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 北海道の南、渡島(おしま)半島の南東部に位置する函館(はこだて)市。  幕末に開港されて以来、いち早く西洋文化が流入した港町で、日本有数の観光地でもある。  俺、相坂(あいさか)(なぎ)はこの地で生まれ育った。  函館山からの夜景も函館港の異国情緒あふれる風景も、二十年間も見続ければ当然新鮮味は薄れてしまう。しかしこのどことなく香る潮の匂いだけはいつまで経っても好きだった。たまに内陸へ旅行すれば猶更そう思う。  大学二回生の夏休み。八月も終わりに近づくころ。  サークル仲間との飲み会の帰り道。ほどよく酔いのまわっていた俺は、このまま家へ直帰するのも惜しいような気がして、いい気分のまま途中の駅で市電を降りた。  平日ではあったが周囲にはちらほらと観光客らしき人々の姿が見える。市電の駅から函館山の麓へ向かって坂道が続いており、教会群や明治期に建てられた洋風の建造物が並ぶこの一帯は、函館でも特に観光客に人気のスポットの一つであった。  観光客の合間を縫って、火照った身体を夜風に当てながら特に何の目的もなく。人の流れは函館山山頂行きのロープウェイ乗り場に向かっているように見えた。辺りも随分と暗くなり、そろそろ夜景が見ごろの時間帯である。  最後に夜景を見に山へ登ったのはいつだっただろうか。中学生の頃に友人たちと一緒に行ったのが最後だったような気がする。ずっとこの地に住んでいれば、わざわざ見に行こうという気力も湧かなくなるというもので、俺の周りを歩いている観光客の方が余程ここら一帯のことに詳しいのだろうと思う。  そんなことを考えながら、旧公会堂の真下に広がる公園へと足を踏み入れた。明治期に建設された公会堂は今では内部の一般公開が行われているのだが、もう夕方までの公開時間は終わってしまって、公園にも人影は少なくなりつつあった。  そんな中、ベンチに腰掛けてただまっすぐに正面を見つめる青年の姿が目に入った。  年は俺と同じ大学生ぐらい、高校を卒業後早々に茶髪にしてしまった俺とは違って黒髪の青年だった。遠目からも分かるほどに身体のシルエットが細いのが妙に印象的だった。  俺は彼に近づいた。普段であればそんなことはしない。しかし今日は酔いのせいか、なんだか気分が良かったのだ。そして彼の容姿や雰囲気が、率直に言って俺の好みだったせいもある。 「何を見てんの?」  急に酔っ払いに絡まれた不幸な彼は、驚くでもなく淡々と「海」と返した。俺も視線を正面へと向ける。坂の上のこの公園からは、函館港へと続く街の風景を一望することができるのだった。 「俺の地元にも海があるんだ。港町ってどこを見ても同じ懐かしさがある。不思議だよな」  青年は淡々と話し始めた。まだ彼は俺の方を一瞥もしていない。  ベンチの隣が空いていたので腰を下ろしてみると、彼はようやくこちらを向いた。 「何?」 「綺麗な子だなって」 「ナンパ? 酔ってます? 俺男だよ」  彼はおかしそうに笑っている。こんな迷惑な人間に優しすぎる対応だ。 「どこから来たの?」 「尾道(おのみち)」 「尾道?」 「広島の」 「鳥居とドームのとこか」 「鳥居とドームよりずっと東の方。岡山に近いところ」  酔いで頭が回らず適当を言う俺に対して、彼はまた淡々と答えていく。 「遠くから来たんだな」 「飛行機乗ると意外とすぐだよ。俺には札幌から函館まで来る方がよっぽど遠くに感じたけど」 「札幌行ってきたの?」 「広島から新千歳まで飛んで、札幌や小樽見て回ってから昨日電車でこっち来た」 「札幌からなんて特急でも四時間近くかかっただろ」 「うん。何でまだ新幹線通ってないんだよ」 「それはこっちが聞きたいよ。いいよなぁ本土の人間は」  参った顔をする俺に、彼はくすくすといたずらっぽく笑った。  街灯の灯りが彼の目の下に睫毛の影を作っている。色素の薄い唇の端が微かに持ち上がり、細い首に喉仏がくっきりと動いた。  俺はもうすでにこの青年から目を離すことができなくなっていた。
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