たき火

1/1
2人が本棚に入れています
本棚に追加
/12ページ

たき火

「あの、やめてもらえませんか、それ」 「良かったら食べます?焼き芋」 私の苦情に全然お門違いな返事をするこの人と、縁なんてあるわけがない。 【 たき火 】 今日こそは言おう、と決めていた。 まだ片付いていなかった段ボールをようやくまとめて、新しい部屋を見渡した。 やや徹夜気味に作業したせいで眠いけれど、美味しいコーヒーを淹れて気持ちを切り替える。 前に借りていた部屋よりも広く収納も存分にあって何より家賃が安い。おまけに駐車場までついてるし(って車持ってないけど)さすが田舎だなぁと思った。 コーヒーを一口飲んでから開けた窓にむかって伸びをした。 あくびをするとカーテンがふわりと私の腕を撫でる。入ってくる風はすっかり秋のそれで、夏のピークを思い出すと嘘のように感じた。 せっかくのお休みにはちょうどいい洗濯日和だ。 明日は夜勤だし1日半はゆっくりできる。 なんて良い秋晴れなんだと思った矢先に、ほら。 こんな朝っぱらから私の頭を悩ませるものを感じた。 やっぱり今日こそ言おう。 海辺の町に引っ越してきて数週間。ある事のストレス値はややピークを迎えそうだった。 「今日こそ言ってやる」 標的に睨みをつけて、コーヒーをぐいっと飲んだ。この苦さが私を奮い立たせる。 遡ること半年前。 都心の大学病院に勤めていた私は、祖母の介護の事情で実家に戻って来て欲しいと母から泣きつかれた。 しかしながら、戻って来て欲しいと言うわりには実家には妹夫婦が同居しているし、そんな中で私の居場所なんてあるはずがない。 ただでさえ行き遅れって言われてるのに実家に住んだらますます言われるに違いないし、ハッキリと言われなくても周囲からは無言のプレッシャーだ。 顔を合わすご近所のおばあちゃんに会おうものなら「イイ人はいないの?」「孫の顔見せてあげなくちゃね」と言われて当たり前なくらいに田舎なのだから、独身の私が帰っても居心地が悪いだけだった。 私は立派に手に職つけて都心でも一人でなんとかやってきた自負もあったので、最初はすごくごねた。 諦めてくれるだろうと思ってごねにごねた。 しかし今回ばかりは母が折れなかった。 妹夫婦もいるけれど共働きだし、パートの傍らの介護で疲れきって、ややノイローゼ気味だと母に訴えられたら、勝てるはずがなかった。 そんなこんなで私は仕方なく、地元の病院で働くことにするかわり、実家からも勤務先からも不便のない町に一人暮らしすることを最初から宣言して戻ってきたというわけだ。 色々な手続きや新しい職場への初出勤にと生活の基盤を優先していたら、部屋の状態は寂しい事にベッドとカーテンと電子レンジとゴミ周りだけしか完成されていなかった。 生活の合間に片づけていたもののちっとも進なかったので、やっと一日半の休みが取れたので昨晩から頑張って片づけていたところだった。 こうしてみるとわりと順調な新生活。 便利じゃないけれど不便でもないこの町でもどうにか生きていけるだろうと気持ちを新たに暮らし始めた中、私を悩ませていることが一つだけある。 それは「煙」だ。たばこじゃない。たき火のだ。 アパートの前には道路と堤防があり、少しだけ遊べる程度に浜がある。 そこで毎度迷惑な奴がいる。たき火をしているバカがいるのだ。それもいい大人で。 何かを燃やしているのかわからないが、距離があるとはいえ煙が部屋に流れてくるのが分かる。 明らかに迷惑行為なのに警察もご近所も何も言わないなんて、どんだけ田舎なんだ。信じらんない。 コーヒーを飲み終えると、問題のたき火をしている人のもとへ向かった。 本当に道路を挟んでアパートの前なので5分もかからない。 「あの!すいません」 たき火をしている男性に近づいて、海の音に負けないように声を大きくして呼びかけた。 すると私にすぐ気が付いたのかぼんやりした表情で振り向いた。 遠くで見るよりも大柄で、私は声をかけた後になって(身の危険考えてなかった!)と気が付いた。 けれどもう遅い。もし何か因縁つけられてもこんな田舎だし近所の人が黙ってないだろう。 本当に変な人は入居するときに大家さんがそれとなく教えてくれる。 それにしても平日昼間からたき火だなんてこの人何してる人? 服装もTシャツと古そうなデニムにサンダル、パーカーで髭なんかも剃ってないし、髪の毛はサッパリしているものの普通のサラリーマンにも見えない。 「なんでしょう」 はて、何のことやらと言わんばかりの朴訥とした男の物言いに、私はついムッとした。 「何でしょうっていうか、あの、やめてもらえませんか、それ」 「良かったら食べます?焼き芋」 「はぁ!!??」 「いや、これも何かの縁ですし」 全くお門違いな返事が返って来て、思わず怒りに声が震えそうになった。日本語通じてないのかこいつ!しかも縁だなんてバカじゃないのか。 そんな私の気持ちとはおかまいなしに男はポカンとしながらトングを持ってこっちを見ている。 それは焼き芋を食べるか食べないのか答えを待っているようにも見えて、苦情の伝わらなさに今度は分かりやすくハッキリと言った。 「そのたき火、困るんです。私近くに住んでいる者なんですけれど、煙が部屋に入ってきてすごく迷惑なんです。やめてもらえないでしょうか?」 男はそれでやっと気付いたらしく、改まってこちらを見た。 「あぁ、それはすみませんでした。そっか。考えたらそうですよね。今まで誰にも言われなかったもんで気付かなかったです」 「それはわざわざ言わなかっただけで、どなたか思っている人はいると思いますけど」 「つい田舎なんで、セーフだと思ってました。禁止されてない浜辺だったもんで。……すみません」 田舎だからセーフ、分からなくもないけれど一応何件か海沿いにアパートもあるし、風向きによっては家にも煙が入ることぐらい考えなくたって分かるだろうに。 目の前でひたすらヘラヘラしている男の常識を疑ってしまう。 「そういうことなんで、今度から気を付けてください」 「こちらこそすいませんでした。……ところで」 「焼き芋だったらいりません!」 「よく分かりましたね」 「私、仕事上夜勤もあって昼間に寝なきゃなんで、部屋が煙くさいのとか困りますから。それでは失礼します」 会話を必要以上続けたくなくて、きっぱり言ってその場を後にした。 こんな昼間っから大の大人が浜辺でたき火なんて、ゼッタイおかしい人に決まってる。 しかも図体はでかいのにポヤーッとした頼りなさそうな雰囲気で、縁だとか焼き芋とかどうでもいいこととか聞いてくるし。 部屋に戻りまた窓から確認してみると、きつめに言ったのがきいたのか、たき火の始末をしはじめていた。 窓から確認だなんて、ゴミ出しを隠れて確認するウルサイおばさんみたいけれど、実際に被害を感じているんだから私は間違ってない。 これで快適に部屋で過ごせるかと思うと、片づけたばかりの部屋がまさに安心できるお城に思えてくるってもんだ。 「さーてと!手軽にラタトゥイユでも大量に作り置きしておくかな」 気にかかっていたことが解決して心が晴れた途端にやる気がみなぎってくる。 思い切って言いに行ってよかったと思う。おまけにトラブルにはならなさそうだ。 意気揚々として、昨日の夜に沢山買ってきた野菜たちを美味しいものに変換すべく、私は腕をまくった。 ……しかしそこで安心した私がアホだった。 翌々日、夜勤から帰ってくればまたあの男が浜でたき火をしているではないか! それも朝から! 寝る前に一度空気の入れ替えをしようと窓を開けかけた時に目に入ったのだ。 軽く怒りを覚えはじめたところ、自転車に乗ったお巡りさんがちょうど海沿いの道を通りかかる。 すると浜辺の男に気がついたのかお巡りさんは浜に降りて行った。 何か会話しているようだけど、注意されていると思いたい……むしろ私がお巡りさんに訴えに行きたいぐらいだ。 しかし今日はどうにもそんな気力がなく(夜勤明けでものすごく眠いし、今夜も夜勤2日目)悔しさにカーテンを握りしめてその日は諦めた。 っていうか昼間にあんな事してるとか、あの人も夜勤なのだろうか? 体格は良いけれどトラック乗ってるイメージじゃないし、大人しそうだから工場勤務とか? いやいや、工場勤務だからって大人しい人がやるとは限らない。 あぁ、もうこんなこと考えるのやめよう。 昨日作り置きしたラタトゥイユをご飯にのっけて丼にしてお腹を満たす。 本当はサラダもつけたいところだけど、今は疲れと眠気が先立つので早く食べてシャワー浴びて眠ってしまいたい。 流れ作業のように一通り済ませ、寝まきに着替えたところでケータイのランプが光った。 病院からだったら嫌だな~と思っていると、それと同じくらい嫌な相手からのメールだった。 母からだった。 どうせろくなことじゃないんだろうなと思いつつメッセージを開いてみる。 『お仕事慣れた?レミに見て欲しいものがあるから都合いい時にうちに来て。それとアミがあんたの部屋にあったので欲しいものがあるみたいだから聞いてやって~。夕飯も食べてくなら教えてね』 案の定どうでもいい内容だった。 というか、私の都合もややおかまいなしじゃないか? 母と同居している妹のアミが私の部屋にあったので欲しいものだなんて、学生の時に好きだった男性アイドルの写真集に違いない。 未だにアミはそのグループのファンらしいから、興味がなくなった私からしたらそんなものいくらでも譲るし。 ひとまず明日の夜勤明けたらまた休みになるので、帰宅していったん寝たら実家に向かうと返信する。 胸の真ん中で何だか心地の悪いものが広がった。 あぁ、お母さんと顔合わすの嫌だなぁ。 いつからだったっけ?こんなに重苦しく感じるの。 おばあちゃんの介護が始まったときから? そんなことない。もっと前からな気がする。 そうだ。 私が長年付き合ってた彼氏と結婚直前に別れて、それを言った時からだ。 しかも同じタイミングでアミができちゃった結婚したんだった。 妹とは昔からつかず離れずな距離のわりには、妹の子供に対しても叔母としてそれなりに可愛がっているほうだと思う。 それでも、あぁ、いやだ。思い出したくない。 お母さんのため息は、いつだって私への大打撃だ。 疲れているのか泣いているつもりはないのに涙が一筋目尻から流れた。 耳に入ってしまわないように手のひらで拭う。 今日は窓を開けてないのに、何故かたき火の煙のにおいがした気がしたところで、ちょうど睡魔がおりてきたのだった。 実家に帰るのは、こっちに戻って来ての数日間以来だ。 なるべく実家に長くいないように、こっちへの引っ越しも計画的にやってきた。 勿論引っ越しはスムーズで、実家で寝たのなんて引越し前日と当日くらいかもしれない。 部屋をすぐにベッド周りと風呂周りだけ整えて、食事も数日は簡単にコンビニとかで済ませたほどに実家に居続けたくなかった。 田舎によくあるような、敷地と家がやたら広い昔ながらの家。 小さい頃はすごく嫌だった。 外からは開放的に見えるだろう田舎の家も、中身はとても閉鎖的だなんてきっと都会の人には分からないだろう。 それが息苦しくて嫌で私は実家を離れたわけなのに、戻ってくるなんて思いもしなかった。 門をまたぐと敷地内の左手に小さな畑があって、右手には軽トラックと物置がある。 父が役所の仕事の傍らで変わらずに農業を続けている。 玄関の引き戸を開けて「お母さーん?いるのー?」と声をかけたら台所から逞しい足音を響かせて母がやってきた。 「あら、レミおかえり!おばあちゃんに顔見せてね。夕飯はどうせ食べてくだろうと思って今支度してるから。それと、ちょっとあんたにいいものがあるのよ。2つもね!」 「いいもの?」 畳みかけるような相変わらずのおばちゃん節全開の母を見て、本当にこの人がノイローゼ気味だったのかと疑ってしまう。 けれど実家で祖母の介護をしているのだから、それだけでも私は頭が上がらない。……はずなのに、どうしてか母を下に見てしまう自分がいる。 台所作業の途中だったのか母は言うだけ言ってさっさと戻ってしまった。 その背中を見て何だか複雑な気持ちを抱きつつつ、私は祖母のいる部屋へ向かった。 一番奥の日当たりのよい和室が祖母の部屋になっている。 介護用ベッドを入れたのでいくらか狭くなったように感じつつも、母の片づけが上手なのか意外にもキチンとしていた。 「ばあちゃん、レミだよ。入るよー」 声をかけて入ると祖母はベッドに横たわっていた。 それでも起きていたらしく、ゆっくりと私のほうを見た。 近づいて、祖母に私の顔がハッキリと分かるように顔を覗き込む。 すると、昔から変わらないひょうきんな瞳が私を捉えて、にっこりと笑った。 「……あらぁ、レミちゃん?」 「うん。レミだよー。帰って来たの。ばあちゃん、具合はどう?背中とか腰は痛くない?」 「よく来たねぇ。うん、うん、痛くないよぉ。レミちゃんだぁ」 ベッドサイドにある椅子に腰かけてばあちゃんの手を取った。 しわしわで小さくてカサカサしてて、でもちゃんとしっかりした手だった。 命の終わりが分かるようなもっと儚い手を私は知っている。 それと比べたら、まだ温かい手で少し安心した。 手を優しく揉んであげると祖母は気持ちよさそうに目を閉じた。 「レミちゃん」 「んー?」 「学校、大変なの?」 「……大変だけど、頑張ってるよ」 「そう。レミちゃんすごいねぇ。看護婦さんになるってちっちゃい頃から言ってたもんねぇ」 「うん」 「アミちゃんも、部活頑張ってるみたいねぇ」 「部活でバドミントンの選手なったんだよ、アミ」 「あれぇ、テニスじゃなかった?」 「バドミントンだよー」 「そっかぁ……ばあちゃんボケちゃってごめんねぇ」 「ばあちゃんはシッカリしてるよ。大丈夫だよ」 「レミちゃんも、看護学校大変だろうけど、体壊しちゃあダメだよぉ」 「……うん。ご飯もちゃんと、食べてるよ」 「じいちゃんがお米、送ってくれるからね。たくさん食べんと元気でんからね」 「……うん。ばあちゃん、背中さすろうか?」 「いいや、手だけで気持ち良いよぉ……」 認知症が進み時間軸がバラバラになった過去の話を祖母と続けながら、彼女の手を揉み続けていたら小さな寝息がし始めた。 母も四六時中介護ができるわけではないから、祖母ともこんな風にゆっくりも話していないだろう。むしろ二人がどんな会話をしているのか想像つかなかった。 ねぇ。ばあちゃん。 どうしたらばあちゃんと話している時みたいな気持ちでお母さんと向き合えると思う? どうしたらお母さんに優しくできると思う? ……でも私がこうやってばあちゃんに優しくできてるのも、きっと距離があるからだ。 ましてや看護の職業柄、無意識に仕事のような意識でばあちゃんに接してる自分がいるもの。 ……ごめんね。 心の中で祖母に問いかけるも、答えなんて返ってくるわけでもなく穏やかな寝息だけが聞こえていた。 祖母の部屋からそっと出て居間に向かうとお茶の準備がしてあった。 お茶菓子は……あんぱんだ。何故? 不思議に見ていると母が台所から出てきた。 「あぁ、そのパン。地元で2年前くらいからやってるパンなんだけど結構繁盛してんのよ。ここのあんぱん美味しいからあんたに食べてもらいたくて。さっき言ったいいものの1つがそれ」 「おやつにあんぱんとか、小学生の時みたい」 「あんた好きだったじゃない」 「……まぁ」 「そこのパン屋ね、ちょっと変わってるのよ」 母の話をよそにあんぱんにパクついた。 表面はこんがり、中はふんわり、餡子はずっしりしつつもサッパリしていた。粒餡になっていてホクホクしている。 甘さもしつこくないので、おはぎみたいにいくらでも食べられそうだ。 お茶を一口飲んで、そのパン屋がどう変わっているのかを聞いた。 「隣町の古民家を改良して、一人で男の人がやってるんだけど、木曜から日曜までしか開かないのよ」 「ずいぶんな殿様商売だね。それで繁盛って大したもんじゃん」 「のんびりした感じのお兄さんがやってるんだけど、月曜から水曜まで何してるんですかって聞いたら、月曜と火曜は普通に休みで、水曜日をまるまる一日パンの仕込みにしてるんですって。天然酵母使ってるから手間はかけてるみたい」 「へーそうなんだ。あ、そう言えばもう一つ、いいことがあるって言ってたけどなんなの?」 あっという間に食べ終わりお茶をいれなおす。 すると母はニヤニヤというか、にまにました笑顔でこっちとしては嫌な予感がした。 期待を裏切ることなくどこに隠し持っていたのか、A4くらいの薄いアルバムをテーブルに3枚並べては私の顔色を窺う。 こんなものざわざわ広げなくたって分かる。 分かるからこそ丁重にお断りするつもりで開きもしないで母に言う。 「ねぇ、これってもしかして……」 「いやね、私が頼んだわけじゃないのよ!それだけは誤解しないでよ!」 「じゃあ誰がよ」 「オオムラさんに会ったからレミが帰ってきたって言ったのね。そしたら、ホラ、あの人って世話焼くの好きな人でしょう?昔っから。それでまだレミ結婚してないって言ったら一昨日うちに持ってきてねぇ!……それで……レミさえ良ければ……どうかなぁ、なんて」 その言い分を聞いてため息が出てくる。それこそ私の都合も事情もお構いなしじゃないか。 私がこっちに帰って来たのを一体何だと思っているんだろう。 イライラしてくるのを抑えて、ここはひとまず断らなければ。 「お母さん。私こっちに帰ってきたばっかだし、仕事も一人暮らしもまだそんなに落ち着いてないの。お見合いだなんてそんな余裕ないよ」 「じゃああんた、結婚考えてる人はいるの?」 「いないけど……とにかく、今は仕事に落ち着きたい。ただでさえ病院移ってきたばっかだし、やりたいこともあるし」 「いないならちょこっと会うくらいいいじゃないの」 「だから、ここただでさえ田舎なんだからただ食事して終わりってわけにはいかないでしょうが。絶対にオオムラさんの事だから結婚式場どこにするとか口出してくるし、一度会ったら断るのにすごく大変なの分かることじゃん。男性のほうの都合やご家族のこともあるだろうし。お母さんの言うようにね、そんなに手軽にハイハイ会ってたら4股くらいの噂立てられちゃうよ!」 「だってあんた、そしたら年齢どんどん上がっちゃうじゃない!」 「お母さんには関係ないじゃん!私は私の人生、ちゃんと考えてやってきてるの。言っとくけど、私、親の為に結婚はしないから。そのために手に職つけてやってきたんだから、自分の結婚は自分で決めるから」 「じゃあ貰ってくれる人いなかったらどうするの」 「そしたらもうおひとり様でいいよ」 「それじゃ困るのよ!親として!」 「結婚?子供?そんなんアミがやってるからいいじゃない!アミが全部叶えてるからそれでいいじゃん!なんでさぁ、そう支配しようとすんの?自分がそうしたいだけで、それを私に決めつけないでよ!」 「そんな、支配しようとなんてしてないわよ。私はね、ただあんたも結婚して旦那さんも子供もいて、傍にいてくれたら……!」 その母の言い分は抑えていた私の怒りのスイッチを簡単に壊した。 気がつけば心より先に本音が口をついて出てきた。 「私はそんなことのためにこっちに戻ってこいって言われたわけ!?大きい病院で緩和ケア専門の病棟に声がやっとかかって、それ諦めてこっちにきたのに、何でそんなこと言われなきゃいけないの!?いいかげんにしてよ!」 「レミ!」 「たーだーいーまぁー!!!ばーば、おやつー!!!!」 「あれっ、ユメちゃん、お客さんきてるよ??クツあるよ!」 「ほんとだー!ほけんやのおねえちゃんかな??」 母と険悪になったところで、元気な声とドタバタとした足音がして、ちび2人が弾丸のごとく居間に転がり込んできた。 小学1年生と2年生の姪っ子のユメと甥っ子のタケルだった。 二人は私の顔を見るなり、太陽のような笑顔を向けてきたので、思わず眩しさにやられそうになる。 駆けてきたのか息は弾んでいて、二人とも嬉しそうに私にまとりわりついてくる。 母はバツが悪いのかさっさと台所へ消えてしまった。 きっと2人のおやつの準備をしながら頭を冷やそうとするに違いない。 私も母の顔を見ないほうが心が穏やかなので助かった。 「レミちゃんだぁ!!!」 「ほんとだ!レミちゃんだ!レミちゃん、今日とまるの??いっしょにいるの??」 「あ、ばあばあちゃんにただいましてない!」 「ばあばあちゃんのおへや行かなきゃ」 「っと、タケル、ユメ。さっき私がばあばあちゃんにご挨拶しに行ったら疲れて眠っちゃったから、また夜のご飯の時に声かけてあげて。ほら、ランドセルも部屋に静かに置いておいで。今日のおやつはあんぱんだよ」 「わかった!」 「え、レミちゃんもうおやつ食べちゃったの?なんでまっててくれなかったの?」 「だって私もう帰るもん。帰ってお仕事のお勉強しなくちゃなの」 「大人もしゅくだい出るの?」 「宿題じゃないけど……自習ってやつ?」 「レミちゃん、えらいね」 「うん、えらいね」 「ほら、二人とも早く部屋に置いてきな」 「はぁーい!」 ……どっと疲れた。 姪っ子も甥っ子も可愛い。 可愛いけれどそこまで叔母バカにならない私は冷たいのだろうか? 友人や同僚を見てきて、だいたい姪っ子甥っ子ラッシュになったときもみんなデレまくっていて、私はそんな彼女らににこやかに相槌をうちながらいまいち全てに共感しきれないでいた。 子供が嫌いなわけではない。可愛いとは思う。 次々と自分の子供が生まれる友人たちを見て素敵だなぁと思う。 けれど私も同じようにあんな風にデレデレになるのだろうか?と疑問が浮かぶ。 周りには「自分の子供が生まれたらきっと変わるよ」と言われてもにわかに信じがたい。事実、虐待する親はどうなんだろう。 ……私、もしかして予備軍になるのかなぁ……と、結婚もしていないのに蒼くなる。 そんなことを考えて、姪っ子たちに宣言してしまったとおりにもう帰ろうと思った。 おやつの支度をしている母に声をかけにいく。 「お母さん。オオムラさんには申し訳ないけど上手く言っておいて。……私、本当に仕事でやりたい事あるの。お母さんには悪いけど、向こうでの夢を諦めてこっちにきたの。だけど、こっちでもそれを目指したいから……。帰るね」 「さっきも聞こえたわよ。これ、持ってきなさい」 振り向いた母の手には何やら大き過ぎるタッパー。 おやつの隣に置いてある紙袋にそれを入れる。他にも2つほどタッパーが入っていて、パンまでも入っていた。 「ありがと」 「たまには帰ってらっしゃい。近いんだから」 「……わかった」 私が帰るのを止めに入る姪っ子たちを諭し、実家を出る。 お中元とかが入ってた袋だろうか。やたら大きい袋に大きなお土産。 きっと中のおかずは今日の夕飯に作っていたものだろう。 しかしその母の心遣いさえも、何だか今の私にはしんどかった。 * * * * * * * 数日後。 休みの日になり買い出しから帰ってくると、また嫌なにおいがした。煙だ。 浜辺のほうを見るとやはりあのたき火男だった。細かい事は言いたくはないけれど、私はまた浜辺に向かった。 男性は相変わらずパーカーにジーンズにサンダル姿だった。 ここ数日見かけなかったのにまたやってるとか、定期的すぎて何かの宗教なんじゃないかとさえ思えてくる。 「こんにちは」 「あ、あぁ。こんにちは。……って、すいません!たき火!」 「……いや、いいです。って別に良くないですけれども……。何かの儀式なんですか?」 「儀式ってんじゃあないですけど……僕、昔っからたき火、好きなんですよね。あ、ゴミ燃やしたりとかしてるわけじゃないですよ。食べ物焼くくらいで」 「は?食べ物?」 「今しいたけ焼いてますけど、食べます?ほら、醤油とお箸とお皿もありますよ」 たき火を見ると、中心には使いこんである網があり、上にはしいたけとか獅子唐、アルミホイルに包まれているであろうじゃがいもが乗っていた。 ……一人バーベキューにもほどがある。 「……何やってんですか、あなた」 「え、たき火……」 「じゃなくて、普段!お仕事!転職活動中とか?それかもしかして宝くじ当たった系の人?」 「あぁ、僕自営業なんですよー。固定の曜日しか仕事入れてないので、今日はお休みです」 どおりで毎日やってるわけじゃないわけだ。 私が呆れてものも言えないでいると彼はせっせと紙皿に焼けたしいたけと獅子唐を乗せて醤油をかけ、それと一緒に箸を私へ差し出した。 しょうがないので受け取って食べてみる。普通に美味しいと思う自分ににわかに腹が立って、それがおかしくて笑いそうになった。 「なんか、外で食べるご飯って格別な気がしませんか?」 「まぁ、そうですけど」 「よかったらパンもあるんで、ちょっとあっためますか」 彼は自分で持ってきたバッグの中からあんぱんを出した。 あれ、そのパン、どこかで見たような……。 そんな私に気がついたのか、彼はパンを網上に乗せた後に言った。 「二度焼きじゃないですけど、あんぱんもちょっと温めると意外と美味いですよ。中の餡子もホクホクして、まさに焼き立てが味わえるみたいな」 「このパンって、隣町の人気のお店ですか?」 「人気店かは分からないけど、そうです。よくご存じで」 「……こないだ食べたばっかなんです。母が美味しいからって」 「へぇ。で、どうでした?」 「……すごく、美味しかったです。……私、甘すぎるのとかちょっとねっとりした餡子が昔からダメなんですけど、ここのはそうじゃないっていうか。……昔祖母が作ってくれたおはぎのホクホクした餡子が好きで、それにすごく似てて美味しかったです。もちろんパン生地も香ばしくて、すごく美味しい小麦粉使ってるんだろうなって感じで美味しかったですよ」 「そうなんです!この餡子、和菓子屋さんから手ほどきしてもらって作ってる餡なんで絶対の自信なんですよ!パン生地も、北海道の小麦粉仕入れてるんで風味もすごく良いと思ってて……」 「……詳しいですね」 「えーと……知人がそこでやっておりまして……」 「そうなんですか。あ、パン焦げますよ」 「あっ、ほんとだ。あちちちち」 思わず噴き出してしまった。あんなに毛嫌いしていたはずなのに、どうしてだろう。 名前も知らない人と海を眺めながらたき火をして、野菜とかパンとか食べているなんて私も頭がおかしくなってるんだろうか。 彼が半分に割ってくれたパンは熱くて外がパリッとして少しだけ焦げの味もしてて、中の餡子はホクホクでとても美味しかった。 「……なんか、妙に心が落ち着きますね、ここ」 あんぱんを食べながら海を眺めていると、自然と言っていた。 不思議な事に、お腹も見たされて自然を眺めていると、つい考えてしまう母の事とかくさくさした気持ちがいくらか穏やかになるような気がした。 「お仕事、忙しいんですか?」 「……そこの楠山病院で働いてるんです。前は都心の大学病院に勤めてて、家の都合で地元に帰って来たんです。こっちの病院にもようやく仕事仲間と馴染めてきたって感じですかね」 「じゃあ僕と同じだ。僕もここ地元なんですけど、一度別の仕事で都心で働いてて、僕の場合は自分のやりたい事があって、考えたら地元でも出来る事だったんでこっちに戻ってきたって感じなんですけど」 「あはは、ほんとだ。……こっちに帰って来て、良かった?」 「良かったですよ。顔見知りばっかりですし、親も近くだから何かあったときに助けにいってあげられるし。僕一人っ子なんで」 「そっか。そこは私と違うかも」 「地元、キライなんですか?」 「……キライっていうか……好きじゃない。キライなのかも。こっちに帰って来て、何だか嫌なことばっかりっていうか。……たき火とか」 「すいません!!」 「あはははは。まぁ、私も神経質になりすぎてたのかも。……でも、家族を助けてあげたいって貴方すごく優しいね。私そんな気持ちあんまりなかったもの。実家には妹夫婦同居してるし、孫までいるし。祖母の介護は力になってあげたいとは思えても……何か上手くいかないことばっかりよ」 「……そうですか」 「なんか、ごめんなさいね。ちょっと誰かに愚痴りたかっただけみたい。……知らない人ってこういう時、都合よくて嫌ですね。……たき火はもういいです。パンも美味しかった。ありがとう」 「いえ!……僕と年齢近いみたいなので、何となく分かる気がします。今度も気が向いた時にでも、僕でよければ聞きますよ。パンも持ってきますし」 「あははは。……ありがとう。じゃ、ごちそうさま」 何だか不思議な会話だった。 だけどこんな風に人と穏やかな時間を過ごすのも久しぶりだった。 彼と別れて部屋に戻り浜辺を見ると、たき火後を片づけ始めているのが見えた。 いつもきちんと綺麗にして帰るのだからそれだけでもいいのかもしれない。 お肉を焼いてるわけじゃないから匂い付きの煙なんてのもないし、本当に私が気にし過ぎていたのかも。 現にここの人たちは田舎だからか大らかな人ばかりだ。 だから私のように小さな事で腹も立てなかったのかもしれない。 あんな風に私も大らかになれたら……もっと優しくいれるかもしれないのに。 母だけでなく自分の事も許せなくなりそうだ。 * * * * * * * 「レミさんって、都心の大学病院に勤務してたんでしたっけ?」 休憩室でお昼を食べようとしていたところ、同僚のサワノさんが声をかけてきた。 サワノさんもこれからお昼休憩なのかランチボックスをもっていた。 彼女は私よりも年下で1年前からここで勤務をしているらしい。結婚して彼の転勤に伴ってこっちにきたと歓迎会の時に話してくれた。 私はサワノさんの質問に頷きながらお弁当タッパーを開けて、レンジにかけた。 「そうだけど……もしかしてサワノさんの知り合いとか勤務してた?」 するとサワノさんはランチボックスを開けながらキラキラした瞳で答えた。 「実は、看護学校の同期があそこに勤務してて。レミさんと同じ病棟にいたって昨日トークで教えてくれたんですよ」 「えっ!誰だれ??」 「サイキっていう名前なんですけど」 「あぁ!知ってる知ってる!すごく面倒見の良い子よね。たしかご主人と二人暮らしで……そうなんだ。えー、びっくり!」 「サイキさんもビックリしてましたよ~。レミさん、めちゃめちゃ優秀で先生たちからもすごく信頼のある人だったって」 「褒めすぎだから、それ!」 「緩和ケア専門の病棟立ち上げるのに、筆頭に名前が挙がったナースもレミさんだったって……」 「ひゃ~、女子の話すごいなぁ。そこまで知ってるとは……うん。そう。だけどこっち戻ってきちゃった」 そのタイミングでレンジが鳴り、熱々のタッパーを出して座ると、もう一人休憩室に入ってきた。ここのベテランのシバタさんだった。 シバタさんは「あーやっとお昼だ~お腹ぺこぺこ!隣いい?」と言ってサンドイッチと春雨スープと野菜ジュースをテーブルに広げ、「なになに?レミさんがこっちに来た話してたの?お祖母さんの介護って言ってたよね?」と遠慮なく話に加わってきた。 このシバタさんの勢いが私は不思議と好きだったりして、「そうなんです」と頷く。 サワノさんはお弁当を食べながらさっきの話を続けた。 「でも大学病院のケア専門病棟に真っ先に声が挙がるのってすごくないですか?」 「へー!すごいじゃん、レミさん。そりゃあ実家戻るの迷うなぁ……」 「そりゃ私だって断腸の思いでゴネまくりましたよ。そのために勉強も研修会も通いましたし。けど……実家の母には勝てなかったです」 「……そうねぇ。多分、私でも実家に帰るかもな。母、しかも年老いたおばさんになりきった母には勝てない」 「そういうもんなんですかね?私だったら……うーん」 「いやいや、そういうもんだよ。まだ若いから介護問題が出てきてないだけで、サワノさんはこれからこれから。……で、レミさんはご家族とは大丈夫?うまくやれてる?」 なんてド直球な質問なんだ。シバタさんはどこまでも気持ちがよすぎる。 ……多分、今までの私だったらのらりくらり誤魔化して喋らなかった。 けれど、昨日の今日での穏やかムードにやられたのか、何だか心が素直になってしまっているのか、思い切ってぶっちゃけた。 「うまくやれてるわけないですよ。……私、ずっと一人でやってきたってプライドあったし勤務してたとこも大きかったし、そうしてまで地元きたのに母は結婚しろ見合いしろ孫だの勝手な事言って……こないだもそれで険悪になって帰ってきたぐらいです。一人暮らしでよかったですよ」 「あー、あるよね。親の結婚攻撃。姪がまさにそれ受けてるわ」 「孫、それ分かります。私なんて去年結婚して、まだ働きたいし引っ越しでお金も使っちゃったから子供はもうちょっとって考えてますけど、旦那母のプレッシャーと実家母の期待が重いですもん」 「私なりに今後やりたいことちゃんと考えてるのに母とかガン無視ですよ。勝手にご近所さんからお見合い写真3枚も貰ってきて勘弁してほしいですよ」 「3枚!すごいね」 「あはははは。すごいですねそれ」 話しているメンバーで私だけが独身だけれど、結婚してなくても結婚してても、子供とかそこらへんの問題や立場はそうそう変わらないらしい。 それが分かったら何だかホッとしてしまった。 そんな中でシバタさんが聞いてきた。 「でもレミさんはさ、地元にも病院いくつかある中でウチにしたのって、ちゃんと考えてるってことでしょう?先生から紹介って聞いたよ。それだけでもすごいことだよ」 「えっ、レミさんそうなんですか!」 「……うん。大学病院の先生にも、ここの先生にも感謝なんだけど、緩和ケア専門が入ってるとこでどうしても働きたくて。まぁ、すぐ配属ってわけじゃないのも分かってましたけど」 「病院によって方針もカラーも違うし、学閥も未だ根強いしね。……ウチもそこそこ大きい病院って言っても地方だし、都心に比べたら最先端医療ではないけれど、緩和が入ったのもお年寄りが多いから地域に根差した医療って考えると、ここでもやりがいはあると思うよ」 「はい。そう思うと地元にここの病院があって本当に良かったです。それに私、恋愛には恵まれないですけど仕事の人間関係にはすごく恵まれてるなって自覚はあるんで、ここでも頑張らせてもらいます」 少し照れくさかったけれど、口にしたらすごくスッキリした。 そんな私に二人とも笑顔で「私たちこそ、頼りになる人が入って来たって持ち切りなんだから」「こちらこそ色々教えてもらいたいです」と言ってくれて、本当にありがたいと思った。 その後は自分たちの母親の奇怪な行動や言動(メールの文章とか)について、ひとしきりぶっちゃけ大会。 わずかなお昼休憩にこんな風に笑いながら食べるなんて久しぶりだ。 食べ終わってまだもう少し時間があると思ったときに、シバタさんは何かを思い出したようにふと言った。 「けどさぁ。親ってさずるいよね」 「え?」 「だってどんなに険悪になってても、自分が子供の時の好きなもの覚えてるんだもん。大人になって昔ほど好きじゃないのに、親の中ではちっとも更新されてないんだけどさ。 ……でも、やっぱり大人になっても好きだったりするし、それが妙に悔しいんだよね。たったそれだけで言い返せないんだもん。所詮は子供なんだなーって。 ……まぁ、私も息子がだんだんそうなってくんだろうなって思うから、いよいよ他人事ではなくなってくる話しだけれどさ」 シバタさんは何気なく言った事だけれど、ストンと私の心の中に降りてきた。 納得の気持ちと、小さな罪悪感が混じって、何とも言えない気持ちがした。けれどそれは心地の悪いものではなくて。 たしかにそうだ……だって今日のお昼ごはんもこの間貰ったおかずを冷凍にして入れてきたけど、タッパーに入ってたおかずはどれも私の好物だった。 それに、この間のあんぱんだって。 考えているとシバタさんが続けた。 「親もさ、素直じゃないから、介護とかで疲れてても子供に簡単に弱音は吐かないし。こっちからすると言う割には全然大丈夫そうじゃんって気持ちになるんだけど、……看護と同じなんだよね。看護のご家族もさ、人によりけりだけど簡単に弱味なんて見せないし」 たしかにそうだ。 介護も看護も、人に寄り添うものであって、人寄り添うって決めた人は簡単に弱音は吐かないし弱味も見せない。 なぜならそれをしたら崩れてしまいそうで怖いからだ。 だけど、私の仕事は寄り添うための家族を壊れさせないようにすること。そういった人たちを支えて、寄り添う事だ。 家の事情は仕事じゃないけれど……もしかしなくても母は私に本当は弱い事を言いたいし、頼りにしたいんだ。 けれど、それを許していないのは……私のほうなんだ。 私が許していないのを母も分かっているから、距離の縮め方が分からなくてきっとああいうやり方になってしまったのかもしれない。 もちろん、結婚や孫の事は無理やりだけれど、私も母の事を許して、やりたい事や考えている事をきちんと初めから伝えていれば衝突したってもっと軽いもので済んだかもしれない。 夕飯を一緒にとることもなく、あんなに嫌な気持ちで家を出ずに済んだのかもしれない。 ……私にも原因があったんだな……。 いつも母の背中ばっかりで、正面から見てもすぐに逸らして……。 そんな私に母の気持ちなんて分かるわけがないのは当たり前だ。 けれど母のほうは私のことなんてきっと分かり切っていて。 ……だからあんぱんもわざわざ買いに行ってくれたし、おかずも持たせてくれたのだ。 分かっているし、分かられているからこそ、距離って難しい。 お互いの心の適正な距離が見えればいいのに……だけど、だからこそ言葉がもっと必要なのかもしれない。 見えないから、お互い教えなきゃだめなんだ。 「……シバタさん、ベテランすぎます」 「なにが?」 「いや、さすが人生の先輩だと思って」 「伊達に姑と同居してないわよ」 「考えたら、レミさんが緩和病棟行ったら一緒に働けないじゃないですか!」 二人で笑っていたら、サワノさんが全く違う方向で話をぶっこんできた。サワノさんの顔を見ると大真面目な顔をして、思わずシバタさんときょとんとしてしまう。 「飲み会すればいいじゃん。それか緩和一緒に目指す?」 「そうですけど~!って緩和呼ばれるには経験足らないですって」 「新婚が何言ってんだか。若い人にもどんどん経験させてほしいし、むしろ大歓迎じゃない?」 「あ~羨ましい!私もそういう時があったのになぁ。新婚いいなぁ!若いっていいなぁ!」 「「 え 」」 「……ちょっと!今の何よ、二人とも!可愛げない後輩ね!」 「あはははは」 「あっ、休憩終わっちゃう!」 「やばいやばい!」 慌ただしく休憩を終えてそれぞれの持ち場に戻る。 ……今度は、私が母に美味しいパンを買って行こう。お母さんに喜んでもらえることなんてそれぐらいしか浮かばないけれど、そう思ってその日の勤務はいつもより気持ちよく終える事ができた。 隣町のパン屋について同僚に聞いたらほとんどの人が知っていて、先生ですら常連だと自称していた。 知らなかったのは本当に戻ってきたばかりの私だけだったらしい。 夜勤明けで少し眠たかったけれど大した距離ではないし、買って家で寝たら母のところに持って行こうと考えていたので、夜勤明けの帰りがけに噂のパン屋に寄ったのだった。 バス停からもほど近く、昔からの通りに面した住宅街に趣のある古民家のパン屋は目立っていてすぐに分かった。 駐車場も隣にあり、ちょうどお客さんのか軽自動車と大型バイクが停められていた。 木曜日から日曜日までしかやっていないと聞いていたし、今日はちょうど木曜日だし午前中だしで品ぞろえも充分にありそうだった。 『 蘇芳 』とだけ書かれた木の横看板がお店にかかっている。 入口にかかっている店名が白抜きされた藍染の暖簾を見ると、パン屋というよりも呉服屋のようだ。 外に出ている黒板に「あんぱん、バケット、食パン、サンドイッチ ご予約承ります」と男らしい字で書いてあって、それでかろうじて『ここはパン屋なんだ』と分かるくらいだった。……ギャップってやつなのか? 外観を観察していると、ちょうど中から紙袋を抱えたお客さんが何人か出てくる。 みんな嬉しそうな顔をしていたので、それほど美味しいお店って証拠だ。たしかにここのあんぱんは美味しかった。 期待の気持ちを込めてガラスの引き戸を開けると、中から香ばしい香りがした。 店内にはたまたま私だけのようだ。 中も古民家を改装してあるのでレトロ感が存分にあって、ショーケースも骨董品の木とガラスの戸棚で、画面としてもパンとマッチしていた。 奥の机にレジがあり、カウンター内が工房になっているようなのだけれど誰もいない。 そのかわりスタッフルームになっているのか奥座敷には人が動いている気配がしているから、たまたま席を外しているんだろう。 パンを見ると小ぶりながらなかなか種類が多くて、ショートブレッドも可愛い正方形で一人暮らしの私には十分なサイズだと思った。 ざるとトングを持ってひとまずあんぱんを入れる。 売れ筋なのかざるに山盛りになっていた。他は何にしようかと迷っていると、奥座敷からドスドスと逞しい足音が近づいてきた。 店主かなと思って私が顔を上げるのと同時に、店主が「いらっしゃいませ」と言おうとした瞬間…… 「 え―――――――――っ!!!!??? 」 「 あ―――――――――っ!!! 」 持ってたトングをうっかり落としそうになった。 さっきまで少し眠かったけれど、一気に目が覚めた。 なぜなら、店主があのたき火男だったからだ。 私が驚きのあまり口をパクパクさせていると、たき火男……いや、パン屋の店主は気の抜けた笑顔を私に見せて言った。 「……いや~、バレちゃいましたね、とうとう」 「バレちゃいましたねって……あんぱん作ったの、貴方なんですよね……?」 「そうですよ。ようこそいらっしゃいませ。あ、早速あんぱんを入れてくれてありがとうございます」 しかもこっちのこともよく見ている。 Tシャツにジーンズは相変わらずで、店主らしく藍染の長い腰巻をしていた。今日はきちんとスニーカーを履いている。 髭面は相変わらずで頭にタオルを巻いていて……こんな男性がどうしてこんな素敵な古民家パン屋をやっているのか……。 何となく奥様たちはこの屈託のない大型犬のような店主が可愛くてパンを買いに来ているのもあるのかもしれない、と思った。 「なんで嘘ついたの」 ヘラヘラしている店主に疑念の眼差しでつっこむと、また情けなさそうに笑って 「……煙で嫌われてるって思ってたので、僕が作ったって言ったら食べてもらえなさそうでつい……」 そんなふうに答えた。何だかこっちまで気が抜けてしまう。 「……パン、美味しかったから買いに来ました。話題みたいですし……それに母のとこに持って行こうと思って」 「あ、じゃあ仲直りされたんですか?」 「……しにいくのよ。仲直りに」 「あははは。じゃあおススメのパン、見繕いましょうか?」 「……お願いします」 個数と予算を聞かれて答えると、彼がざるに次々と色んなパンを入れていく。 紙袋にも詰めてお会計を済ませてから、彼が結構おまけしてくれたことに気がついた。何て粋な事をしてくれるんだろうか。 それにしても大きな体と思っていたけれど、手もすごく大きい事に気がつく。 ……この手でパンをこねて、この間はたき火をせっせと準備して、片づけてるのか……同一人物とは思えず、何だか変な感じだった。 「ありがとうございます!感想待ってます!」 「いえ、こちらこそありがとうございます」 「あの、こんなとこで言うのもなんですけど今度良ければたき火を一緒に……」 「しません!」 「えー……じゃあキャンプしましょう。それならいいでしょ」 「……なんで私があなたとたき火囲まなきゃならないんですか」 「いや~だってなんか縁じゃないですか、これ。絶対何かの縁だなって思って。それにたき火やってて声かけてくれたのお年寄り以外に貴女だけだったので……」 「勝手に仲間意識持たれても困るし!しいたけとパン食べただけだし!」 「まぁまぁ、交流と思って。実はご近所でもあるんですよ。それに……こう言っちゃなんですが、あなた結構物音激しいですし」 「は!!??何のこと!!!??」 「あれ、本当に気付いてないです?僕の部屋の真上が貴女の部屋なんですよ」 「はぁ!?何それ!!怖っ!!」 「ちょっと、何ですか、今の怖いって!一応俺のほうが先住者ですからね!最初入居したとき、貴女僕んとこにお蕎麦もって挨拶してきたじゃないですか!それにあそこのアパート、僕の伯父が大家ですし」 そうだったのか!ちっとも知らなかった!! ……たしかに引越し蕎麦は両隣と下の階には持っていった。けれど住人の顔なんてすぐに忘れてしまった。 それにしても参ったぞこれは。何だか頭痛がしてきた気がする。 「引っ越そうかな……」 「まぁまぁそんなこと言わずに。……えーと、今更ですが、良ければ名前お聞きしていいですか?あ、ちなみに俺、スオウって言います」 「まぁ、パン屋の名前だからね。……私は……」 言おうとして、ちょっと考えた。そして言った。 「今度教えてあげます」 「え!?」 「だって貴方だけ知ってる事多くて全然フェアじゃないし!あ、大家さんに聞こうとしたら、個人情報漏洩で訴えるから。すぐ出てくから」 「え――!!」 うろたえるスオウさんが何だか面白くて、何だかもっといじめてやりたくなってしまう。 本当に慌ててる顔を見て、困った大型犬みたいだと思った。 おかしくて思わず笑ってしまうけれど、もう彼に悪い印象は抱いていなかった。 一応身元もハッキリしてる、不審者じゃないってのが分かっただけでも随分違う。 「今度、気が向いた時にたき火してる時にでも、教えに行くから」 私が意地悪く言い終えたところで、別のお客さんが2組入ってきた。 大忙しになるのは分かっているから、私なんかとお喋りしている場合じゃないだろう。 お客さんがきて気がそぞろになったのを見て、紙袋を受け取った私は「じゃあ、パンいただきます」と言い残してお店を出る。 するとスオウさんは「たき火、しましょう!待ってます!」と声をかけてくれた。 だから、たき火なんてしないって言ってるじゃん。 でも、 お母さんと仲直りちゃんとできたら、報告がてら一緒にしてもいいかなとほんの少しだけ思った。 ほんの少しだけだけどね。 心の中でそう返事して、手を振ったのだった。 ( これも何かの縁ですから )
/12ページ

最初のコメントを投稿しよう!