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あの日から、雨の日は続いた。
なぜならそのまま梅雨入りしたからだ。そしてあれから彼は出勤前に毎回寄ってくれるようになった。
梅雨の晴れ間の日もあったけれど、不思議な事に雨の日こそ帰りの時間帯が合う事が多かった。
もちろん私の様子に気付かないわけがないツゲさんや店長だったけれど、にんまりしながらもそっとしておいてくれた。
そして、上がる時間が何となく近そうな時は、お互い約束したわけでもないのにコーヒーを飲んで待ったりした。
ソウスケ君は、意外にも私より2歳年上だった。学生時代に空手をしていて、それを活かせる職業を考えて警備会社に入ったらしい。
私はただコーヒーやカフェの空間が好きだと言うだけで働いていたので、何となく自分を恥じると彼は「イラストのスキルで充分すごいです。それで接客もできるんだからますますすごいですよ」と優しい事を言ってくれた。
会話の内容は最初話した時とあまり変わりもせず、進展もしないままだった。
知りたいけれど、気恥かしさで何となく聞けなかったり、黙っていた。
それでもその沈黙は気まずいものではなかった。逆に根掘り葉掘り聞くことでこの心地よさを壊してしまうのが怖かった。
そんなある日。
いつものように彼が仕事上がりにやってきた。今日は早番だったのか夕方上がりのようだった。
私は今日は遅番なので帰りの時間は合わないなと思いながら、ドリンクカウンターで作業をしながらいつもどおりに挨拶すると、目が合った彼はなんだか少し元気がなさそうに微笑んだ。
仕事で落ち込む事があったのだろうか。
聞いてみたかったけれど今日のカウンターはツゲさんと大学生バイトの子で、私は受け渡しカウンターでドリンク補助にいた。
時間帯と混雑具合によってカウンターからドリンクまで担当したりするけれど、客入りが多く慌ただしい時間帯はこうして担当を分業したりする。もちろんドリンク補助は私だけでなく他のスタッフもいる。
今はドリンクにいるけど、仕事としてはホールのテーブル掃除や、コーヒーにお好みで入れる砂糖やミルク、シナモンなどのスティック類が置いてあるセルフコーナーの補充もしなければならない。
何とかして元気のない彼に少しでも一言かけたくて、見計らってこっそり別の仕事をすることにした。
コンディメントバーと言われるセルフコーナーの補充に入る事を他スタッフに告げ、すんなりとその作業に入る。
店内が混んでいるからか、彼はテイクアウトにしたらしい。
コーヒーが出来上がると、彼がやってきた。やっぱり何となく、元気がない気がした。
「いらっしゃいませ」
挨拶をすると、彼は曖昧に微笑んでから、私に告げた。
「急な配属替えで、異動になりました」
「え……」
咄嗟のことで上手く返せずに声が漏れただけだった。
思わず手が止まった私に、彼が申し訳なさそうにした。
「……すみません」
「いえ……まぁ、仕事、です……し」
「何となく、言いづらくて。……言おうと思ったんですけど……なんでか言えなくて」
「……急……なんですよね……しょうがないですよ。……いつからですか」
「実は、今日が最後だったんです」
あまりにも突然すぎて、私の頭はますます真っ白になった。
つまり、ああいう時間を「偶然」として一緒に過ごすことはもう出来ないということ……?
それでも何か言わなければと思いつつ、これからのことを聞けるほどの余裕がなかった。
息を吸い込んだら、ひきつるようにして空気が入ってきた。
「……教えてくださってありがとうございます」
「はい、それで……」
「……今まで、ありがとうございました……新しいところ、応援していますね」
だって、私が言えることなんて店員としてはこれだけしかない。
むしろお客様からこんな風に言ってもらえるなんて、お店に親しんでもらえていた証拠だから嬉しい事じゃない。
だから店員としてお礼を言わなきゃいけないし、応援してあげるのは当たり前だ。
なのに……。
それなのに、どうして目の前のソウスケ君は、私の言葉に『傷ついた』みたいな顔をしているんだろう。
そんな顔、しないでほしかった。……―― じゃあ何て言ったら正解だったの?
彼は、私の言葉にゆっくりと、頷いた。
「……はい……」
「あの、やっぱり……」
「仕事中なのに、すみませんでした」
彼は、深くお辞儀をした。そしてすぐに頭をあげて、踵を返す。だんだんと私と開いて行く距離。
新しく来たお客さんと入れ替わるようにして彼は出て行った。外は今日も雨だった。
……―― わたし、今何て言おうとしたの? 「やっぱり」、何?
それでも何で手は、固く握ったままだったの。彼を引き留めなかったの。
だって業務中だし。ちょうど忙しい時間帯だし。
ホントなら補充も掃除も手早くやらないといけないし。
『そんなこと言わないで。』
本当だったらそう口にしたかった。 でも、できなかった。
だって、私たちは……何にも関係性に名前がついてないんだもの。
ただの「店員」と「お客さん」だもの。
……今だって業務中だ。
私はもう一度握りこぶしに力を入れると、再びストローやシュガーの補充を続けた。
何となく動きがぎこちなくなったのが自分でも分かる。指先はかすかに震えていた。
ツゲさんは横目で私たちの様子を少し見ていたのか、またいつもと違うと感じとったらしく少しだけ気にしてくれているようだった。
補充を終えると、空席のテーブルに残されたままのトレ―類を片づける。
動揺している頭と心を誤魔化すみたいに無理やり手を動かしていると、不意に目が覚めるような感覚がおとずれた。
あの時の曲だった。もう一度聴きたかった曲。
……何で、よりによって今かかるのか分からない。偶然にもほどがある。
チェロとピアノの、明るく綺麗な音楽がBGMで流れていた。
私はなんで、何も言えなかったんだろうか。
ひょっとしたら、私がもっと別の言葉を言うんじゃないかって、彼はどこかで期待してくれてたんじゃないだろうか。
だから私にわざわざ言いに来てくれたんじゃないの?
でも、違うかもしれない。自信が持てない。
だってただのお客さんだし。
いいなとは思っても、好きって言っているわけじゃないし。
でも……だって……でも……でも……。
「あ、オレこの曲すごく好き」
「あぁ、ブラームスだっけ。これいいよな」
「『雨の歌』なだけにまさにタイムリー」
「だな。ゲン、今度ピアノ科のツヅキさんとこれやんなよ」
「えー?ツヅキさん怖くないか?……オレ、ぶっちゃけ苦手……睨まれるし」
「ツヅキさんお前の事が好きなんだって」
「それはない。ホントに俺に風当たり何故か強いし。余計やりづらいって」
藝大に通っているであろう、男子大学生の何気ない会話だった。
奥の席にいる二人は、大きなチェロケースをすみっこに立てかけていた。テーブルにはコーヒーと一緒に楽譜を広げている。
そうなんだ。この曲、「雨の歌」っていうんだ。
……「雨の歌」という単語は、もう私を動かすに充分すぎるスイッチだった。
私は片づける手を止め、すぐにトレ―を返却口に返しに行くとそのまま走り出した。
ツゲさんや他のバイトの子が驚いたように「カエデさん!?」と呼び止めたけれど、自分を止めることはもうできなかった。
上に報告されても、たくさん謝ればいい。ペナルティ課されたって土下座したってかまわない。
だって今走り出さないと、きっと私後悔する。
走りながら降りしきる雨の中で考える。
あぁ、私、やっぱり間抜けだなぁ。
ふきんもトレ―と一緒に返しちゃえばいいのに、なんで握りながら走ってるんだろう。
それでも、はやくあの背中を見たくてたまらなかった。足元の水がはねて靴が汚れても全然平気だった。
気がついた時にはもうとっくに気持ちは走り出していたのに。
あいたい。あいたい。雨の日じゃなくても会いたい。
もっとあの人の顔が見たい。
もう会えないなんて嫌だ。
彼の笑顔を見るたびに、驟雨のように感情が降り注いでいた。
心の内から湧き上がった想いが空に上がって、また自分へと降り注がれているみたいだった。
平然をどんなに装っていても、一目するだけでたちまちに降りはじめてやまない。
やんだとしても余韻はずっと残っていて、雨上がりに立ち込める空気みたいに私の心に染み込んだまま。
……とっくに恋になってたのに。
大人になって一目惚れだなんて信じられないけど、ずっと気になってた。
はじめから言いたかった。
「ソウスケくん!!待って!!」
雨の中、カフェ店員が傘もささずに走っている姿が人の目をひくのは分かっていた。
当然、振り向いたソウスケくんはものすごく驚いた顔をしていた。
「カエデちゃん!?」
ソウスケくんに追いついて彼の前へと出る。すると雨に濡れた私に、慌てて傘を差し出してくれた。
そんなに差し出したらソウスケ君の背中が濡れてしまう、と思い一旦身を引くと一緒に傘もずらしてきたので私は素直に受け入れる事にした。こんな至近距離はじめてだった。
彼の顔は「どうしたの!?」と言わんばかりに驚いたままだ。でもさっきの元気のない顔よりずっと良いと思った。
私は息が落ち着くのを待たずに、彼に言った。
「雨の日だと……!……あなたが来てくれるんじゃないかって、どこかで期待してたんです……!ほんとは雨なんて大嫌いなのに……なのに、雨が降ってほしいって、そればかり思ってたんです……ずっと!」
息が切れて言葉に出すのは苦しかったけれど、一旦外に出た気持ちは溢れて止まらなかった。まだまだ言いたい事はたくさんあった。
「あなたはただのお客さんで来てくれてるだけっていうのも分かってるんです。……私も元々お客さんと必要以上の会話をしないってしてたけど……なのに……会いたくなるなんて、変ですか?……迷惑って分かってます。でも……会えなくなるの、さみしいです」
ここまで言っておきながら、「好き」の一言が言えない自分が情けなかった。
たまらずに俯くと、はがゆさに涙がにじんできた。
勝手に舞い上がって、業務中なのに雨に濡れながら追いかけて、勝手な事言って……。
しかもふきんまで持ってるなんて、彼からしたら訳が分からないに決まってる。
恥ずかしさが今になってこみあげてきていると、俯く私の上から彼が優しい声がふった。
「……雨の日に受け取るカップのコメント……正直元気づけられてたんです。いつも。……それと、どんな人なんだろうって。……だから、あの日」
顔を上げると、いつもの柔らかい笑顔がそこにあった。少し照れくさそうにしながらも、彼は続けた。
「だからあの日。最初の大雨の日。イチかバチかで声をかけたんです。気になってたから」
信じられなさに、目がチカチカしそうだった。初めてちゃんと話した時の事が一瞬にして駈け廻る。
私たちの距離は、もうとっくに近づいていた。
「……ほんとに?」
「うん。ほんと」
「……でも、私の方が先に気になってました」
「いや、多分ぼくのが前です」
「そんなことない。私の方が絶対に先です」
お互い、同じタイミングでふき出した。まるであの電車の時みたいに。
内緒ごとのように二人でクスクス笑い合った後に彼は、私の大好きないつもの目が細くなるような笑顔で、優しく言った。
「……今度、映画でも行きませんか。……休みが合った晴れの日にでも」
「曇りでも雷でも!……私、いつでも平気です!行きたいです!」
ぐっと近づくと、すっかり相合傘だ。
好きだとお互い言ったわけではない。でも、この今じゃなくても良い。
だって今日はたぶん「はじまりの日」だから。
あの日の感覚が蘇る。
彼の笑顔とあの雨とコーヒーの薫り。チェロとピアノの「雨の歌」。
それからお互い、何も言わずに瞳がかち合い、揺れた。
雨の湿った空気の中だけど、彼の頬に出ている熱が伝わってきそうな気がした。
( お客様へ大事な忘れ物を届けに行ったみたい。 )
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