風の中

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風の中

それならいっそこの風に巻き込まれてしまおうか。 目の前の儚くも綺麗なこの人が、あの日、僕に決めてくれたように。 もしかしたらチェロに引き上げられたあのバイオリンの音が、僕の本当の心の音色だったのかもしれない。 【 風の中 】 びゅう、と吹いた春風に思わず体を持って行かれそうになる。 気を抜いていた僕は咄嗟に足に力を込めて踏みとどまった。 突然の東風はざわざわと周囲の木々を蹴散らすように揺らしては、沿道を歩く人々を驚かせていく。 隣を歩く、クラスメイトのスガヤが「うおっ!風すごっ!」とはしゃいだように言った。 「春にしても台風みたいな風だね」と僕が笑うと「台風で学校ってなかなか休みにならねーよな!まぁ台風で公演も中止ってのにもなんねーけど」と文句を言った。 風が一通り吹き終わると街路樹からハラハラと葉が舞い落ちた。 「立ち止まってる場合じゃない。ゲン、俺ら相当急がないと遅刻確実だ」 スガヤはスマホで時間を確認するなり僕を急き立てた。 それに思わずムッとする。そもそもこんな時間になってしまったのは僕のせいではないからだ。 「それ言うのは僕のセリフだっての。そもそもお前が二度寝するからいけないんだろ。これで席がなくなったらお前恨むから」 「俺の席がなくなるのは分かるけど、お前はなくなることないだろ。うちの学校きってのチェリストだし」 「オーボエがいなくても困るだろ」 「俺はみそっかす奏者なんで」 「よく言うよ」 二人で言いあいながら学校まで走っていく。 学校まではあと少しで、他にも僕らと同じように遅刻ギリギリの生徒たちも同じように学校へ向かっていた。 中には歩いている生徒もいるけれど今日の僕たちにそれは許されない。 僕が通う学校は規模の大きな総合学園で、僕らはそこの音楽科に通っている高等部の2年生だ。 僕はチェロ、友人のスガヤはオーボエを専攻している。 今日は午後から新入生歓迎会という学校の全体行事が行われる。 プログラムには2年と3年の生徒で編成されたオーケストラコンサートもあって、僕らはそのオケメンバーに入っている。 オケメンバーは今日は朝からリハーサル練習が入っているのだけれど、まさか今日に限って寝ぼすけな友人のおかげで朝からこんなに焦るとは思わなかった。 本番前のオケ練で遅刻するかもだなんてどうかしてるし、僕だけさっさとくればよかったと薄情な事を少しだけ思った。 実際、大きなチェロを背負いながら走るというとばっちりを受けているのは僕の方なわけだし。 そのことを中等部からの仲であるスガヤに正直に言っても怒られやしないだろう。 走りながらもまた風が吹き始める。これはいよいよ春の嵐だ。 僕はスガヤの頭をはたきながら追い抜いてやった。 「あ――――間に合った!」 バタバタと慌ただしい音をさせて教室へ滑り込んだ直後、先生が教室へ入ってきた。 僕は慌てて楽器ケースを教室の後ろに立てかけてすぐに自分の席につく。 ギリギリな僕らにとっくに気づいてる先生はチラリともの言いたげに一瞥したけれど何も言わずに出席をとりはじめた。 間一髪、と思わず後列にいるスガヤに振り向けば、奴は能天気にも変顔をした。 HRで今日のスケジュールについて先生から改めて確認が終わると、オーケストラ選出組は楽器を持って講堂へ向かうよう指示された。 通称『ホール』と呼ばれる音楽科の為に作られた音楽講堂は、入るたびに感嘆と緊張のまじったため息が出てしまう。 音が良く反響するように作られたステージは広く立派だ。 ステージ裏倉庫には、音が澄んでいる事で有名なメーカーのグランドピアノが2台もある。それを知った時はさすが私立の総合高校だと感じたものだ。 新コンのオーケストラ演奏は音楽科の生徒全員が出れるわけじゃない。 教師の選考を経て2年生と3年生の中からメンバーが決まる。 もちろん3年生で固まるパートもあれば2年生にソロが任されたりもするので、本当に学年関係ない実力主義のオーケストラだ。 チェロだって4人のうち僕以外は全員3年生で、前後2列の配列も本当は後列にさりげなく座りたかったけれど、予め席は指定されていたので隠れることも適わず少々プレッシャーに感じているところだ。 ホールにはまだ3年生きておらず、僕たち2年生は先にポジションに座り始めるとしばしの雑談が始まった。 ステージはもう2日前からセットしてあるので、気にする事と言ったら譜面台の位置くらいだろう。 僕がチェロをセットしているとステージ中央奥、僕からすると右斜め方向のオーボエ席からスガヤが話しかけてきた。 「ゲンの兄ちゃんも新コン出てたよな、ファーストで。あれ、コンマスだっけ」 「うん。今回の選抜のこと報告したら、腕はリュウセイ君のが上だけど人間性でまとめ役を勝ち取ったって、そんな思い出話聞けたとこ」 「わ、スギタ先輩を下の名前で君付けしてみてーわ。たしかにスギタ先輩はコンマスって感じじゃないわな。あの人ずっとアッチだろうから会える機会ないけどさー」 スガヤの言う『アッチ』とはもちろんヨーロッパだ。 僕の兄もここの音楽科出身でバイオリンコースに在籍していた。 今は国立の東央藝大に4年生として通っている。 リュウセイ君というのは兄の同級生で、彼は音大に入るや否やはじめからヨーロッパの音楽院に留学が決まっていた。 それからずっと向こうを拠点に今では学業と並行してプロの演奏活動もしている。 リュウセイ君はうちの学校出身とだけあって校内にファンが多いし、僕から見ても超天才型のバイオリニストだ。 兄とリュウセイ君は今では仲良いけれど在学当時はライバル視していたのでギクシャクしていたと後から聞いた。 そして、その仲を取り持っていたのはピアノコースに在籍していた、兄の彼女のフユカさんだったらしいのだから、僕と比べてずいぶん青春な高校時代を送っていたんだなぁと思う。 「リュウセイ君って言ったってしばらく会ってないよ。なかなかこっち帰ってこないし」 「そういや俺、スギタ先輩のインカメ、フォローしてるんだけどめっちゃ面白れーよ。こないだは若手演奏家の豪華メンバーで餃子パーティーの写真アップしてたし」 するとビオラパートの女子が話に入ってきた。 「うちも何気にフォローしてんだけど、あれめっちゃすごいよね。みんな世界で活躍してる若手だし、ヨーロッパの音楽院メンバー豪華すぎだよ」 「でもさスギタ先輩のすごいとこって媚びてそれじゃなくて、ほんとにスギタ先輩の人柄で集まっちゃってるってとこだよな。日本人なのにパリピ全開だし見た目とかヤンキーっぽいのに不思議だよな」 「スガヤ、それ今度リュウセイ君に言っとくわ。会ってはないけどサッカーのリーグ中継にスカイプでしょっちゅう話してるし」 「ゲン!」 そうこうしているうちに3年生がホールに入ってきたので僕らはおしゃべりをやめて、椅子から立ち上がって先輩たちに会釈をした。 * * * * * * * 新入生歓迎会コンサート、略して『新コン』では2曲を披露する事になっている。 曲目はドヴォルザークの交響曲「新世界」より第4楽章、ガーシュウィンのラプソディ・イン・ブルーだ。 3年生は本当なら音大受験に向けて学校行事に割く時間はないと思うのに、新コンメンバーに選ばれている先輩たちはそんなことを1ミリも感じさせないくらいに真剣に、熱く演奏に取り組んでいた。 かえって音の浮付きが目立つ2年生ばかりが注意されてしまう次第だ。 リハーサルをみっちりやっての最後の10分休憩に入ると、隣に座る3年のモリカワ先輩に話しかけられた。 チェロパートにおいてトップを務めるモリカワ先輩は、長い髪をポニーテールしたのがよく似合っていて、僕の弾き方が甘いとさりげなく上手に注意してくれたりする、すごく感じの良い人だと思う。 「キリハラ君っていつくらいからチェロやってるの?」 「チェロは8歳くらいからです。それまでバイオリンやってたんですけど」 「うひゃあ!じゃあまだ8年ちょっとしかやってないわけでそれ?私立場ないな~」 「何言ってるんですか。モリカワ先輩には言われたくないですよ。実際よく注意してくれますし。あ、もちろん助かってますよ」 「あら、私の方にも注意してくれたっていいんだけどなぁ。正直、キリハラ君センスあるからメキメキと腕上げたらすごいと思うよ。それに私が言ってるのは単なるコツ程度のもんだし」 モリカワ先輩は口をとがらせながら弓を少しいじり始めた。 僕は自分の体で抱くようにしているチェロの指板を指先でなぞる。 弦はバイオリンよりも太く、強い。指で弾くと深い震えが体に響いた。 そういや先輩は4歳から始めたと言っていた。やはり親戚に音楽関係者がいると前に言っていたことを思い出した。 「キリハラ君のお兄ちゃんって東央藝大だよね?私もあそこ記念受験しようと思ってるんだけど、ストレートで入るのってやっぱり至難の業よね。やっぱりコンクールでぼんぼん優勝しないと厳しいんだろうな」 「うーん、兄もコンクールで優勝してなかったですよ。むしろリュウセイ君……スギタさんが端から賞を総なめに搔っ攫ってっちゃったんで、兄の時はみんな優勝氷河期だったと思います」 「そういえばそうだね。今やスギタ先輩も超人気の若手音楽家だもんね。すごいなぁ」 そう言って、モリカワ先輩は顔をうっとりさせた。 正直、少なくとも学年の誰よりもチェロを弾ける事は自覚しているし、コンクールでもちゃんと成績も残している。 けれど最近ずっと思っていることがある。 いや、気付いてしまったと言うべきなのかもしれない。 それは自分が何のために音楽をやっているのかということだ。 もちろんチェロが嫌いなわけではない。 気がつけばやっていたことだから、考えたって仕方がないのは今更かもしれない。 けれど僕は思うのだ。 自分は一体何の為にチェロを弾いているんだろうと。 僕の家は母が講師をするピアノ教室を開いているし、兄はバイオリン、姉はピアノ、僕はチェロ。 それが当たり前だった。自分で気づくよりも既に楽器を触っていた。 母は僕が末っ子だからかもしれないけれど、僕のやりたいことを何でも尊重してくれた。 小学生の時も中学生の時も友達と遊びたければ遊んでいた。練習についても僕ら兄弟には取り立ててうるさい事も言わなかった気がする。 それでも、楽器に触らない日はなかった。 母に言われたわけでもなし、僕も「やらなきゃ」というより「今日も触っておこう」程度に何となく弾いて今日まできている。 センスって一体何なのだろう。 分かるようで実体のないそれは、例えば確かにそこに存在しているのに手には掴めない空気のようだと思う。 センスや才能なんて誰だって喉から手が出るほどに欲しい。 才能だけではなく血のにじむような努力を積み重ねないと音楽なんて続けていられない。 そこに向き合っている兄やリュウセイ君の努力を近くて見て、僕もそれには負けたくないと思ってはいるし、こうして自分の努力も実ってオケメンバーにもなれた。 結果はきちんと僕の努力が反映されているしそこに何の不満はないはずなのに、それなのに自分の中に巣食っているこの停滞感のおかげで、実のところ心はあまり晴れやかではなかった。 10分休憩が終わって、今日のプログラムを最後に一度合わせた。 気持ちは軽やかじゃないのに指も手首の調子も何ともないくらい順調で、僕のこの気持ちは音にも響かない。 調子が悪ければ音が乗らないのが普通だと思っていたけれど、これじゃあ心と体が切り離されているみたいだ。 一体僕は何のために弾いているんだろうかなんて、兄やリュウセイ君はこんな想いした事あるんだろうか。 けれど、今になってこんなことを親しい人に相談したいとも思えない。 グダグダ悩む半面、冷静に指揮と楽譜を目で追っている自分が何だか別の人間のように思えた。 新入生歓迎コンサートの本番は勿論滞りなく進んで、普通科はもちろん、とくに音楽科の1年生たちはキラキラした目で僕らを見ていた。 もちろん全員がそうではないけれど(当然下剋上のように見定める厳しい目つきの子もいた)、1年前の僕らもあそこにいてあんな目でステージを見ていたと思うとこそばゆかった。 「キリハラ君、お疲れ。あとはこのメンバーに1年生がちょっと加わって夏に演奏会だね」 「そうですね。また一緒にやりましょう」 「あー、その楽しみが終わったらすぐに受験だなんて考えたくないよー」 演奏が終わり全体の挨拶と反省会と呼ばれる講評の後、モリカワ先輩と他愛もない今日の感想を言い合いながらホールを出ようとした。 すると、出口のところにモリカワ先輩の名を呼びながら手招きしている人がいた。 リボンのラインを見るあたり、モリカワ先輩の同級生のようだった。 モリカワ先輩は「ミライじゃん!どうしたの?」と嬉しそうに彼女の方へ駆け寄った。 ミライと呼ばれた彼女はすらりと背が高く、とても線の細い人だった。 肌の色も抜けるように白く、溌剌としたモリカワ先輩とはあまりにも対照的で、何だか美しい幽霊のような印象がした。 僕はそのまま二人に会釈をして通り過ぎようとしたところ、モリカワ先輩が僕の名を呼んで手招きした。 僕は驚きながらも二人に駆け寄る。 モリカワ先輩は僕にミライさんを紹介した。 「キリハラ君、この子美術科に通うスズキさん。3年生で、私とは前に委員会が一緒になったことあって科は違うけど仲は良いの」 「こんにちは、キリハラ君。……あの、スズキだとこの名字沢山いるから、ミライって下の名前で覚えてもらえると嬉しいです」 「2年のキリハラって言います。よろしくお願いします……?」 ミライさんは印象に違わず声も控えめで細かった。 少し鼻に抜けるような高い声は、まさしく名字の一部みたいに鈴が鳴っているように魅力的な声だった。 突然ふられた自己紹介に僕は他に何も言えず、どこか中途半端になってしまった。 けれどそんなのは関係なく、モリカワ先輩はミライさんを促すように言った。 「それでね、ミライがキリハラ君にお願いがあるんだって」 「僕、にですか?」 「ほら、ミライ」 ミライさんはちょっとだけ気まずい表情で言いづらそうにしながらも僕を真っすぐ見据え、言った。 「……デッサンのモデルをやってほしいんです。君と、チェロの」 「えっ!?」 意外な申し出に僕は思わず戸惑う。 デッサンモデルなんて、つまり僕が絵に描かれるってことだ。何だか恥ずかしい。 けれどミライさんは真剣に続けた。 「人物はもちろん、楽器を触ってる人を描きたくて。……女子はもうモリカワのを描いてるから、男子を描きたいなって思っていてそれで君にお願いしようと思って」 「でも、僕も練習あるんであんまり時間取れないかもしれないですよ」 「デッサンというか、スケッチだけでもいいの」 あんなに控えめだった口調が、急に芯の強いものに変わったと思った。 僕はちょっとだけ考えて、「……昼休みとかでも大丈夫ですか?」と提案をしてみたら、何かに弾かれたかのようにミライさんの瞳が一瞬輝いた。 本当に一瞬だったけれど、まるでそれに射抜かれたような感覚がした僕は何故か体が動けなくなった。 「君が良ければ、是非お願いしたいです。どうかお願いします」 そう言ってミライさんは頭を下げた。ショートカットからのぞくうなじは白く細い。 上級生に頭を下げられると言うのは何だか居心地が悪い気がしたので、僕はすぐに「いえ、こちらこそ僕でよければ」と言うと、ミライさんは顔を上げて少しホッとした表情になった。 安心しているんだろうけれど、ますますそれが儚く見えて、フッと息を吹きかけたらすぐに白く細い煙に変わってしまいそうな小さな灯りのようだった。 モリカワ先輩は「じゃあ早速メッセ交換しなよ」と僕らを促し、連絡先を交換してポツリポツリと言葉を交わした後に解散した。 モリカワ先輩とミライさんの後ろ姿を見送ったところで歩きはじめると、今度はスガヤが声をかけてきた。 「見たぞ、ゲン。あれ3年のユーレイさんじゃん」 「は?見てたの?いつから」 「お前と戻ろうと思って女々しく待ってた。だって先生にダメ出しピンポイントで俺貰っちゃったからさヘコんでんの」 「お前本番だと力みすぎるよな」 「こう見えてもあがり症てやつでして。で、ユーレイさん美術科の人だよね?珍しくね」 「モリカワ先輩の友達らしい。なんかデッサンモデル頼まれたから今度から昼休みはスガヤの事構えないからよろしく。って、ユーレイさんってなんなの?たしかにまぁそんな雰囲気だけど」 男の割にはミーハーで情報通な友人に聞くとフフンと得意げに鼻を鳴らした。 「まぁあのまんまだよね。美人なんだけどちょっと雰囲気が妖しいっていうか。描いてる絵も和風?な感じらしいし。でも色んな賞とっててめちゃくちゃ上手いらしいよ。あの人も東央藝大の美術科に行くんだろうな」 「へー。しかしユーレイさんってあんまりにも失礼だろ」 「けどあんまり人とつるまないしクラスでもぼっち気味って、他の先輩が言ってたしそれに……」 スガヤにしては珍しく最後のほうを言い淀んだものだから、僕は気になって「それに、何だよ」と促した。 スガヤはちょっと躊躇って、周りを少し気にしてから小さな声で素早く言った。 「美術科の先生と不倫してるって噂」 「はぁ!?」 「いや、噂、だけどホントっぽい。現に俺の友達で、ユーレイさんと先生がラブホ入るとこ見た奴いるし」 「……それってダメだよな」 「まぁ、アウトだけど、上でうまく揉み消してんのか職員会議にもその話すら出てこないらしい。だから逆に俺はお前が心配」 「だってただのデッサンモデルだけだし。時間も昼休みだし心配するところなくね?」 そうあっけらかんと言うと「分かってねぇなぁ~ゲンは坊だかんな~」と同い年で恋愛経験だってどうせ僕と同じくらいしかない癖に、スガヤはちょっと偉そうな口調をした。 「ユーレイさんあの通り変に綺麗な人じゃん?お前が好きになって演奏に響かないかが心配なんだよ」 「スガヤ……」 「なんだ?」 「お前、それ何かの漫画かドラマの見過ぎじゃね?だってどうせチェロ持って座るだけでしょ」 「…………ドラマが好きなのは否定はしない」 そう言うと二人して一緒に噴き出した。 そのままケタケタ笑いながら教室まで向かい、とりあえずスガヤの忠告は親友からの親心ってことで頭の隅にでも置いとこうと思った。 * * * * * * * ミライさんからの連絡はその日の夜にきて、もう翌日の昼休みからさっそくモデルをすることになった。 彼女から指定された美術棟の準備室前に行くと誰もおらず、するとミライさんのほうがほんの少し遅れてやってきた。 「ごめんね。この部屋キープするのに申請書出してた」 鍵を開けた部屋に案内される。石膏像の物置と化している小部屋は6畳くらいのスペースしかなくて本当に狭かった。 しかしミライさんがカーテンを開けると柔らかい光がさしてきて、壁もテーブルに置いてある石膏像も全てが白いので部屋がすごく明るく感じた。 「この部屋ね、日当たりがそこそこよくて陰影つけたりするのにもすごく勉強になるの。だからたまに集中して作品仕上げたい生徒に貸してくれるんだ。イーゼルや椅子なんかもあるし」 ミライさんは饒舌に、窓際に椅子をセットするとそこに僕を座るように促した。 そう広くない部屋でチェロを出す事に何とも思わなかったわけではないが、自分と楽器のショットが写真じゃなく絵に残るのはそうあることではないし、良い記念になるだろうと考えながら座った。 僕がそうしている間にミライさんはイーゼルと呼ばれるキャンバスを置く木枠のような台に、すごく大きなスケッチノートをセットしていた。 隣のテーブルに出した工具箱のようなプラスチックケースを開けると、沢山の鉛筆や消しゴムがあって、そこから必要なタイプの鉛筆を何本か出した。 「弓、構えたほうがいいですか」 「最初はそれだと腕が疲れちゃうから楽にしてみて。デッサンって言っても短時間スケッチみたいな感じだから、気持ちもあんまり構えなくて大丈夫」 「……はい。じゃあそうします」 僕は言われたとおりに楽な姿勢にした。 チェロを包み込むような姿勢で座り、右手は迷ったけれど弓を下げて演奏待機中と同じようにした。 狭い部屋に鉛筆を走らせる軽快な音が際立つ。 ミライさんは僕と目の前のスケッチを交互に見ながら描きすすめる。 時折、長い針金のような棒を掲げ僕をじっと見たり、チラチラと点滅するようにやってくる視線に、僕は普通にしているという事はとても難しい事なんだと初めて知った。 「この部屋ね、元々はウチの先生が空き時間に自分の制作をこっそりするので使ってたみたい」 「そうなんですか……」 その先生って、ミライさんと仲が良いという噂の先生なんだろうか。 でもそんなこと聞けるわけでもなく僕は何も言わなかった。 ミライさんも短時間で絵を描くつもりだから集中して言葉を発しなかった。 昼休み特有の喧騒がこの小部屋にいるおかげで遠く感じた。何だか非日常な空間に妙な錯覚を覚えそうになる。 何か話しても大丈夫か確認を取りたかったけれど、ミライさんがあまりにも真剣に描いていたから何も言えなかった。 鉛筆の音だけがする15分はとても長く、ミライさんが「……こんなもんかなぁ」と自分に呟くようにして一息をついた。 「キリハラ君、ありがとう。今日はとりあえずこのへんにしようか」 「もういいんですか」 「うん。短時間で正確に描く事が目的だから。やっぱり楽器と人物のバランスは難しいけれどね」 ミライさんはそう言って、また長い針金のようなものを掲げて、まるで推し量るように僕を片目で見た。 「それ、何ですか。長い針金みたいなの」 「え?ああ。これね計り棒って言って、モチーフの長さや大きさのバランスをこれで確認して描くの」 「この棒で分かるんですか?」 「慣れるとこれが結構役に立つのよ。ただの長い棒なんだけどね」 ユーレイさんと言われているし声もとても控えめだけれど、喋ると意外とフランクなところがあるのかもしれない。 なんだ、スガヤが心配していることなんかなさそうだ。むしろイメージに周りが振り回されてるんじゃないだろうか。 僕はこの流れに便乗して、本当は一番初めに彼女に聞きたかった事を尋ねてみた。 「……今更なんですけど、何で僕、だったんですか」 「え?」 「だってチェロ弾く男子生徒なんてうちの学校には沢山いるのに、どうしてだろうって。モリカワ先輩ともオケくらいしか共通がないし……」 するとミライさんはほんの少し思案した風にしてから、ぽつりと言った。 「……たまたま、かな」 僕はどうしてかちょっとだけショックだった。 いや、むしろモリカワ先輩の隣になったことが先生の計らいとはいえ、僕からしてもたまたまだったのだからしょうがないのだけれど。 しかしミライさんはそんな僕に気付いてか、自分の選んだ言葉が失言だったと思ったようで付け足した。 「たまたまっていうか……元々楽器を持つ男の子を描きたかったのは本当。だけど昨日、君が走って追い抜いて行ったから……」 「昨日?」 「そう、昨日の朝」 「……あ!」 僕は昨日の登校事を思い出した。 朝っぱらの春の嵐の中、僕とスガヤが追い抜いて行った学校の生徒の一人にどうやらミライさんがいたようだ。 ミライさんは昨日の事なのにどこか懐かしそうな目をした。 「強い風が朝から吹く中で、その大きなチェロを背中に揺らしながら走って行った君を、何となく頭で覚えてたの。そしたら昨日の新歓コンサートで自分の友達の隣に君がいた。すぐに、朝のあの子だって思った。……それで声をかけたの」 僕も昨日の朝を思い出す。 強く生ぬるい温度の東風を受けて、ミライさんが僕を頭の隅に止めてくれていた時間を。 僕は失態をやらかした友人のおかげでそれどころではなかったけれど、まさかその瞬間で僕が誰かの意識に置かれていたなんて思いもよらなかった。 けれどそれはとても嬉しいと思った。 本当に、たまたまないきさつだったけれど、少しショックだった僕の心はその説明で帳消しになった気がした。 ミライさんがどこか不安そうに微笑んだものだから、失言だなんて思って欲しくなかった僕は笑顔を作ってきちんをお礼を言うと、ミライさんは静かに微笑んでくれた。 どこか弱々しいそれに、心を掴まれるように見蕩れた僕がいた。 それからはお互い道具や楽器をしまいながら次の予定のことを聞いて、結局お互い5限の授業の都合もあるので、時間割を考慮したうえで曜日を固定して週3ほど協力する約束をした。
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