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彼女のところへ帰れたら。 ずっとそう想っている。 馬鹿な男だと思われても、俺にはあの人しか見えない。 【 旅 】 * * * * * ああ、俺は死ぬんだな。確実にそう思う。 深い裂け目に落ちて体もあちこち痛かったけれどそれはもう薄れて、既に感覚のない部分もある。 落ちてどのくらい経っただろうか。そんなに経過していないはずだけれど寒さのあまりに余計な事が考えれない。 迂闊なんて言葉は許されないけれど、迂闊としか言いようがなかった。慎重に進んでいたはずだけれど、疲れもあってアイゼンの装着が甘かったのか、それに僅かに気を取られた。 いつもならそんな事はなく、ルーティン通りに準備したはずなのにどこかで小さく注意力がそれた。 雪の亀裂を見落とすほどに、頭が働いていなかった。いや、正直仲間の声も一瞬聞いていなかったかもしれない。 どっちにしろ小雪崩が起きることの予測も遅れたし、気付いた時にはそのまま滑落し、瞬時に反応ができなかった。 気がついた時に手持ちの携帯食を一齧りするけれど、感覚が徐々に鈍いので手もそのうち動かなくなる。 商売道具の手だ。いや、足だって商売道具だ。足がダメなのだからもうどこにも行けないし、シャッターすらも切れない。 落ちた地点ははるか上のはずだ。 それでも頭上からは轟々と吹雪く音がこだましていて裂け目からは氷の粒が降ってくる。もはやこれをクリスタルなんて美しい言葉で表現できないなんて、自分は相当に余裕がないなと思う。 どうせ死ぬのだから最期くらいはそんな風に思うべきなのか。 青く薄暗い辺りを見る。どうやら俺一人じゃあないみたいだ。 凍ったままのお仲間は一体どこから来てはどのくらい前に命が尽きたのだろうか。むしろいつの時代にここへ落ちたんだろうか。 そしてこいつらもきっと俺と同じ事を思ったに違いない。 ……―― ああ、本当に俺は死ぬんだな。 山で死ぬことはどこかで覚悟していたけれど、実際に自分の番がくるとは。早すぎるにもほどがある。 今までだって目の前で岩山から落ちて行った奴や、雪崩に巻き込まれて戻ってこなかった奴もいて、死はそう遠くなかった。遠くないと思っていた。 それでもどこか他人事のように思っていたことをこの状況になって分かった。 当事者になってみないと分からないもんだ。 即死がいいのか、それかこんな風に徐々に自分の体も意識も機能しなくなっていくことを感じながら眠りにつくのがいいのか。 「くそっ……」 思わず口にするということは、俺はまだ生きたい。 生きたい。生きたい。生きたい。 親やヨーコには思ったより早く、悲しませることになりそうだ。ケンタロウにも、帰ったら長野の山に登ろうと話したばかりだ。色んな約束も、叶えられないことばかりだ。 ……いや、叶えられ始める約束が1つだけある。 ケンタロウとの約束。それはヨーコとの約束でもある。 ごめんな、ヨーコ。本当にごめんな。 ケンタロウ、すまない。 どうか、ヨーコのことを頼む。 俺は本当は気づいてるんだ。 いや、そうなってほしいとどこかで思いながら二人を引き合わせた。 こうなることを想定してじゃない。ヨーコともケンタロウとも接していて、二人はものすごく合うんじゃないかと本当に思ったんだ。 恋人としてのプライドがないのかと思われても、純粋に、この二人ならすごく良いパートナーになるしお互い好きになるだろうなと思ったんだ。 そうでもしないと意地っ張りなヨーコはいつまでたっても独りで耐え続けようとするし、ケンタロウだって俺に遠慮して素直にならないだろう。 だから俺はケンタロウに話した。 酷い奴だと思われても、それが一番いいんじゃないかと思ったんだ。 色々考えるうちに体の感覚はすっかり消えていた。体ごと棒のようだ。 頭がだんだん重たくなってくる。 沈んでくような感覚になってきたけれど、まだもう少しだけ浮上させてくれないか。 何となく、ヨーコの作った飯を、もう一度だけでいいから食べたくなった。 冬山に登攀した時にヨーコが作った鶏鍋をケンタロウと俺で囲んだ時が昨日のようにも思える。 食べた時に嬉しそうな顔をするヨーコが、本当に好きだった。 寂しいのに強がって、そんなところも可愛かった。 俺よりも、もっと温かい奴が傍にいてくれる。 そいつはきっと俺よりもずっと大切にしてくれるし、想ってくれる。そういう奴だから、会わせたんだ。 幸せがあるなら、絶対に遠慮なんかしちゃいけない。俺は恨んだりなんかもしない。 差し伸べる手を、どうか彼女が素直に掴んでくれるように祈る。 ごめんな。ごめんな。 でも俺は悔いはないよ。生きたいけれど、やりたいことをやってきて結果がこれなら納得しているんだ。 こんなエゴの強い奴でごめんな。 耳鳴りと吹き込んでくる吹雪の音が一緒になって頭がやたらうるさい。 もう本当に体ごと沈みそうだ。重い、おもい……暗い幕が降りてくるようだ。 瞼が開きそうにない。けれどさっきだってひと眠りして起きたんだ。 きっとまた起きれる。 そしたらまた考えればいい。 * * * * * * * 気が付けば、空を見上げる癖がついていた。 晴れの日でも、雨の日でも、雲の多い日でも、物思いに耽りながらしばし眺めているのが好きだ。 それでいてここ数年は、空を見上げながら、二つの事を考える。 他にもたくさん考えることはあるけれど(たとえば山に登りたいとか、デスクワークは億劫だとか、麻婆茄子が食べたいだとか)それでもよく考えるのは二つの事……いや、二人の事だった。 俺の笑顔を「陽だまりみたいだな」と言ったトオルさんと、同じように「なんだかお日様のようね」と初めて会ったにも関わらず微笑んでくれたヨーコさん。 トオルさんは俺の会社の先輩だった。仕事は登山具メーカー「シャイロ」の専属カメラマンをしていた。 ヨーコさんはコックの仕事をしていて、トオルさんの大学時代の後輩であり、恋人だった。 ……恋人だった、ではない。 恋人なのだ。 トオルさんが亡くなった今でも。 「ケンタロウ、ここにいたのか。隣いいか?」 「あ、ああ。アサヒか。いいよ」 社内の休憩室でぼんやりしていると、同僚のアサヒに声をかけられた。 シャイロの専属カメラマンの俺と、PR広報部にいるアサヒはよく仕事で一緒になることが多い。 アサヒは年は俺より少し上だけど中途採用だから入社は俺より遅い。年上の後輩になるがウマが合うのか友達みたいに話しやすくて、プライベートでもよく飲みに行ったりする仲だ。 高層ビルの良い位置に作られたコーヒースタンドは、窓が大きくて見晴らしが良いのでそこらへんのカフェよりもずっと居心地がよい。 新社屋になってからコーヒーブレイクがくつろげると社員の中でも評判のスポットだ。 背の高い小さな丸テーブルとそれに合わせたスツールもこじゃれていて他にもソファ席があり、たまにそこでミーティングなんかも行われたりしている。 3時のお茶には少し過ぎたこの時間。ちょうど人もまばらでちょっとした息抜きにはくつろぎやすかった。 アサヒは俺の向かいに腰を落ち着けると、疲れたように腕を伸ばした。 彼の肩からゴキゴキと鈍い音が聴こえて思わず笑ってしまう。 「PRの外回りお疲れさん」 「は~、ほんと過密スケジュールすぎて死ぬ。お前デスク作業?編集部行くの?」 「さっき編集部と打ち合わせ終わって、このあと何もないから帰宅命令もらったとこ。有休もたまってるし」 「マジかよ。代われよ。もうほんと俺んとこが今一番忙しくて死にそう」 「あははは。まぁ俺が命がけで撮った写真だから今度はアサヒたちが命がけで売り出してくれよ」 「分かってるって。今度の新商品、ポスターの評判すげぇ良くてプレスから展示会の時点で予約すげー入ってるってきたし」 アサヒは今度売り出す新商品の営業にここ数日忙しそうだった。 これから冬の登攀に向けた、防寒・防風性と気密性にすぐれたウェアのシリーズと、日本人の足型に合った雪山用登山靴が目玉商品となる。 それらはメディカル系の専門機関と職人と繊維会社との共同開発で進められた製品なので当然自信のあるシロモノだし、決して値段が安いわけではないのに発売前から予約を多くいただいている状態で、大変とは口で言っても嬉しい悲鳴だ。 自分はその宣材写真を撮る事が仕事だけれど、元々営業にいたので俺自身営業に駆り出される事も多い。もちろんそのほうがダイレクトに宣材写真の反応を確認することができるので手ごたえも感じやすい。実際に商品を着用しての登攀撮影に同行したのでPRだって説得をもってできる。 今回も販売業者や取引先の上役の感触は良くて、ひとまず胸をなでおろしたところだ。 本当なら今日あたりアサヒを飲みに誘いたかったが、この分だとスケジュールを合わせる事は厳しいだろう。 俺は密かに諦めてアサヒに「じゃ、これ飲んだら早速帰宅命令に甘えるかな」とわざと言ったらアサヒは頬づえをガクッと外し「ハイハイ、とっとと帰れ帰れ。俺はまだ馬車馬のごとく働きますよ」と恨みがましそうにした。 「じゃ、残業確定がんばれよ」 「そっちも有意義に過ごせよな。あと、俺じゃなく、ヨーコさんたまには誘って飲み行けよ」 「……ははは。バレてたか」 「お前分かりやすいんだっつーの。どっちにしろ仕事落ち着いてから改めて飲み行こうや。それまでヨーコさんに甘えさせて貰えよ」 「いやぁ……甘えさせてくれるにはなかなか厳しいかな。じゃあまた明日」 「おう。お疲れ」 アサヒは俺の恋の行方をだいぶ気にかけてくれている。 いつもアサヒに話を聞いてもらっているぶん、こちらも恩返しが出来たら良いと思う部分はあるだけに余計こちらの申し訳なさは募るばかりだ。 俺はアサヒと別れてからデスクへ行き、退社支度をしてみんなに挨拶してからオフィスを出た。 一人で飲むにはいささか早いし、むしろそれなら早く家に帰ってのんびりしようと考えたところで、スマホがメッセを受信した。 ディスプレイを見ると、うちの会社で働く先輩のヨシダさんからの飲みの誘いだった。 俺は早めに退社した旨を伝えるとすぐに既読になり、「じゃあ打ち合わせ先直帰にしてすぐ行くわ」となんと調子の良い返事が返ってきた。 ヨシダさんはシャイロの出版部門で編集者として山岳雑誌を作っている。最近は山歩きのことや新商品についてのコラムを任されていて、内容もユーモアに富んで結構読者がついているらしい。 編集者は忙しいイメージを持っていたけどこの人を見るとどうもそんな風に思えないから不思議だ かといって仕事ができないわけでもないからきっと仕事の緩急つけ方がうまいんだと思った。 ヨシダさんの指定の駅に着いて時間まで駅ビルの本屋などで暇をつぶしていた時、ふいに肩を叩かれた。 もう着いたのかと思って振り向くと、そこにいたのは男性ではなく小柄な女性だった。 しかし、見知った顔に思わず俺の口元がほころぶ。 何故ならここの駅はその人の職場の最寄り駅で、時間帯的に会えるのはあり得ないと分かっていながらも、もし偶然会えたならと淡い期待をほんの少しだけ抱いていたからだ。 俺と目が合うと、ヨーコさんはすこしいたずらっぽく笑った。 それを見て、胸の奥がきゅうっとするような不思議な感覚になる。ストレートに言えば、彼女を抱きしめたい衝動にかられるほど。 けれどそんな俺の気持ちに気付かない彼女はいつもの朗らかな様子で訊いてきた。 「やっぱりケンタロウくんだった。何、休み?まだ早いよね」 「ヨーコさんこそ、この時間はもう店なんじゃないですか」 ヨーコさんは今は女性客限定ダイニングバーでコックをしている。 ダイニングバーと言ってもカフェやスイーツも取り揃えているので、たしか店は3時くらいから開店だったような気がした。 夕方はちょうど学校帰りの大学生、6時以降だと仕事帰りの女性客で賑わうのだという。 なにせ女性バーテンダーがスタッフにいるので、夜は夜でガールズトークに店は盛況なのだそうだ。 だからヨーコさんこそこの時間に、それも駅構内の本屋にいるのは珍しかった。 「今日は第1火曜だから臨時休みなんだ。定休日の月曜との連休なんだけど、ちょっと仕込みしたくてさっき終えたばっか。ケンタロウくんこそ、ここの駅になんでいるの?打ち合わせ?」 「今日は早退して、実はこれからヨシダさんと飲むんです。ヨーコさんもどうですか」 「えー!ヨシダ先輩と飲むの?……うーん、どうしようかなぁ」 「どうしようって、ヨシダさんはヨーコさんの先輩だし勝手知ったるやのような仲でしょ」 「なんか、『山音』でコラム任されてから妙にくどくて。それに山に絶対誘われるしさぁ。もうハイキングくらいしかできないよ」 ヨシダさんはヨーコさんの大学時代の先輩だ。 ヨーコさんは大学2年生くらいに中退して調理学校へ入りなおしたのだと出会った頃に聞いた。 そして彼女が大学を辞めてからも、大学時代の山岳メンバーとはずっと付き合いが続いている。 トオルさんの仕事の後輩ということで俺にもヨシダさんは声をかけてくれ、飲み会に一緒させてもらうことが何度かあった。みんな仲が良く賑やかで、今では俺もメンバーと一緒にパーティを組んで山へ登りに行く事だってある。 もちろん彼女も誘われているようだけれど、仕事が忙しくて最近はすっかり山から足が遠のいているようだ。 「今度落ち着いたら、行けるメンバーで焼岳に行こうって話出てましたよ」 「うげー!行きたいけどムリムリ!もっと近くの低山からトレーニングしないとキツいって」 「でも今日絶対にヨシダさんから誘われますよ」 「で、絶対にコラムのネタにすんでしょ~?しょうがないなぁ、相変わらず」 そんな風にヨシダさんの話をしていたら、タイミングというのは面白い。 ヨーコさんが断る前にすでにヨシダさんのほうから「あれっ!?ヨーコもいんじゃん!なになに、新しい店でも開拓するか!?」と、話しかけながら登場してきたのだから笑ってしまった。 ……いや、笑ったらヨーコさんに軽く睨まれたので咳払いで誤魔化したのだけれど。 結局、ヨシダさんに捕まるかたちでヨーコさんも一緒に飲む事になった。 * * * * * * * いつも洋食を作っているので和食の居酒屋が良いというヨーコさんのリクエストに、ヨシダさんが東北地方の郷土料理を出す旨い居酒屋が近くにあると言ったのでそこにした。 店内に入るとその地方を代表する三味線音楽が流れ、香ばしい匂いが鼻先をくすぐった。炉端焼きの良い匂いが店内中に立ちこめている。 3人とも席に腰を落ち着けると、とりあえず生3つを頼んだ。 お通しにはホタルイカの沖漬が出てきて、なんとも言えない塩味のおいしさに唸る。イカワタのまろみが香りとともに舌の奥いっぱいに広がり、ビールが運ばれてくるとすぐに乾杯するやいなや、3人とも求めていたように勢いよく飲んだ。 「っは~!沖漬にビールって少し勿体ない感じだけど美味しいね」 「ここさ、こないだ仕事の奴ときたんだけどお通しも日本酒も何でも旨かったからまた来たかったんだよ」 「ヨシダさんって毎週どこかしらで飲んでますよね」 「情報収集、情報収集♪おかげで仕事もやる気に満ち溢れるってもんよ」 「ヨシダ先輩はどっちかってーと情報収集といいつつ飲んだくれですけどね」 「なにを!?」 「だって登る時もビールしか考えてないし、下山の時も温泉と馬刺しとビールをすでに謳ってるじゃないですか」 「しょうがないだろ!だって山の醍醐味ってそれじゃん!」 「まぁまぁ。ところでヨシダさん、今度の新商品のポスター見てくれました?」 「当然。ハードシェルのジャケットすっごくいいじゃん!俺もちょっと試着させてもらったけど良かったよ。冬んなったら早速会社から借りて登りに行こうかと思う。次号でも新商品の紹介でページ数けっこう取る予定になってるし、お前の撮った写真広告も裏表紙に出るから楽しみにしてろよ」 「それにしてもヨシダ先輩、憧れの会社に転職できてほんと良かったですね。先輩の山行日誌のコラム、たまに立ち読みで読んでますよ」 「立ち読みせずに買ってくれよヨーコ~。……まぁ『山音』は山岳雑誌の中で一番好きな雑誌だったし、シャイロのグッズも愛用してたからな。それに……その、あれだ」 「あれ?」 「なんですか?」 ヨシダさんにしては珍しく口ごもったので、俺とヨーコさんは肝心なところをお預けされた気分になって先を知りたがった。そして実にじれったそうにして一言唸ると、ビールを一気に呷った。 「……っつーか、もう別にいいか!俺、逆に話題に出さないのもしんどいから言っちゃうけど、トオルが、シャイロにいたから入れたようなもんだし!トオルが社長に俺の事をさ、前から面白おかしく話してたみたいなんだよ。大学時代の含めて」 「……トオルが」 トオルさんの名前が出た瞬間、俺はすぐに隣のヨーコさんの反応が気になった。 一瞬こわばった気がしたけど……少し間をおいて、 「……あのトオルが?面白おかしく話してたの?……やっだ。想像つかないんだけど」と、ふやけたように楽しげに笑った。 俺はそんな彼女の様子に正直、心の底でものすごく安心したのと同時に嫉妬を感じた。 勝負うんぬんの話ではないのに、負けている気持ちがべったりと張り付いているようだ。 けれどそんな事を感じてもしょうがない。 「トオルさんが面白おかしく話すイメージないっすよね」と言ったら、すっかり笑いのツボに入ったらしいヨーコさんはウケ続けながらコクコクと頷いた。 「てゆーかコネじゃん、ヨシダ先輩。トオルが社長と仲良かったからよかったものの、じゃあ逆にトオルがいなかったらヨシダ先輩の転職は失敗してたかもしれないってことじゃないですか」 「だから俺は運がいいんだって!俺だってそれ後から知ったんだぜ?ほんとトオルは普段から無表情で何考えてるか分かんない癖に、ほんと人の心を知らずに掴んでんだから羨ましかったよ」 「まぁ、トオルさんってほんと寡黙な人でしたけど、説得力ある人でしたよね。俺、トオルさんの写真に憧れてシャイロ入ったようなもんですから。ここ入社してまず動いたのが、トオルさんとのコネを作ることでしたし」 「え、ケンタロウ君も?てっきり入社してからトオルのこと知ったんだと思ってた」 「だってシャイロといえば広告じゃないですか!……けど、第一印象キツかったぁ~」 「なんだよ、聞かせろよ」 「いやぁ……単独好きのトオルさんを説得してもらって、4人でパーティ組んで八方尾根登った時に、昼休憩で初めて交わした会話が『お前、お人よしそうなのはやめた方がいい』だったんですよ。まぁ、たまたま2人でいたときにですけど」 「そんな事言われたの?なんで」 ヨーコさんは初めて聞く話に隣で身を乗り出すようにして訊ねた。 思わずついて出してしまった昔話にほんの少し恥ずかしさがこみ上げてきて苦笑する。俺は記憶をゆるゆると紐解いた。 「お人よしのつもりじゃなかったんですけど、まぁ下っ端だったし結構ヘラヘラしてること多くて。 ……俺、シャイロの広告がずっと好きで憧れてたし、トオルさんみたいな写真撮りたいって思ってたんです。トオルさんがプライベートで投稿してた山写真もすごく好きでしたし。それでずっと憧れた人と話せた嬉しさで、浮かれて写真見てもらったら……そう言われたんです。 今思えばずいぶん中途半端な感じの写真みて、トオルさんなりに感じる事があったんだと思います。……でもそっから、トオルさんから俺に話しかけてくれたり誘ってくれたりすることも多くなったんですよね。何でか分かんないですけど」 トオルさんは元々山の写真を撮るのが好きで登山を始めたと言っていた。 俺はトオルさんの山行に最初は無理やりついて行き、何を話すでもなく写真を撮っていたけれど、だんだんと回数を重ねるうちにトオルさんがわずかながら打ち解けてきてくれるのが分かった。 それに俺は営業職だったので、広告や雑誌に載るかもしれない写真をいち早く見せてもらえることにも昂揚した。 ……――そうしてトオルさんとサシ飲みできるようになった頃に、恋人として紹介されたのがヨーコさんだった。 それも「お前と気が合うと思う」と前置きをして。 彼女の第一印象は「小柄な人だな」と、「瞳が綺麗な人だな」だった。 ガラス玉のような鳶色の瞳に映った光が反射しキラキラして、ほんのコンマ数秒だろうけれど俺は釘づけになった。 つまり、一目会った瞬間に感じてしまった。 この人の事が、好きだ、と。 握手に差し出された彼女の手は、背丈と同じようにとても小さく、指先が少しひんやりしていた。 まっすぐと見つめてくる瞳に不意にドキドキしてしまった俺はそれを隠したくて笑顔を作った。 すると「ホントにトオルの言ったとおりだね。なんだかお日様みたいな笑顔ね」と言われたものだから、俺はびっくりしてトオルさんのほうを見た。 トオルさんは慈しむような目で彼女に「だろ?」と言う。もちろん彼女も同じように見つめ返し頷いた。 もちろん、彼女がとても魅力的にうつったことは確かだ。 だけどそれ以上に、二人一緒にいるこの光景のほうがもっと魅力的だった。 だって尊敬する人と、一目会っただけで素敵だと思う女性が一緒だなんて、こんな素敵な組み合わせはないと思うからだ。 俺はこの二人が、大好きになった。 大人なのにこんな感情は変な感じだけれど、すごく好きだった。 ずっとこの3人の関係が長く続けばいいなと思っていたほどに。 * * * * * * * 仕事の事、山の事、トオルさんの事を散々話して、いぶりがっことクリームチーズのおつまみや山菜の天ぷらなんかを食べながら日本酒をちびちびと皆で飲んでいたとき、ヨシダさんがたまりかねたように突然切り出した。 「ところでお前らって、ぶっちゃけ付き合ってんの」 「「……え……」」 「……おいおい、二人してハモんなって。っつーか、山岳メンバーみんなそう思ってるけど」 「はぁ!?べつに、そんな……ねぇ!?」 「……そんなっていうか……俺は正直ヨーコさんのこと可愛いって思ってますけど」 「はぁああぁ!?それここで言う!?」 「あははははは!ケンタロウ、やっと正直になった感じでいいじゃん。言え言え、どんどん言え」 「ちょ、ヨシダ先輩も酔っぱらってそんなこと言わないで下さいよっ!」 ヨシダさんがニヤニヤしているのが分かる。 もちろんヨシダさんも山岳メンバーも、ヨーコさんとトオルさんが恋人同士だったことは在学中から知っているし、トオルさんが亡くなったことも知っている。 そしてどこで気付かれたかは分からないけれど、俺がずっとヨーコさんに懸想していることも。 慌てるヨーコさんに、ほんの少しだけ腹が立ったので言わずにはいられなかった。 「ヨーコさん、俺まだ全然酔ってないですけど」 「だからって……こんなとこでさ、」 「じゃあどこならいいんですか。ヨーコさん、俺との時間作ってくれないじゃないですか」 さっきまで和やかだった空気もぶち壊しだな。そう思うくらいには静まり返ったと思う。 もちろん店内は賑やかなままの三味線民謡のBGMが流れているので周りには気取られてはいないが。 「お前ら、ちゃんと二人で話した方がいいと思うぞ」 ヨーコさんとお互い目が逸らせないでいると、ヨシダさんが間を割るように大きくため息をついた。 「もう俺達もずっとお前らにヤキモキしてんの疲れんだよ。……それに、俺だからこれ言えるけど……トオルは絶対にお前らの事嫌いになったりなんかしないから。あいつはそういう奴だから」 ヨシダさんの言葉に、ヨーコさんは一瞬泣きそうな瞳になった気がした。けれど、それは本当に一瞬の事でその後は気まずそうに俯いた。 「だからヨーコも。……とにかくちゃんと二人で話せ。……ってーことで、ここは俺が持っとくから先に帰るわ」 ヨシダさんはそう言って、伝票を手にして「よっこらしょっと」と座席を立ち始めた。 「あ、ヨシダさん。俺も」と会計のことを言いかけたら「二人が丸く収まったら良い酒飲ませろ。ヨーコに振られたらまたそんときは慰めてやる。貸しだ貸し。もちろん仕事で返してくれても良いからな」と、断られてしまった。 そうして颯爽と俺達の前からいなくなる。 テーブルには俺とヨーコさんの二人だけが残った。 ヨーコさんはさっきから目線をテーブルに伏せたままで何も言わない。 さて、どうするか。とりあえず、この空気を変えるために場所を変えようと思った。 すると「……いぶりがっこ」と、急に彼女が呟いたので、俺は少し拍子抜けな気持ちで見ると、「ケンタロウくん、これ食べてないでしょ。美味しいよ」と何もないように続けた。 「……は、あ。たしかに、まだ食べてないっす」 「クリームチーズあったまってやっこすぎちゃうから食べなよ。そしたら、移動しよう」 何でもない風にしながらも、やはり俺と考えている事は同じだったようだ。 「そうですね。じゃあ、これ食べたら移動しますか」 「2件目……ワインバーとかにする?それとも近くに日本酒バーってのも出来たけど。賑やかなHUBのほうがいい?」 「俺の部屋、きませんか」 「え……」 「だっていつも、ヨーコさんのとこお邪魔してばっかだし、たまには。……って、そんな片づけてないし何もないですけど」 二人きりでわざわざ会う事なんてそんなにない。 出張に行ってお土産を渡す時くらいで、それも毎回彼女の部屋に行くわけじゃない。 だからこそ、自分の部屋に招くのは内心すごく勇気を出したつもりだ。 口に放り込んだつまみは、なかなか頑固そうな音をたてた。燻製の煙くささとキツイ塩みに濃厚なクリームチーズがねっとりと絡んで喉を通過する。正直、少し緊張していたから味わうには余裕がなかった。 激しいリズムの三味線の響きも賑やかな笑い声も、どこか遠いもののように感じた。 「……じゃあ、たまにはお邪魔させてもらおうかな」 ヨーコさんはそう答えると、残ったお猪口に再び口をつけた。 伏せた目が、ほんの少し寂しそうに見える。 自分で誘っておきながらホントに彼女が乗っかってくれるとは思わなかったので、断られたかと勝手に脳内変換していた俺は、「はい……え!?」と、間抜けな声を挙げてしまった。 そんな俺を見てヨーコさんが「なぁに、そのリアクション」とわざと眉をひそめて笑ったその時に、ようやくカマンベールチーズの後味が舌いっぱいに広がっているのを感じた。
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