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* * * * * * *
ミライさんとのスケッチの時間は10分から15分程度で、その間何かを話したりするときもあればだんまりな時もあった。
モデルのポーズも最初は視線をどうすれば良いか戸惑っていたが次第に慣れて、じっとしている間にも頭の中では曲の暗譜や個人レッスンでさらった部分をおさらいしていた。
ミライさんの話によると彼女はどうやら高校からの編入組らしい。
うちの学校は3分の2がだいたい中学からの持ちあがりで、残りが外部受験の枠だった。
昔から絵を描く事が好きで、子供の頃は飼っていた猫をよく描いていたと話していた。
僕はミライさんと話すと毎回新鮮な気持ちになった。
美術科の友人がいなかったのもあるが、多分同じクラスだとしてもミライさんとはあまり関わらなかったかもしれないと思ったからだ。
そしてミライさんは今でこそこうして僕と話をしてくれているけれど、何となく教室では物静かに一人でいそうな気がした。
ミライさんはスケッチが慣れてきたのか1枚を仕上げるペースが速く、短時間で2枚ほど描くようになっていた。
点滅するようにくる視線は相変わらず僕を動けなくさせる。だから僕はミライさんと目を合わせないようにしていた。
日常の音が遠くに聴こえるこの白い部屋は、学校とは全くの別の空間に錯覚してしまいそうになる。
その日、ミライさんは珍しく「音楽、聴いていい?」と描きながら僕に尋ねた。
とくに何も思わなかったので「ミライさんが集中できるなら良いですよ」と答えると、ミライさんはその答えがはじめから分かっていたかのようにポケットからスマホを出した。おそらくミュージックアプリでも立ち上げてるのだろう。
操作が終わってケータイを立てかけると「私、これ好きなの」と言って音楽を再生にした。
彼女がかけた曲は、ドヴォルザークのスラヴ舞曲第10番だった。バイオリンとチェロのバージョンだ。
「これどこか物悲しそうだけど、少し身勝手にも聴こえて好きなの」
絡み合うようにバイオリンとチェロが響く。
音に引き寄せられたと思った次には、滑らかに踊りだす。
僕は何となく女性的というより男性からの視点のようだと捉えていた。
手を繋ぎながら絡ませながら近づいたり離れたりする様は、まるで実直なチェロが華やかで身勝手そうなバイオリンに恋をしているようだ。
時には跪いて愛を乞い、音の穴へと堕ちそうになるバイオリンの手首を引き上げる。
かと思えばバイオリンは自由に踊り出してまた離れていき叫ぶように高らかに歌い上げ、ときおり震えそうな声を奏でる。
何だか、今の僕には正直苦手な曲だと感じた。
もちろん美しい旋律だとは思う。
それでも何となく心に引っかかったのは、高みに登っていくバイオリンを見るだけしかできないような置き去りにされた気持ちになったからかもしれない。
「ミライさんはクラシックとか聴くんですか」
僕はふいに尋ねたくなった。
本当はそんなことを知りたかったわけではないのに何となく聞いていた。
ミライさんは手だけ動かしながら
「ううん。君のこと描かせてもらうようになってからチェロの曲を少し気にするようになっただけかな」
と、サラリと答えたので、僕としては何てリアクションしたらいいのか分からなくて少し気まずくなった。
「そもそもあんまり音楽って聴かないかも。とりたてて好きなアーティストがいるわけじゃないし。……でも知り合いによくクラシック聴く人がいるんだよね」
「それって彼氏ですか」
よくある質問のように聞くと、ミライさんは手をピタリと止めて僕を見た。
いつもの冷静そうな顔立ちがいくらか呆けている感じがして何だか幼く見えた。
けれどそれも一瞬で、ミライさんはクスクスと笑いだした。
「彼氏……じゃないけど、憧れてる人かなぁ」
「彼氏じゃないんですか」
「だってこの学校の先生だもの。内緒ね」
「…………」
「私ね、ここの学校にはその人追いかけてきたの。私が小さい頃通ってた絵画教室で、講師のバイトしてた藝大生のおにーさん。今はここの美術の先生」
「……それって……」
「それが周りにどう誤解されてるのか知らないけど、私のは単なる一方通行。ただの憧れだから、恋愛とは違うけどね」
本当に?
そう聞いてみたかったけれどミライさんが「じゃあ今日はこのへんにしよっか」と言ったので、僕はそれに頷くしかなかった。
午後の授業でも僕はミライさんにした質問を思い出しては後悔していた。
僕はどうしてあんなことを口走ってしまったのだろう。
もちろん純粋な質問だったのは本当だ。でもよくあんな不躾な事を聞けたと思う。
おかげで授業の出来も散々だった僕は、先生から曲を楽譜におこす聴音(ソルフェージュ)の課題を放課後居残りでするようにと言い渡されてしまう羽目になった。
課題を音楽科の教務室へ出す際にも先生に少し注意を受けた。
もちろん今日の上の空はもちろん、最近の実技の面でもそれとなく上手くこなしてはいるけれど気持ちがどこか乗っていないのがバレていた。
けれど先生からすると沢山の生徒を見てきている経験からかよくある事のようで、スランプの原因の気持ちを突き止めて向き合うようにと、やんわりアドバイスされるだけで終わったのでホッとした。
教務室を退室するため、先生に一度礼をしてドアへと体を向けると、ちょうど廊下からノックする音が聴こえた。
先生は来訪者を知っていたかのように「入りなさい」と声をかけると、「失礼します」と女の子の声がした。
入ってきた人を見て僕は驚いた。そして向こうも。
何故なら兄の彼女のフユカさんだったからだ。
「あれ?ゲンくん久しぶり」
「お久しぶりです。あれ、どうしたんですか」
フユカさんは地元の音大の4年生で、ピアノを専攻している。
少し久々に会った彼女は、雑誌にでてきていそうな品の良いお姉さんみたいな装いだった。
少し癖っ毛の栗色の髪は胸元で綺麗にカールしている。
雪うさぎのようなほんわりとした人懐っこい笑顔は相変わらずだ。
先生は「なんだ、キリハラも知り合いなのか」と笑うとフユカさんは「先生もとっくに知ってるくせに~」と、間接的に僕の兄の彼女である事を言っていた。
「実は大学の教職課程の関係で、夏休みの間だけ講師補助をさせてもらうためにご挨拶と書類を提出しに母校に来たんだ」
「そうなんだ」
「ねぇ、ゲンくん良かったらちょっと待っててよ。せっかくだから帰りくらいお茶しようよ」
「なんだなんだ、兄貴をさしおいて女子大生とデートかキリハラ」
「先生、逆よ逆。私が男子高生ナンパしてんの」
分かりきった冗談にみんなして笑う。
僕はせっかくだからフユカさんの提案に乗って、一緒に帰る事にした。居残りも悪い事ばかりじゃないなと初めて思った。
* * * * * * *
フユカさんとは家の方向が反対なので学校で使う最寄駅の傍にあるファストフードの店で話す事にした。
サンドイッチチェーンのお店なので、僕がドリンクの他にスモークサーモンとクリームチーズのバケットサンドを頼むとフユカさんは「えー、夕飯食べれなくなっちゃうよ」と言いつつも自分もしっかり同じものを頼んでいた。
何だかんだ集中して授業を受けたりするとどうしてもお腹がすいてしまうよねと、お互い笑いあった。
店内には意外にも学生が多くウォークマンを聴きながら勉強したり、または何時間もそこにいるであろう主婦の人がぺちゃくちゃと話をしている中で、僕たちはわりと静かそうな人の近くを選んでようやく腰を落ち着かせた。
二人してむしゃむしゃと食べながら、ここのサンドイッチのこれは本当に美味しいよねだとか、さっきの教務の先生はちょっと意地悪なところがあったりするよねとか、フユカさんたちの頃の新歓オケの話とか他愛もないことを話す。
僕は男女とかそういう意味ではなく、純粋にフユカさんが好きだ。
初めて会った時からとても感じのよい人で、そういう人が僕の兄の恋人になってくれて良かったし、兄とは遠距離恋愛だけれどちゃんと付き合い続けてくれてありがたいと思っている。
このままいったら兄と結婚するんだろうか。
そうなったらいいなと実はうちの母も言っていたけれど、まだ若いしプレッシャーになるだろうからとその事は黙っておいた。
ひとしきりくだらない話をして落ち着くと、静かな時間がおとずれた。
「僕、実は今、美術科の人のスケッチモデルをやってるんです」
「そうなの?ゲン君、顔可愛いしそれはぴったりそうな話だね」
何となく、話したくなった。
スケッチモデルのこと、それと今の僕のことを。
「フユカさんは、何のために音楽をやってるんだろうって考えた事ってありますか」
唐突な質問にフユカさんは目を丸くした。
そして「うーん」と困ったように小さく唸る。しばらく考えた後できっぱり言った。
「ない、かな」
「ですよね……」
「多分あったのかもしれないけれど、きっと考えたのも一瞬過ぎて忘れちゃってるだけかもしれないけれど。私はおばあちゃんが小学校の音楽教師だったし、気がつけばずっと傍にあったものだから取り立てて考えた事もなかったな。……この音楽のレールに乗っているのが自分の中では普通になっていたことだから。……ゲン君、音楽嫌いになった?」
「いや、そういうわけじゃないです。好きですよ。弾いててすごく楽しい……いや、楽しかったって感じかも」
「過去形?」
「うーん、嫌いとか練習したくないとかじゃないんです。ただ、気持ちが乗っからないっていうか……先生にはスランプって言われちゃいました」
「チェロ教室の先生からは何か言われてる?」
「うーん、僕の師事してる先生はそこんとこあんまり突っ込まないからなぁ。曲へ気持ちの持って行き方は言うけど、メンタルって言うのとは少し違うし」
僕は気持ちの行き先が定まらず、話しながらストローの抜け殻の紙筒を指先で結んだりして遊ぶ。
するとフユカさんも、飲んでいるカフェオレに入れたシュガーの紙筒を同じようにして遊んだ。
そして懐かしそうにしてぽつりと微笑んで語り始めた。
「ちょうどゲン君と同じころにね、リツ君も同じようなことがあったよ」
「兄ちゃんが?あの?超生真面目な完璧人間が??」
「君ぃ~今度それリツ君に言ってみなよ。私が面白いから」
「フユカさん!」
「あははは。多分、超真面目な完璧人間だからだと思うよ。まぁリツ君の場合はスギタ君っていう壁が目の前にずっとあったからね。1年の時から」
僕は自分に置き換えた。
けれどどう考えてもスギタ君のような超天才型の弾き手は自分の周りにはいないと思えた。
するとフユカさんは僕の気持ちを察してどんぴしゃりを当てた。
「逆にゲン君は、目の前の壁がないからじゃない?それはそれで悩みもんだよね」
当てられた答えに、ぐうの音も出なさ過ぎて僕は何も言えなかった。
そんな僕を見て一息ついたフユカさんは教えてくれた。
自分の中の音を新たに模索して、今の自分を超えるっていうのは、どんな感情でも燃料にしなきゃいけない。
それは上手くなりたいっていう純粋な自己対面の場合もあるし、人より上手くなりたいっていう比較や嫉妬がバネになる場合もある。
多分リツ君は後者で、私は前者。
あとは……スギタ君と私の友達のユアちゃんは両方かな。
あれはお互いを嫉妬してる部分もあるから、あの二人はトクベツかも。
それでも、それだけじゃやっぱり音楽ってだめなんだよ。
心のものだから。
聴いている誰かがいないと成り立たないから、結局は自分と、他者ありきのもので昔から存在してきたのが音楽だと思うのね。
だから一番の解決策って『誰かに届けたい、聴かせたい』って“想い”のような気がする。
……ざっくり言うと、きっとそれって“恋”みたいなものだよね。
フユカさんはそう言うと、明るく微笑んだ。ミライさんとは正反対の微笑み方だった。
フユカさんのが、まわりを温かく包み込んで春にさせる笑顔なら、ミライさんは冬の雪が一滴、一滴、ぽたぽたと融けていくようなそんな感じ。
僕は、じゃあまだ恋をしていない状態なんだろうかと思った。
届けたい、聴かせたい、そんな風に思った事がなかったから。
それなのに、どうして今、フユカさんの笑顔とミライさんの笑顔を心の中で比べてしまったのか分からなかった。
「ゲン君は、届けたい人がまだいないのかな。本当に?」
「考えた事ない、です」
「そうかなぁ。そういう風に考え始めてるってことは、何かそういう悩みがあるのかなって思っちゃった」
僕は曖昧に笑い返す。
スケッチモデルの描き手だってそれが女の先輩だなんて僕は一言も言っていない。
けれどフユカさんは何となく気づいていそうだと思った。
フユカさんと店を後にし、駅の改札コンコースで別れることにした。
電車を見るとお互いの電車が来るまでほんの少しだけ時間があった。
「夏の定期演奏会、行けたら観に行くね」
「また連絡します。その頃には兄ちゃんも帰ってくるとちょうどいいんだけどなぁ」
「リツ君も傍らでやってる楽団の指揮者枠、そのまま狙ってるみたいだけど多分院でみっちりやりたいって言ってたからご両親の説得に近いうち帰ってくると思うよ」
「えっ、そうなの。指揮科に入った時はまさかと思ったけど……ピアノもできるしバイオリンもできるし我が兄ながらクソ真面目だね」
「でも本当は高校の頃からずっとシンフォニーやりたかったみたい。好きな曲もシンフォニー寄りだしね」
「うちの両親そういうとこ寛大だからなぁ。遠いけどお祖父ちゃんも現役で医者やってるし、うちの大人ますます喜んじゃいそう」
「あははは。一番のスポンサーが身内ってキリハラ家はすごいよ。ウチなんて普通の一般家庭だから羨ましい」
こういうあけすけな事情もフユカさんだからこそ話せると思った。
すると僕の乗る都心方面の電車がくるアナウンスが構内に響いた。
今度こそフユカさんに「じゃあ」と告げて歩きかけた僕にフユカさんは、本当にさらりと言った。
「ゲン君は、もう好きになってるのかもしれないね」
「えっ?」
「んー、何となく?スケッチの人のこと。頑張ってごらんよ」
「…………」
「ほら、電車もう来ちゃうから急いで。ご家族にもよろしくね。じゃあね」
「あっ、はい」
まるで最後は煙に巻かれたようにうやむやにされてしまった。
多分兄はいつもフユカさんの手のひらにいるに違いない。
それを気付かせないくらいにちょうどよい距離を保ってくれているフユカさんが、僕はやっぱり好きだと思った。
電車に乗って見えなくなるまで、フユカさんは陽だまりのような笑顔で僕に手を振り続けていた。
僕は、フユカさんと話した日からミライさんの事を考えていた。
レッスンで弾いている時も、スケッチしている時の彼女が浮かんでいた。
いや、心に浮き出てきたと言うほうが正しいかもしれない。
これは恋なんだろうか。
それだったら心なんて単純すぎやしないか。
会話だって頻繁にしているわけではないし、そもそもミライさんには好きな人がいる。
相手は学校の先生だし、僕だってそれを聞いた時に「ふーん」と内心思っただけのはずだ。
突然お願いされ、小さな空間に二人きりの15分間。
それを何回か繰り返しただけなのに、気になるようになるなんて恋というのはこんなに単純なものなんだろうか。
それでもどんなに練習を重ねても、絵に向かう彼女の視線は僕の頭から離れなかった。
* * * * * * *
その日はスケッチの約束をしていない曜日だったのに、僕は自分の気持ちをどこかで確かめたくて何となくスケッチの部屋にいった。
もちろん行ったところで鍵なんか開いているわけがないしミライさんにも会えるわけがないと分かっている。
それでも足は向かっていた。
すると、開いていないはずの部屋から人の話し声が聴こえた。
男女が談笑する声だった。
クスクスと、鈴のこぼれるような密やかな笑い声は今の僕がよく知っているものだ。
しかしもう一人は?
落ち着いた穏やかな、大人の男の声だった。
「15分スケッチのわりにはどれも描けてるじゃないか」
「今はざっとだけど2枚描けるようになりましたよ、ほら」
「うーん、でもこれはちょっと雑すぎやしないか」
「でもデッサンは狂ってないはずですけど」
ミライさんの声は明るい。
それだけで、何にもないと言ったけれどミライさんにとっては何でもなくはない事が分かるほどに。
僕は思いきってノックしドアを開けた。すると二人が少し驚いて僕を見た。
ミライさんの白い頬はいつもと違って嬉しそうに上気していた。
二人とも、手には僕が描かれたスケッチを持っていて、二人の体は近すぎもせず遠くもなかった。
どこからどう見てもただの教師と生徒の距離だ。
そしてその距離の分だけ、おそらく先生にとっても気持ちの上ではそうなんだろうとも。
僕は、「ミライさんの声が聞こえたので、いるのかと思って」と、自分でも何となく白々しいと思いながら先生に会釈をする。
ミライさんは慌てたように先生に僕を紹介すると、先生は「見れば分かるよ。モデルの子でしょ」と何でもないように僕とミライさんに笑いかけた。
とても爽やかだった。
この人がミライさんの片想いの相手なんだ。
線の細い、若いお兄さんのようだった。
左手の薬指にはシンプルなシルバーリング。
白いシャツと動きやすそうなベージュのズボン。
髪はセットしているんだろうけれど寝癖っぽくて、メガネの奥の瞳は穏やかだった。
見るからにマジメで、いい人そうだった。
ミライさんが「おにーさん」と言った事が分かるくらいに。
この人は、この人が着ている、洗いざらしの白い麻のシャツそのもののような存在だと感じた。
僕は先生へにこやかに表情を返しながら、頭の隅でおちゃらけた友人のアドバイスを思い出していた。
そして、それはもう意味がない、と悟った。
ミライさんは決して自分には向かないこの人の心を欲しいと思っている。
人を好きになると言う事は苦しい事なんだ。
ましてや自分に向かない心を好きでい続けてしまうことって、自分にとって一番残酷な行為だ。
けれどそれをミライさんは分かってやっている。
はたしてこの二人の仲は、「誰かが見た」という「みんなの噂話」のどこまでが本当で、どこからがミライさんの主張する「嘘の噂」なのかわからない。
そしてこの、人の良さそうな先生が、どのくらいミライさんの本心に気付いているのかも。
スガヤ、ごめん。
お前のアドバイス、本物知ったら全然意味がないや。
だってそんなの、本物の気持ちの前には全く歯が立たない。立つわけがない。
こんな感情は初めてなんだ。
彼女の心を、目の前のこの人でなく、僕に惹き付けたいと思った。
あの点滅するたびに射るような瞳を、先生でなく僕に向けて欲しいと思った。
それならば、僕が出来る事はミライさんに気付いてもらうしかない。
この想いを伝えるために、飛ばすために弾くしかない。
自分の気持ちを疑いながら弾き続けるより、ぶつけて弾いた方がずっと楽だ。
自分の気持ちをただぶつけているだけだとしても、少しでも僕の事を見てくれるかもしれないチャンスがあるのなら、それでもいい。
「君は音楽科のキリハラ君だよね。音楽科の先生が君の事よく褒めてるから職員室でも有名だよ」
「そうなんだ。考えたらオケに選ばれるくらいだもの、すごいに決まってるよね」
先生は同僚教師の情報で、前から僕の事を知っていたらしい。
でも逆にそれがありがたいと思った。
知られているほうが何となくフェアな気がしたからだ。
「ミライさん、今度のコンクール。よければ聴きに来てください」
ミライさんが先生の事を想うように、僕もミライさんを想いはじめている。
自分の音を人に届けたいと想う初めての相手が、ミライさんだなんて思いもよらなかったけれど、想いも寄らない事だからこそその中で見つけた僕だけの音は違う高みへと登らせて行ってくれるのかもしれない。
僕の気持ちがざわめきだす。
まるであの朝に吹いた強い風のように。
蹴散らすのは、自分の中にくすぶっていた雑念だ。
もう自分の気持ちに置いてきぼりにされてなるものかと思った。
どんな不純な理由だとしても、誰かの為の音楽を弾く。
それがこの恋に対する僕の唯一の武器だ。
ミライさんは僕の気持ちに気付かないまま、微笑みながら頷いてくれた。
その微笑みは美しく儚かったけれど、僕はそれに見蕩れていた。
早くこの人の心を僕に向かせたいと、強く思いながら。
( 風が吹くとき、恋に落ちた。その後は嵐になると知りもしないで。 )
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