く前は若いながらも有名ホテルの厨房にいたり人気店のパティスリーで働いてたりして、カオルさんが目を光らせて引き抜いたって流れだから私と同じだった。
ちなみにオーナーのカオルさんは、ヨーコの叔母に当たる関係らしく(カオルさんがまだ10代の時にヨーコが生まれたから叔母さんなんて口が裂けても言えないとヨーコは言っていたけど)普段はキャバクラよりもワンランク上のクラブのママを若いながらもやっている。
ここへはふとしたときに訪れる程度で、メニューもヨーコとカノンに一任している。
そしてどういう経緯でお店を2つも持たせてもらえてるかは……何となく怖くて聞けない。
その時、チリンと入り口ドアに備え付けの鈴が鳴った。
「こんにちは~。もうやってますか?」
おずおずと顔を出した女の子二人組。どうやら学校帰りの女子大生のようだ。
私たちは笑顔で、親しみを込めながら出迎える。
「いらっしゃいませ。2名様でよろしいですか?」
今日も出だしは上々のようだ。
今夜も常連のお客さんから口コミでやってきたお客さんまで、カウンターはあいてるもののテーブル席はすべて埋まり、オーダーに給仕にとちょっと慌ただしい。
そんな時、見慣れた顔がやってきた。
「こんばんわ♪お席、ありますか?」
「もちろん、カウンター前の特等席があいてましてよ♪」
「あははは。じゃあ2名でお邪魔させていただきますか」
「ようこそ。こちらのお席へどうぞ」
扉を開けて入ってきたのはエミさんとルリさんだ。
エミさんはゲーム会社、ルリさんは出版社で働いていて高校からの仲らしい。
最初はルリさんが仕事関係の人と訪れたのがきっかけで、ルリさんがエミさんをここに連れてきて、そしたらエミさんがこのお店を気に入ってくれて常連になったという流れだ。
二人は席につくなりメニューを見るまでもなく仲良く声をそろえて「ビールお願いします」と言ったもんだから、おしぼりを渡しながらつい笑ってしまった。
「もぉ!リカさん何で笑うんですかー?」
「ごめんなさい、エミさん。だってルリさんとあんまりにも息ぴったりすぎて」
「ビールのオーダーだけはついタイミング揃っちゃうから当たってるかも」
「ほんと?ルリもそこまで気がついてたなんて、私だけが何か間抜けみたい~」
ビールグラスをサーバーにセットし、いっぱいになったら泡をすくってまた少しだけ足す。
ビールと一緒にお通しも出すと、二人は目を輝かせた。
「って、今日のお通し、めっちゃご飯に合いそう……」
「ミニハンバーグ、しかもチーズとトマトとか米食べたくなる……」
「二人ともお仕事帰りですもんね。お米もありますよ~。何でもありますよ~」
そう誘惑すると、厨房にいたヨーコが顔をのぞかせた。
「なんなら今日カチャトーラあるので、ご飯にかけてまかない風にしてお出しできますよ~」
そんな美味しい情報を聞いたエミさんは思わず、たまらない!って顔になる。
「あーもーここで一気にメイン行ったら早すぎますよー!とりあえずスパイシーポテトと、ニース風サラダください」
「え、じゃあ私さっそく、そのまかない風ご飯ください」
「もうメイン行くの!?」
「だってお腹すいちゃったし」
いつもこの二人のやりとりが気持ちよくて、仕事をしながらこっちまで楽しくなってしまうのだ。
「そういやルリはヒロム先輩とは最近会えてるの?」
2杯目にカクテルを出したあたりでエミさんがルリさんにそれとなく聞いた。
どうやら彼氏のことらしい。
ルリさんは彼氏の話を振られて、いつもなら楽しそうにデートの事をぽつぽつと話すのだけれど今日は何だか寂しそうだった。
「実はここ3週間、会えてないかも」
「そんなに?」
「……うん。忙しいのか出張がけっこう多くて。こないだも関西と九州行ってたし、あとベトナムにも2週間くらい行く事になったって言ってたから、またしばらく会えないかも。向こうが落ち着く頃に私の仕事のほうが締切で忙しいからタイミング合わないんだよね。先月も校了して時間できそうってなったら出張ですれ違っちゃったし」
「連絡は毎日とってんでしょ?」
「うーん、とってるっちゃとってるけど、お互い疲れ果ててるからトークもスタンプで済ませちゃったり。これじゃ寂しいなぁとは分かってるんだけど、私も仕事が乗ってるからそっちにパワー取られちゃって……お互い慣れてるとはいえ、これじゃだめだよねぇ」
ルリさんは高校の頃から付き合ってる彼氏がいて、前に一度画像を見せてもらったら(だってエミさんがあんまりにもイケメン彼氏を豪語するから)本当にすごくカッコイイ子でビックリしたのを覚えている。
仕事中にも関わらず、外を歩けばメンズ雑誌のスナップやカットモデル、スカウトの声もたくさんかけられるらしい。
恋愛と仕事のペースが食い違ってくるなんて珍しい事じゃない。
20代半ばなら女の子も仕事覚えて任されるようになって楽しくなってくる頃だ。家に帰ればバタンキューの気持ちも大いに分かる。
それもあってエミさんも余計な事は言わないでいる。
「男性もだけど女性だって、その時にしか全力で仕事打ち込めないって時もありますからね」
私のほうがつい口を挟んでしまうと、ルリさんは優しく微笑んで頷いた。
「そうなんですよね。向こうも仕事すごく楽しそうで、私も実際楽しいし、だからこそ会ってない事にこれでいいのかな?ってついモヤモヤしちゃうというか。……私冷たいですかね?」
「そんなことないんじゃないかなぁ、ルリ。私なんて前の彼氏に、お前は仕事してるほうが楽しそうだから、俺じゃ幸せにできないことに気付いた!とかいきなり言い出してフラれたかんね。そりゃーそうよ、だって私ゲームするのも仕事だもん。……って全然励ましになってないか」
「エミさん、私もそれ彼氏に言われた事ありますよ~」
「リカさんも!?」
「あはははは。でも、仕事してる女性って、それだけ自分懸けてやってますし、それについてこれない男はそれまでだったってことですからいいんですよ」
「励みになるというか、でも言われたらショックだなぁ~」
「ルリ、ますます悩むなー!」
「男と女はなるようにしかならないですから。お互い好きなら大丈夫ですよ」
そうニッコリと締めくくった。
そう。お互い好きなら大丈夫。
愛があれば、大丈夫。……と思えたらどんなに楽か。
心でため息をつく。
だってそんなこと言う彼氏が、ふらりときてはダラダラとヒモのようにいる現実が頭によぎる。
むしろ私の方に問いたい。
私たちの関係に、きちんと愛はあるのだろうか?
女性限定のお店はあまり遅すぎてもお客さんの見込みがないため、終電に合わせて店仕舞いをする。
閉店作業を終えて、みんなお店から近い距離に住んでいるので店の前で解散になり、カノンとヨーコはいつも方向が同じなので私だけ反対方向へと自転車を走らせた。
お店で余った料理を分けてもらって、夜食と朝ごはんにしようと思っていたけれど、こんな夜だし軽いものがいい。
スーパーでお酒とバケットとうどんを買っていく。
カチャトーラだからパスタのほうがいいのだけれど、パスタって何か癖になって食べ続けて太るような気がして、いつも寄るスーパーに稲庭うどんが置いてあるのに気付いて最近はもっぱらそれをパスタ代わりにしている。
うどんだけれど細麺だから素麺みたいな感覚で食べられるのだ。
一束手にしたところで……家にアイツがいるのを思い出した。
一瞬考えて……もう一束を買い物かごに入れた私はなんて優しい女なんだろうと自分に言い聞かせた。そうじゃないとやってられない。
お店から自転車で10分ほど走ってアパートについた。
ドアノブを回すと……やっぱり鍵がかかってない。
今回はいつまで滞在することなのやらと思いながらも「ただいまー」と口にする。
家の中に入った瞬間、スパイシーなトマトの香りがした……これは紛れもなくカップ麺のチリトマトヌードルの匂いだ。
カチャトーラにうどん、なんてどこまでも被りすぎだ。
すっかり家の主と言った顔のキョウヤは、ラーメンをずるずると良い音をさせ咀嚼しながら「おかえり~」であろう言葉を放った。
キョウヤはハーフパンツにTシャツで、肩くらいまでの髪を後ろ一つにしばっていた。髭だって剃ってない。
いや、それに関しては彼のトレードマークなのかいつだって剃ってない。
痩せっぽちの体は日に焼けていて浅黒いおかげで余計に野生児のように見える。
「あれ、もう出てくんじゃなかったの?」
そう言ってやると「あーあれ、何か行き先の都合が悪くて様子見。しばらく待機になったから、GOサインが出たら行くわ」と気ままにに答えた。
「今回、けっこう長いね」
「まぁ、ここんとこ日本のほうにいないかんなー。でも帰ってくるたびに新しい建物とかたってて、デカい駅行くたびに花さか爺さんだわ」
「それを言うなら浦島太郎だろ」
「あ、そうそう。爺さんになって分かんなくなっちゃうやつ」
キョウヤは私がキャバで働き始めた頃に知りあった彼氏だ。
いや、彼氏というか腐れ縁というかヒモというか。
私はド新人で、キョウヤはボーイになってしばらくした頃だった。
私は元々接客慣れしていたからすぐに夜の世界にも慣れたけど、キョウヤはド新人の私から見てもかなりの不器用で、バカで、夜の世界に不釣り合いなほど真っすぐだった。
私はどちらかというとひねくれものなのに、どうしてキョウヤとこんな関係が続いているのか。
それも一緒にいてなかなか相性もよいのだから、不思議とダラダラ続いているっていうのが正しいのかもしれない。
「次、海外行く時はどんくらい?」
「うーん、多分まるまる1ヶ月。で、そのまま次のとこに行くかも」
「とりあえず、病気だけは気をつけてね」
「え、どういう意味の?」
「ばーか、両方だよ。そしたらもうあんたと二度とエッチしないから。家にも入れないし鍵も換えるから」
「あはははは、わざとボケたんだってば。そしたら鍵壊してでも居座るわ」
自分が人生懸けてるものとバックパック背負ってフラッとどこにでも行っちゃう自由人。
きっと何をしても憎めないのはどこまでも自由だから。
「ねぇリカ。何か作ってよ」
「えー、あたしこれから夜食たべんのに」
「だって明日急に早まって行くかもしんないじゃん」
「お前ほんと調子いいな!」
「それともネタ切れ?」
このやろうめ。
「そんなわけないでしょ。じゃあお客様、どんなのがお好みで?」
そう挑発すると、してやったりのニヤリ顔が返ってきた。
「じゃあ、ジン使ったやつで」
本当に私の操作が上手いったら。
正反対の私たちが付き合うきっかけもバーだった。そして、私が本気でカクテルやりたいのを打ち明けたのは、キョウヤが初めてだった。
私も元々はちゃんとしたバーで働いていたのだ。老舗で格式も高く、本格的な。
たくさんのお店に弟子入りをお願いして、そこだけが私を拾ってくれた。
オーナーは70歳近い人で、その人がいるから来たいというお客さんばかりのお店だった。
けれど、ある日とうとう倒れてしまい、末期がんであっという間に亡くなってしまった。
お店も閉じることになり、もちろん女性の私を拾ってくれるお店もなく(どうしても自分がバーテンダーとして働きたいお店の理想だけは曲げられなかったのも原因だけど)いつまでも弟子入りを頼みこんでるだけでは食べていけないので、とりあえずキャバクラで働いたって流れだ。
そしてキョウヤに出会って、お互いの夢を語ってセックスしてあっという間に仲良くなって……何て若くて何てありきたりなんだろう。
あの時の青臭さを思い出すたびにちょっと笑ってしまいそうになる。
「はい、どうぞお客様」
「って、ただのジンライムじゃん!」
「シロップじゃないだけいいでしょうが」
「悔しいけど美味い……」
「当たり前でしょ」
「リカの作るカクテル飲むと、日本にいるって感じするわ」
そう言って、キョウヤは子犬みたいな人懐こい笑顔をした。
あーあ、ふらりとやってくる癖に、何日もいない癖に、またどっか遠い国に行っちゃう癖に、それでいて連絡あんまりよこさない癖に。
おまけに何の約束すらもしない癖に。
それなのに、キョウヤの笑顔とあの言葉で待つことが出来る私のほうがよっぽど忠犬のようだ。
そして次の日。
出勤する私にいってらっしゃいと、Tシャツをまくりお腹を掻きながら見送ってくれたキョウヤは、私が帰ってきた深夜には荷物ごとすっかりいなくなっていた。
テーブルにメモ書きみたいな置き手紙を残して。
『リカへ 別のとこから声がかかったから、とりあえずイタリア行ってきます。そっから次のとこ行く。帰ってきたらまた寄る。体に気をつけて。行ってきます。 キョウヤ』
手紙を見た後、ベッドに身を投げる。
このベッドも久々に悠々と独り占めできる。安眠生活の始まりだ。
だけど、ほのかに残るキョウヤの匂いがもう既に懐かしいような気がするなんて、そんなの気のせいだと自分に言い聞かせた。
メモ書きの宣言通りにキョウヤが帰って来ないまま、しばらくたった日のこと。
その日は天気が悪く、雨風が強くなるたびに自然と客足は遠のいていた。
時間も時間だし、今日は売上目標はムリそうだなと話していた時、ようやくお客さんがきた。
誰かと思ったら、ものすごく元気のない顔をしたルリさんがいた。
言葉を交わせばいつもと変わらないのだけれど、やはりどこか元気がない。
そして珍しい事にお酒ではなくカフェラテをオーダーした。
他のスタッフもいつもより元気のない彼女が気になったようで裏で見守っていた。すると階段を忙しない足音で登ってきたかと思ったら、ものすごい勢いでエミさんが入ってきた。そしてルリさんの顔を見るなりすぐに口にしたのだ。
「ルリ、大丈夫!?どうした!?」
元々連絡をとっていたのだろうか。
ルリさんの表情を感じとったエミさんが心配した途端、ルリさんの笑顔は一瞬にして力ないものになり涙がポロポロこぼれた。
カウンターにいた私も、裏で様子を見ていたスタッフもぎょっとしてしまう。
ルリさんはちょうど他にお客さんがいないのもあり気持ちがゆるんだのか、弱々しい声で言ったのだった。
「ヒロム先輩と、……別れ、て……きた……」
雨脚はだんだん強くなり、そういう時は女性のお客さんはあまり来ないので、結局早めに店じまいになった。
どうやら気圧が変わって台風になりかけているらしい。
私も家に着いた頃にはジーンズがしっかりと濡れていて脱ぐのに一苦労だった。
体が冷えてしまったのですぐにお風呂を沸かして体を温める。
湯船につかりながらお店でのことを思い出す。
ルリさんはずぶ濡れになることなく、ちゃんと帰れただろうかと心配した。
ルリさんと彼氏さんは本当なら今日はデートだったらしい。
けれど彼が急に仕事の用事が入ってしまいデートが流れてしまった。
そのタイミングでルリさんは帰りがけに会社のお使いを頼まれて届け物をすることになった。
届け物は無事に済み、すると取引先の人から飲みに誘われた。
デートも流れてしまったし、これからも仕事をする機会のあるチームということで、ご厚意に甘えチーム飲みにご一緒することになった。
お店でルリさんが食事を楽しんでいると、見知った顔がカウンターにいた気がした。
どうやらそれが彼氏だったようなのだ。
それも隣に女性がいて、すごく親しそうにくっついていた。
もうそこからは気もそぞろで、とりあえずその場で「今なにしてるの?」と詳しい事は書かずにメールしてみたそうだ。
彼は一瞬ケータイに気付き、見ようとしたところで女性がますますくっついてケータイを見ようとしたので、彼はそのままメールを確認することなくポケットにしまったままとうとう出さなかった。
祈るような気持ちで最寄駅のカフェで待つと連絡を入れてみたところ、何も知らない彼はきちんとやってきたのはいいが、そこでどうやら色々な感情をぶつけてしまい話がこじれてしまったようだ。
私が聞いていた分には、お互いきちんと整理して話し合えば簡単にとけてしまう誤解なのにと思ったけれど、恋というものは厄介で当人には何か悪い流れになってしまうのが常らしい。
お互い満足に会えなかったりすれ違ったりしていることも手伝って、またイケメンの彼氏を持つとその不安は信じていてもどこかでずっと育っていたのかもしれない。
そしてそのまま別れ話になり、エミさんに連絡をしながらここへ来たそうだ。
ルリさんは泣きながら「最終的に……別れようって、先輩から言われた」とぽつりぽつりと話してくれた。
「どうして……」エミさんが問うと、ルリさんは首を横に振りながら「私からは、とてもじゃないけど言えないよ」と答える。
それでも彼氏のそんな場に遭遇して、別れ話を切り出すべき立場は彼氏じゃなくてルリさんだと内心憤慨していると、ルリさんはムリに笑いながら続けた。
「だって、先輩……私がそういうの絶対言えないって、分かってたから。……だから、私が先輩に言わせちゃった。……だから、これでよかったんだよ。私からは、言えないもん……」
「……私もあんな可愛い言葉、言える女になれたのかな……」
お風呂で呟くと同時に、それでもそんなに謙虚に思えないなと答えを見つけていた。
キョウヤの前であんなに可愛くはなれないのを知ってるからだ。
近くにいないから甘えようもないし、帰ってくればヒモみたいな感じだし。
たまに送られてくるハガキには大したことも書いていないし、かといえば突然名物を送りつけてきたりするし(それも大概まずいし何の食べ物か分からないのが多いので、一口食べて大体捨ててしまう有様だ)
若ければもっとこじれてるのかもしれないけれど、こじれるほどの距離じゃないのだ。
そういえば今日はハガキが届いていた。
森林と湖畔の綺麗なポストカードだった。
送り主を見ることなく誰だかわかる。どうやらドイツから送ってきたみたいだ。
(キョウヤは、私とはこの先どうなるつもりなんだろう)
当たり前のことだけれど、きちんと考えたことがなかった。
だって私も安定している仕事ではないし、キョウヤだって年がら年中海外遠征な日々を送っているから結婚なんてものは無意味に近いとすら思えてしまい、考えるのを自然と避けてきた。
答えってそんなに必要?と思う自分と、ずっとこのままではいられないのが分かってる自分がいて、親の顔もちらついてくる。
こうしてキョウヤの連絡を待っているのが苦なわけじゃない。
だけど答えを出してキョウヤが私の前に現れなくなるかもしれないってどこかで思っていて、想像すると急に心がぽっかりしそうだった。
ルリさんもエミさんも仕事が忙しい時期に入ったのか、あの日以来お店に来ない日がしばらく続いた。
そうして休みの日になり、色々買い出しを終えた帰りに休憩しようと思ってカフェに寄った時のこと。
買ったばかりの本を読んでいると、男性が「隣、いいですか」と声をかけてきた。
ちょうど私のテーブルとくっついて4人席のようになっていたので「ええ、いいですよ」とテーブルを離すと、男性の後ろからひょっこりと女性が顔をのぞかせた。
女性は「リカさんじゃないですか!」と驚くように声をかけてきたので、見ると男性の後ろにはエミさんがいた。
二人分のアイスラテを乗せたトレーを持って、私のはす向かいに座る。
エミさんは「あれからご無沙汰しちゃってすみません」とペコリと頭を下げたので思わず恐縮してしまう。
男性はエミさんに「知り合い?」と聞くとエミさんは「私とルリがよく行くお店のバーテンダーさんだよ」と紹介した。
改まってバーテンダーと紹介されると嬉しいような、こそばゆいような気持ちになりながらも、隣に座った男性に挨拶をする。
エミさんは私に男性の紹介をした。
「この人は、私とルリの高校の先輩で……ルリの彼氏さんの……いや、元彼の親友の……」
「あはは、えーと、エミとルリちゃんの高校の先輩かつルリちゃんの元彼の友人のヤマシタです」
エミさんの紹介がちょっと面白かったのか、ヤマシタさんは笑いながら自己紹介をしてくれた。
背の高い落ち着いたオシャレなメガネ男子だ。
「お二人、デートですか?」
私がニヤニヤしながら聞くと二人して「いやいや!付き合ってないですから!」と同時に否定した。
そのわりには仲がよさそうなのでますます怪しい。
エミさんはちょっと言いづらそうにしつつも、こんな偶然めったにないからか「実は、ルリのことでヤマシタ先輩に相談してたんです。まぁ、近況報告というか」と打ち明けてくれた。
エミさんはあれからルリさんとも会えずにいて、メールのやりとりもカラ元気なのも分かるぶん辛く、それでも絶対に誤解しているだけだろうからと思ってルリさんの彼氏の親友であるヤマシタさんにコンタクトを取ったらしい。
ヤマシタさんは呆れながらあの日のことを話してくれた。
どうやらルリさんがうちの店にきていたのと同じく、彼氏さんはヤマシタさんのところへ押しかけてきたらしい。
しかもものすごいへべれけになって。
「ほんっとアイツって馬鹿なんすよ。無駄に顔面偏差値高いっつーか。こじらせイケメンなんすよね。本人めちゃくちゃルリちゃんのこと好きな癖に、思ってもないこと言っちゃってほんと馬鹿だわ」
「思ってもない事?」分かりつつも聞き返すと、エミさんも呆れながらため息をついた。
「好きなのに、別れようとか言っちゃうの馬鹿ですよね、ほんと。そんな事言うくらなら最初からルリに土下座しちゃえばいいのに」
「ルリちゃんから別れたいって言われるのが怖くて、ルリちゃんの口から聞きたくなくて自分から言いにいっちゃったとか、さすがに馬鹿すぎてフォローもできねぇよ。ガキじゃねーんだし、言ったら全部そう伝わるの当たり前なのにな。
しかも言い寄ってきた女が上司で、あの日も結局取引先に打ち合わせとか言われて騙し打ちされてたんだし。指定された場所に行ったら自分とその女上司だけとか、それ聞いただけで俺イケメンに生まれなくて良かったわと心底思ったけど」
高校時代の友人の事をここまでけなせるってことは、本当にルリさんの彼氏さんと仲良いんだろうなということがうかがえた。
それにしても状況を整理すると本当に厄介なようだ。
二人の話を聞きながら、ルリさんと彼氏さん(元彼だけど)の災厄は気の毒だなと思うしかない。
「それで、結局ルリさんと元彼さんはもう話合えなさそうなの?」
一番気になる事を聞くと、二人は困った顔をして見合わせた。
口を開いたのはヤマシタさんだった。
「二人とも、言ってる事も思ってる事も全く同じだから、ぶつかっちゃってだめだね。冷却期間はかなり必要かも」
「思いこんだら似てるもんね。変なところで素直じゃないし、昔から。ルリも弱いとこ絶対出さないからね」
「ヒロムのほうがまだヘタレだけど、今回ばっかりは難しいだろうなぁ。海外出張もすぐだからバタバタしてる頃だし」
二人してため息をつく。
何だかルリさんが可哀想になってしまったけれど、こじれてしまったものはしょうがない。
2人もこれ以上は動かないほうがいいだろうと思っているのが伝わるし、恋愛は当人同士のものだから、親友がフォローしきれない事となったらムリな話なのだ。
「……すごくぴったりの二人だと思ってたんだけどな。高校の頃から何だかんだで仲良かったし、大学も同じだったし。……でも、働くようになるとやっぱり変わっちゃうのかな」
エミさんがしんみりと言った。
こんな悲しそうなエミさんの声は初めて聞いた気がした。
何だかこのまま終わってしまうなんて本当に勿体ないことだけれど、二人が素直にならない以上は難しいだろう。
その後、ぽつりぽつりと話してから一足先にカフェを出た。
用事があるわけではなかったけれど、何となく……本当に何となくこの二人の雰囲気がどこか甘やかだったから、ひょっとしてと思って早く二人きりにしてあげたくなってしまったのだ。
バーで働いていると、男女の距離の近さとか脈があるかないかとか、ちょっとした瞬間に分かったりする。
何となくエミさんとヤマシタさんはくっつくだろうなと思ってしまった。
だけどお互いまだ気づいてないだろう。
ヤマシタさんも物腰が落ち着いているから、一生懸命なタイプのエミさんとは相性がいいかもしれない。
一つの恋が終わりかけて、でもまたどこかで違う二人の恋が生まれて。
ルリさんと彼氏さん、好きなら早く一緒になっちゃえば手っ取り早いのかもしれないけれど、今はそんな話をするきっかけもなさそうだから、二人ともまたちゃんとどこかで落ち着いて話ができればいいのになと願ってやまなかった。
「リカ、あんた下手したら現地妻の日本支店になるんじゃない?」
開店前の仕込み中に、何となくキョウヤとのことをヨーコにぼやいてみたところ、一刀両断された。
「……だよね」
「前に鍋パで紹介してくれた男の子でしょ?あの子日本人にしては外国人からもモテそうじゃん。太鼓やってんだっけ?海外に呼ばれるのすごいよね」
「太鼓は太鼓だけど、ラテンパーカッションですー」
「しかしなんでパーカッションなんだか」
「なんか出逢っちゃったんだって」
ヨーコの足手まといにならないように材料を混ぜたり炒めたりしながら、久々に自分の恋愛話をするなんて照れくさかったけれど、ヨーコも彼氏と海外の遠距離恋愛をしているので何となく話しやすかった。
自分がこんな話をするなんて、この間のエミさんたちの空気に当てられたようだ。
「で、結婚は考えてないの?正直」
「うーん……。あんまり考えた事ないかも。だってほとんど海外だし」
「キョウヤくん、他に女できちゃったらどうすんのよ」
「……その可能性もなきにしもあらず、なんだよね」
「海外飛び回ってるくらいの男だから、グラマラスでアモーレな彼女できちゃうかもよ」
「……それは……ちょっと嫌だな」
「じゃあ答え出てんじゃん。一緒にいれる方法考えてみたら?何も年がら年中ベタベタくっついてるだけが結婚じゃないだろうし。逆に離れ離れだからこそ、自分のとこにちゃんと帰ってきてほしいじゃん」
「……そっか。そういうことか」
この間からグルグル考えていて答えが出なかった何か。
いとも簡単にヨーコの口から出てくるとは思わなかった。
キョウヤのことを待っているのは、私のところに帰ってきてほしいからだ。
待っていていい理由がどうしても欲しかった。
だけど、それに応じてくれるかはやっぱりキョウヤ次第だ。
何かに縛られたりとか、そういったものがキライならばもうその先へは進めないってこと。
自然と手が止まりかけた時、カノンと誰かが騒々しい足音で店に入ってきた。
「あれ、お客さ……って、え!!??」
私が驚くとカノンは一緒にきた男を私のほうに突き出してきた。
「さっきからうちのお店の看板を執拗に見てて、すんごい怪しくて問い詰めたらリカさんの名前が出てきたんで連れてきちゃいました。で、この人誰なんですか?!すんごい旅人ファッションで怪しいんですけど!」
「……キョウヤ、あんたなんで日本いんの?」
気が抜けたように言えば、大きなバックパックを背負った旅人ファッションのキョウヤはいたずらっこのような顔をして、
「って、ポストカードに今日あたり帰ってくるって俺書いたと思うんだけど」と答えた。
「ごめん、読んでなかったわ」
「えぇ!!??マジで!?」
とりあえず開店まで時間があるのでカウンターに座らせてアイスコーヒーを出す。キョウヤは喉が渇いてたようで、一気に半分も飲んでしまった。
「で、今回はどのくらい日本にいるの?」
「俺、1年半くらい帰ってこれなくなった」
「は!!??」
突然の発言に、ヨーコとカノンも驚いたようだ。
いきなりどうしてそんな答えがもう出てるのか、説明してもらわないとよく分からない。
私は「また、なんで?」と聞くしかなかった。
キョウヤはちょっとだけ照れくさそうに、だけど嬉しそうな瞳で私に報告してくれた。
「あちこちで呼ばれて音録りしたり演奏させてもらってたら、ヨーロッパにある劇団の監督と音楽担当の人が見にきてくれたんだ。その劇団の舞台でちょうどパーカッション担当してるやつが休暇とることになって、偶然俺の演奏見てくれてたそいつが監督と音楽担当の人に教えて、俺のとこに話を持ってきてくれたんだ。……って、完全に代役だけど。
だけど、そこそこ大きい劇団だから、契約してきた。そんなわけで、本当にしばらく日本には帰ってこれない。
今日も昼に日本ついたばっかで、これから荷物とか家とか色んな手続きしなきゃだからゆっくりしてられないんだけど……でも一番にリカに聞いてもらいたくて」
キョウヤは興奮してるのか、まくしたてるようにして言った。
けれど、1年半も帰ってこないって言われた私は……キョウヤがもう自分とは違うような、とてつもない遠い場所にいるような気がしてしまった。
「リカ?」
ぼーっとしていた私を心配して、キョウヤが私の顔を覗き込む。気がついて「あぁ、そうなんだ。すごいじゃん。おめでと」と祝いの言葉を口にしたけれど、いかにも上辺だけの自分の声色に我ながら情けなくなりそうだった。
彼のパーカッショニストとしての新しいキャリアをもっと喜ばなければいけないのに、どうしてこんなにも私の心は靄がかかっているんだろう。
キョウヤは私の様子に気づくこともなく、アイスコーヒーを飲みほして千円を置いてから「本当に報告だけになっちゃってごめん。
これから師匠んとこにも挨拶行ってくるから、また連絡する」と言うだけ言って足早に出て行った。
「……なんか、突風みたいな人でしたね。お釣り渡す間もなく行っちゃった……」
カノンがびっくりしたように言う。
そうだよ、突風というかつむじ風のようにタチが悪いよ、と言いたかったのに何にも言葉が出てこなかった。
「あんた、大丈夫なの?」
ヨーコが聞いてくれたけど、私は「何が」としか言えなかった。そんな私を見てヨーコは苦い顔をしている。
「何がって……キョウヤくんとそんなに離れてて大丈夫なの?」
「大丈夫も何も……じゃあここ辞めて私も海外ついてけってこと?」
「そんなこと言ってない」
「言ってんじゃん、そうゆう事じゃん!」
「もぉ、やめてくださいよ二人とも!どうしたんですか!?」
険悪な空気にカノンが諌めようとしてくれたけど、ヨーコの心配の言葉にさえ妙につっかかってしまった私の言葉は引っ込みがつかなくなっていた。
思わず拳を握る。
「だってそうじゃん!私のお酒なんてどこでも作れるし、海外目指して評価されてるキョウヤについてくっついてけば離れ離れにならなくて済むし、バーテンダーとして本気なら海外で修業したほうがよっぽどっ…!!」
「じゃあリカがそうしたいならそうすればいいじゃん!キョウヤ君と本当は一緒にいたいって思ってる癖に何でそれ言ってあげないの!?ああいう子は言わなきゃ分かんないよ!?」
「じゃあ言ったらキョウヤは私の傍にいてくれると思う!?私完全重い女じゃん!あいつは自由に生きて自由に音楽やりたいのに、私がついてくとか結婚とか……そんなの言い出したら完全ウザいじゃん!!嫌われるじゃん!」
喉がカーッと熱くなって、何故か涙がボロボロでてきた。
今まで誰にも、自分にさえも言わなかった本音を口にするとは思わなかった。
本当の言葉って、喉から生まれるたびにこんなにも痛みを伴うなんて知らなかった。
別に今までだって帰ってこなかった時あったし。
何カ月も離れ離れなんて当たり前だったじゃん。
それでも、「また帰ってくるから」「いってきます」って言ってくれた。
今回みたいに「帰ってこない」って言われたことなんてなかった。
……全然向いてない水商売のボーイで、自分と同じスタート以前の頃のキョウヤのが安心してたなんて、心のどっかで思っちゃう自分が小さくて酷くて、嫌になる。どんどんずるい自分が出てきて惨めになる。
じゃあここ辞めてついてけばいいじゃん。
本当に一緒にいたいなら、ヨーコの言うとおりだ。
同じ土台に立ちたいならここ辞めて、海外で修業すればいいんだ。
紹介してくれるツテがないわけでもないんだし。
だけど、それが選択肢になかったのはキョウヤが必ず帰ってきてくれて、一緒にいれる時間が愛しかったから。
キョウヤを待つ時間にさえも恋をしていたからだ。
どこへだって転々として、どこに行っても愛される人だから、日なたの人だから、それで私も海外に行ってしまったら本当にお互い離れ離れになってしまう気がして、もう二度と交われないくらいに遠いものとなってしまいそうな気がした。
何の約束をしてるわけじゃない。
いつ誰とどんな出会いがあるか分からない。
だからって結婚したり同棲を持ちかけたりするのは強要するようで嫌なのに、もう私と一緒にいてくれないんじゃないかと思うと何の名前もつかない宙ぶらりんな関係が不安で仕方ない。
私の答えなんて、とっくに心で出てたし、本当は願っていたのに。
私は涙を拭く。
私を見つめるヨーコとカノンの表情は、何だか痛そうだった。
落ち着いて深く息をすると空気が震えるようにして入ってきた。
声も震えてしまいそうだった。
「ごめん……さっきの嘘だよ……ここ辞めたいわけないじゃん」
「うん。知ってる」
「……やっと自分の仕事見つけられたし、ここでお酒作りたいに決まってんじゃん……変な事言わせるの、やめてよ……」
「……まぁ、実際にリカがいなくなったら困るけどね」
「行けばいいじゃんとかさっきは言った癖に」
「リカが本気でそうしたいなら止めないよ」
「リカさん、キョウヤさんにぶつかってみたらいいじゃないですか」
ヨーコに続いてカノンがいつになく真剣に言ってくれた。
私は返す言葉がまだ見つけられず黙っていると、ヨーコが言った。
「カノンの言うとおりだよ。キョウヤくん、そこまでちゃらんぽらんじゃないでしょ。答えは分からないけど、リカの気持ちちゃんと聞いてくれると思うよ。話してみたら?」
「……それで帰ってこなかったら……」
「じゃあ一生モヤモヤのままですよ!?それこそハリウッド女優みたいな人に気に入られちゃったら、胸なし平たい顔族の日本人勝てないじゃないですか!」
なんだその理屈は。
カノンのすっとぼけに思わず噴き出してしまった。
その時、ドアベルがチリンと鳴り、入口の扉が開いた。
もうお客さん?と思ったけれど開店時間には多少ある。
誰かと思ったら、久々に見るルリさんがそこにいた。
台風の夜以来に見るルリさんはほんの少しだけ痩せて、ほんの少しだけ大人っぽく綺麗に見えた。
「ルリさん!?」
「あの……開店前にごめんなさい。仕事の途中で近くを通ったので……なんか、お取り込み中にすみません」
ルリさんはおずおずと申し訳なさそうに言って、涙顔になっている私をちらと見た。
慌てて手のひらで涙をぬぐったけれど、鼻は真っ赤だし声も変だしで隠しようもない。
けれどルリさんは深く聞くことなく、私に小さなケーキ箱を差し出した。
「えっとですね……あの、スイーツがウリのお店にスイーツを持ってくるなんて失礼とは承知なんですけど……前に来た時にご心配おかけしちゃったので……ほんの気持ちなんですけれど良かったら皆さんで召し上がってください」
どうやら最後に来た時の事をずっと気にしていたらしい。
ルリさんからいただいた箱を開けると、なんとも美味しそうなサバランケーキが入っていた。
外箱を見てカノンが「あっ」と気がついたように声をあげる。
どうしたとヨーコが聞くとカノンは頬を上気させて目をキラキラさせながら言った。
「これ!!こないだフランスから日本に出店したばかりの『ラ・メルベイユ』のサバランじゃないですか!!これフランスでも超行列店で、日本だとめちゃくちゃ並ぶのに、どうやって手に入れたんですか!?」
「実は担当してる作家さんのお知り合いが日本支店でオーナーになってる方で、たまたまですけど、話の流れになってさっき作家の先生とお邪魔してきたんです。それで今回だけ裏から特別に購入させてもらっちゃいました」
ルリさんはカノンに圧倒されながらも、いたずらっぽく笑って教えてくれた。
どうやらあの時に比べると本当に元気になったみたいだ。
「こちらとしても、あの日は大したことしてないのに……。かえってすみません」
あの日はカフェラテを出しただけだし、本当に話を聞いてあげるしかしていなかったのにと思うと、上等すぎるくらいの手土産にかえって申し訳なくなってきてしまった。
けれどルリさんは「いいえ」と穏やかな顔で首を横に振り、私に言ってくれた。
「あの日、ここのお店が開いてなかったら、リカさんたちや、エミちゃんにも会えてなかったら、すごく辛くてどうかなりそうでした。……初めての恋で、初めての彼氏でずっと付き合ってきた人だったから、本当に辛くて。一人きりでどこにも行ける場所がなかったら、今みたいにこんなに早く笑えてないです。
もちろん、今になってあの時ああしてればとか後悔することもあるし、考えなくないですけど……でも私も彼もあのまま続いてたらお互い仕事がもっと忙しくなる時期で、もっと酷い事になってたかもって思うんです。
……未練がないわけじゃないんですけど、今はこうなるべくしてなったのかなって。そう思ったら仕事頑張んなきゃとか、自分のやってみたいことがどんどん出てきた気がします」
そう言いきったルリさんは凛としていて、素敵な大人の女性に見えた。
もちろんよくよく彼と話せばヨリなんて意外と簡単に戻せるかもしれない。
けれど、期間を置いてルリさんも彼氏さんも話しあっているに違いないし、二人が今その答えを出したのだから、それでいいんだろうと思えた。
ルリさんはこの後も寄るところがあるらしく、本当にケーキを渡すためだけにここに寄ってくれたのだった。
階段下まで見送ると、ルリさんは振り向いて改めてお礼を言ってくれた。
「あの日は本当に、ここのお店に助けられました。本当にありがとうございます。今度はエミちゃんと来ますね」
「こちらこそお待ちしてます。早く二人が揃いながらお酒飲んでる光景、見させてね」
「またビールをハモってオーダーさせてもらいます♪……なんか私は別れちゃったけど、実は今回ので良い事が一つだけあったんです」
「なになに?」
「実は、私と彼が別れる時にもお世話になった先輩がいるんですけど……今回のがきっかけでエミちゃんのキューピッドになったというか」
ピンときた。多分相手はヤマシタさんだろう。
ルリさんが彼氏と別れてしまったのはもちろん悲しいことだけれど、ルリさんは親友にやってきた春が本当に嬉しいようだった。
「エミちゃんも私に気兼ねして言いづらいと思うので、今度来た時にお酒の力でとっちめてみようかと思います(笑)それと、これは私が言うのも邪推とは思うんですけど……」
「何?」
「立ち聞きするつもりなかったんですけど、途中から聞こえてしまって……。
リカさん。私も彼とあれから話しあって、お別れしようって結果なったんです。……だけど、二人のことなら、男女の中なら尚更、ちゃんと伝えてあげなきゃ自分の想っていた気持ちが可哀想です。
……こんなこと言うの差し出がましいのは分かってるんですけど、リカさんが元気なくなるのは私も嫌だから……。
彼氏さんとよく話し合ってから決めても遅くないと思います。それこそ自分の中だけで迷ったり悩んだり考えてたら、あっという間に彼氏さん日本の裏側に行っちゃいますよ」
「ルリさん……」
「リカさん、がんばって。次にお店にきたときに、笑顔のリカさんが作るカクテル、飲ませてくださいね」
笑顔で手を振るルリさんを見送る。
あんなに爆発しそうだったのに、恥ずかしいやらありがたいやらでいつの間にか心がすっきりしていた。
階段を上がろうと上を見ると、ヨーコとカノンが立ちはだかっている。すっかりプロの仕事仲間の顔つきだ。
「で、今日は休むの?店、そのまま出れる?」
ヨーコの問いかけに、私は息を吸って、強気に言った。
「休むわけないじゃん。自分の仕事するに決まってる。そっからちゃんと、話に行く」
「さすがうちのバーテンダー。頼りになるね」
「リカさんのお酒に合うスイーツ、今日もちゃんと準備してきて良かったです」
みっともない私を見せてもびくともせず、ニヤリと不敵な笑みで返してくれる二人が仕事仲間で本当に良かったと心から思った。
『話したいことがあるから家にきて』
着替えた後にメッセージを送った。とりあえずどこにいようが何してようが関係ない。ちゃんと話の場を作らない事には何にも変わりがない。
「リカー?もう出るよー」
「今行く!」
ロッカーの扉を閉めてガスと戸締りの確認をする。
先に下に降りていたカノンが私の名を呼んだ。
何事かと思って店の鍵を閉めてすぐにヨーコと下に降りたら、キョウヤが既にそこにいた。
「早くない!?」思わず言うとキョウヤが「いやいや!俺も今偶然メール見てびびった。どっちにしろ迎えに来るつもりだったから」と驚いていた。その後に言葉が続かず、お互い黙ると微妙な空気になった。
そのタイミングでヨーコとカノンがわざとらしく大きめな声で私に言う。
「じゃあ、リカ。最後の戸締り、お願いね」
「あ!私ショーケースの温度確認、ちゃんとしなかったかも!でもこれからヨーコさんとラーメンを閉店までに駆け込みで行きたいので後お願いしますね!ね、ヨーコさん!」
「ラーメン!?……うん、そう!ラーメン!じゃああとよろしくね!」
なんてクサい芝居なんだ……と思ったけれど、二人の親切に甘えることにしてお店の中で話すことにした。
「カウンターにテキトーに座ってて」
「なんか、俺入って大丈夫?ここ女子限定っしょ?」
「閉店してるから大丈夫。今日だってあんた入ってきたじゃん。何か飲む?」
「じゃあ、リカのカクテル」
「リクエストは?」
「うーん。……おまかせで」
「OK」
ボトルとカップの音が店内に響く。
珍しくキョウヤも私も余計なおしゃべりはしなかった。
ジンとリキュールとジュース、氷を的確な量で手際良くシェイカーに入れる。
セットが終わり師匠の教えどおり、脇を締めて、手首は固くなりすぎず、氷がぶつかる音に耳を澄ましてシェイクする。
全ての材料が中で混ぜ合って溶けていって、一つのものになっていく。
1杯のお酒を作るために集中するこの瞬間と、グラスに注いで仕上がった時が何より楽しい。シェイカーからグラスにおとした魔法のような飲み物は、まるで宝石のように鮮やかで透き通っている。
「アラウンド・ザ・ワールドです」
ショートグラスに注がれた鮮やかなミントグリーンのお酒。
パイナップルとジンで甘いながらもきっちりキレがある。
もちろんグリーンミントチェリーも大事なおめかしだ。
「これ初めて飲むわ」
「ちょっと待って」
飲もうとしたキョウヤのグラスの口を、手で覆った。
突然の事にキョウヤが私を見た一瞬、落ち着いてから言おうと思っていたけれどせっかちな私の心はあっという間に言葉を発していた。
「単刀直入に言う。キョウヤと結婚したい」
キョウヤは目をまんまるくさせた。
それが何だか子供みたいだと思った。
幸せにしてほしいとかそんなんじゃない。
私だってやりたいことがある。
キョウヤのやりたいことだって応援したい。
だけど、ハッキリした形で、待っても良い関係でそれを叶えたい。
それを同時に望むのは間違っているだろうか。
……間違っていたとしても、両方を望んでいるしどっちも叶えたい。
どっちも私の人生に必要なことだから。
「キョウヤがどうなのか知らないけど、ただ待ってるのは嫌なの。何にもなくて待ってるのは嫌なの。
本当はキョウヤと一緒にいたい。ついて行けるならついて行きたいけれど、私はここの仕事が好きだから行けない。
それに……キョウヤが私といて幸せかも分かんない。私と同じ好きなのかも分かんない。
だけど、私はキョウヤといて幸せになれる自信がある。
世界中のどこへ行っても、誰かのとこに帰ってほしくない。私のところに帰って来てほしい。
今までもそうだったし、これからもそうなの。だから……」
キョウヤと結婚したい。
最初は勢いで言えたけれど、2回目は何故か言えなくなってしまった。
改めて口にするのが怖くなってしまったからだ。
私はそれ以上言葉を紡げなくなってしまい、キョウヤの顔も何となく見れなくなってしまう。
思わず、グラスから手を離す。
するとキョウヤが離れる私の手を掴んだ。ビックリして顔をあげると、キョウヤが緊張したような顔で私を見つめ、言った。
「スゲー……びっくりした」
…………ってそれだけかよ!しかしながらシリアスな雰囲気に突っ込めず、どうしていいか分からずいると、キョウヤは一度俯いて、呼吸を整えはじめた。
何を言われるのか怖い。
自由でいたいキョウヤからしたら私の勝手な逆プロポーズなんて寝耳に水だろう。
それでも言ってしまったのだからしょうがない。
何も言えないままずっと待ってるほうのがよっぽど辛い。
キョウヤが発する言葉をビクビクしながら待ち続けていると、ゆっくりと呟くように口を開いた。
「……俺のほうがとっくに断られてたかと思ってた」
「え?」
思いもよらない言葉に、一瞬頭がついていけなかった。
何の事を言っているか分からないでいると、キョウヤは「やっぱり」とため息をついた。そしてハッキリと言ったのだった。
「だから、俺が前にアピったのスルーされたから、とっくに断られてるのは俺のほうかと思ってたんだって!」
「はあああ!!??いつ!!??どこで!!!???」
何だそれは!!!!初耳だぞ!!!
私が呆気にとられていると、あー、やっぱ覚えてねぇか……と思い出すように頭を掻く。
どうやらしっかりと心当たりはあるらしい。
ちょっと呆れながらもキョウヤは教えてくれた。
「俺が海外行くようになる、ず――――っと前に!リカがここで仕事し始めたあたりだよ」
「3年も前!!??」
「そうだよ!俺言ったじゃん!お前ここで仕事し始めて、すげー楽しそうでキラキラしてて。……ただ俺は全然上手くいってなくて。
お前は仕事してるほうが楽しそうだから、まだ夢追い人の俺じゃ幸せにできないかもしれないけど、俺はお前と一緒にいたら絶対に幸せになれる自信はあるよって。
……まぁ、お前が帰って来てから、その…寝る前のおしゃべり的な感じで話したからスル―されたっつーか……」
「それ私完全寝てるじゃん!!!」
「今思うと寝てたな。確実に」
「いやいやいや!隣で寝てるんだからそんなの分かるじゃん!!」
「それまでフツーに喋ってたんだから急に寝落ちとか思わねーだろ!……けど完全にヒモ確定みたいな発言だったからスル―されて当たり前だなって思ったし……色々身辺固めてから海外行こうかと当時は思ってたけど、逆に全然何の実力もねーからとにかく演奏して技術磨いて、プロとして海外にもバンバン呼ばれるくらいの奏者になれればリカも俺と一緒になってくれるかなって。
……だから今回の劇団のも即決したんだよ。日本公演だってあるし、そんくらデカイところでちゃんとしたキャリア積んでから話しようって」
……何よそれ。
こっちのほうが寝耳に水な話で、思わず放心しそうだ。
キョウヤは厚く固い指先で、握る私の指先を優しくさすりながら、照れくさそうに続ける。
「……俺だって様子、見てたんだよ。スル―されたって思ってたから。でもお前待ってくれるし、弱音も言わねぇし強気だし、本心どうなのか分かんなかったし」
「……だって、キョウヤそういうのメンドクサイとか思ってそうだったんだもん。自由人だし」
バツが悪くて口をとがらせながら言うと、かー!もう分かってねぇな!とキョウヤはますます呆れた。
「リカが日本で俺の事待っててくれてたから、俺はどこにでも行けたんだよ。……お前が俺の嫁さんになってくれんの、いいよって言ってもらえるようにって、それを目標にがむしゃらに頑張れたんだ。
だからあそこでお前が寝落ちてなかったら、俺ここまでこれてなかったよ。……って、まだまだ一流とは言えねーけど」
目の前で笑うキョウヤは、ちゃらんぽらんでもヒモみたいでも何でもなく、頼もしい男だった。私が思ってるよりずっと。
私が気付くよりずっと早くキョウヤは答えを出してくれていて、私だけ何にも気付かないで離れてる距離のせいにして、キョウヤの心を見てあげようなんて思ってもなかった。
向き合ったところでいらないって思われてたらと思うと怖くて勇気がなかった。だからキョウヤへも確かめることもしなかった。
それなのに、キョウヤは私の事をちゃんと想ってくれてた。
「……私、薄情だったね。ごめんね」
その言葉しか出てこなくて、涙が出てきそうなのとキョウヤに合わせる顔がなくて思わず両手で顔を覆うと、キョウヤは腕を伸ばして覆う私の手をはがす。
ゆっくりと指の隙間からキョウヤが見えたと思ったら、自分の涙で目の前が歪んでしまった。
それでもキョウヤはしっかりと私を見つめてくれた。
「酒飲んじゃうと酔っ払いって言われそうだから、素面でちゃんと言っとく。
リカじゃなきゃダメなんだ。
俺のほうこそ、一緒になってほしい」
当たり前じゃない。
ゆっくりと頷いて微笑んでみせると「じゃあ、どっちもいただきますってことで」と調子の良い声と笑顔になったキョウヤはショートグラスを私に掲げた。
「このお酒、何か意味があるやつなの?」
「それね 『冒険』 って意味のカクテルなの」
「それって俺への門出に?」
キョウヤの新しい環境はもちろん冒険そのものだ。
だけど私自身へのメッセージも込めて。
一歩先へ進む自分への勇気のために。
「それもあるけど……内緒」
「内緒ってなんだよー」
「二人の門出を祝してってこと!」
そう煙にまいてやると、キョウヤは屈託なく笑ってまた一口飲んだ。
私の作った冒険の味を楽しむキョウヤの笑顔にも、初めて知った熱い気持ちにも、今夜はずっと酔いしれていたいと思った。
( あなたとならどこまでも、どこへでも )
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