君の好きなキスを教えて

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「おい、菜華。冷蔵庫の中ほとんど空じゃん」  飯食おう、なんて言いながら突然家に蒼汰がやってきた時点でちょっと嫌な予感がしていたけど、案の定、冷蔵庫を開ける音と一緒にそんな呆れた声が聞こえてきた。  蒼汰は大学の時の陸上部のチームメイトで、大学を卒業してからも就職先が近かったりして腐れ縁みたいなものが続いている。どのくらい腐ってるかといえば、こうやって家に蒼汰がやってきても、どちらも平然と過ごしているくらいには。 「どうせ会社の食堂で昼も夜も食べてるし。ちゃんとお酒を冷やすって使い道はあるから」 「アスリートとしてその発言はどうなのさ」  何も取り出すことなく冷蔵庫の扉を閉めた蒼汰の顔には苦笑が浮かんでいる。蒼汰の言葉はその通りなのだけど、そのままうなずくのも癪だった。何か言い返したいけど、いい言葉が浮かんでこない。 「アスリートっていっても、実業団とか入ってるわけじゃないし」  結局口から出てきたのは、そんな子供っぽい言い訳だった。大学の時はそこそこ走れる選手だったけど、実業団にスカウトされることはなく、普通の会社に入社して仕事の後や休日にクラブチームのようなところで練習を続けている。別にプロじゃないから、と続けようとして、上手く声にならなかった。 「俺は大学卒業してから全然走ってないよ」  蒼汰は大学卒業後、栄養士の資格を取って働いている。蒼汰だって学生時代は決勝くらいまでは常連だったのに、今は仕事が忙しいみたいで休みの日に少しジョグをするくらいとなっていた。  勿体ないって私の方が残念がっていたら、「学生のころまでは周りの人に支えてもらってやってきたから、今度は支える側に回りたいんだ」なんて笑うから、それ以降は何も言わないようにしている。  蒼汰の志はすごいと思う。けれど一方で、大学の頃も家が近所だったからジョグなんかを一緒にやることも多くて、蒼汰の習慣の変化に私は半身を持っていかれたようになってしまった。  そんな風に感じることが驚きで、蒼汰には夢に向かって頑張ってほしいような、もう少し肩の力を抜いてもう少し走ってもいいじゃんと拗ねたくなるような。 「だから、今もちゃんと走ってる菜華はすごいと思うし、ちゃんとアスリートだよ」  私の苦し紛れの言い訳にも蒼汰はすごい真面目に返してきて、いよいよこちらから打ち返す言葉がなくなってしまう。昔からそうだ、蒼汰は悪気なさそうな顔でそんなことを言う。そんなことを無邪気に言うくせに、こうやって無防備に私の家に来るくせに、いつだってどこかで一線引いている。  胸につかえたものを全て吐き出すように、ふっと息を吐く。 「どうする。どっか外に食べに行く?」  一線を引かれたところから動きがないのは、こうやって踏み込まずに話題をそらしてしまう私もいけないんだろうか。  でも結局話題を変えてしまってふと思う。冷静に考えて、突然来て「晩飯食おー」なんて言い出す蒼汰が悪い。その手に持ってるスマホはただの飾りかと言いたくなってくる。来るってわかっていれば、もう少し食材だって揃えてたのに。 「こんなことだろうと思って、色々買ってきたんだ」  そう言うと蒼汰は後ろ手に持っていた買い物袋を取り出した。黒いエコバッグだから中身は見えないけど、結構ぎっしり詰まっている気配がする。なんかチクリと痛いことを言われたような気がしたけど、そこは聞き流すことにした。 「うわ、どれだけ作るつもりなの?」 「今日の晩飯と、日持ちしそうなものを何品か、かな。社食ならそんなに栄養のバランスは悪くないんだろうけど、アスリート向けってわけでもないだろうし」  蒼汰がエコバッグの口を広げて見せる。鶏肉や野菜が所狭しと詰まっていた。「そんなことしてもらうの悪いよ」という気持ちと、おいしい料理がストックされる欲望がせめぎあう――ほどでもなく、あっさりと欲望が打ち勝った。だって、食堂と比べても蒼汰の料理はおいしい。 「なら、何か手伝おうか?」  せめてと思ってみたけど、エコバッグをキッチンに運んだ蒼汰はヒラヒラと手を振る。 「いいよ。お客さんはゆっくりしてて」 「ここ、私の部屋なんだけど」  立ち上がりかけた私を蒼汰はまあまあと笑って押しとどめて、結局そのままなんとなくリビングにもう一度腰を下ろす。キッチンの方からは蒼汰の鼻歌なんかが聞こえてきて、どんな料理が出来上がるのかワクワクしてくる。  学生の時から蒼汰は料理がうまかったけど、栄養士を目指してから味と栄養のバランスが整って、味もさらに深みが出てきてなんか最強になった。聞き慣れた蒼汰の鼻歌は、胃袋を握られている証でもある。 「まずは定番のささみかなあ」  そんなことを言いながらキッチンに立つ蒼汰の姿は、見慣れた生活のワンシーンのようになっていて。  だから、ふと蒼汰がいなくなったらということを考えてしまう。私たちはただの腐れ縁で、蒼汰はどこか一線を引いていて、いついなくなったってわからない。そうなったら料理が食べられないとかってだけじゃなくて、残ったもう半分の体まで失った気分になってしまいそうで。 「蒼汰、やっぱり手伝う」  せめてただ飯食らいみたいに思われないようにと立ち上がってみる。蒼汰のクオリティを知っているせいでつい自炊はさぼりがちだけど、一応下ごしらえくらいだったら手伝えるはず。  キッチンに向かうと、フライパンから炒めた鶏肉を皿に移した蒼汰が私を見て、何かをひらめいたようにパッと笑った。 「じゃあさ、知恵を貸して」 「知恵?」  蒼汰が得意げにニッと笑う。 「菜華はさ、キスはどんなふうにするのが好き?」 「キッ……」  突然飛び出した単語に動揺する私と違って、蒼汰は至極まじめな様子だった。  あごの下に手を当てて、何かを思い出すように視線が天井の方を向く。 「キスって初めてでさ、どんなふうにするのがいいのかなって。定番な感じもいいけど、折角だから菜華の好きな感じで出来たらなって」  今までどこか一線を引いてきた筈の蒼汰が、その線を急に棒高跳びでもするように飛び越えてきた。  キスをどうすればいいのかなんて、そんなこと私も知らない。だけど、答えるより先に体が動いていた。  壮太の肩をつかんで引き寄せるようにして、無造作に唇を重ねる。んっ、と蒼汰の声がしたけど、そっと私の肩に蒼汰の手が添えられるのが分かった。  どれくらいそうしてたんだろう。息継ぎするように顔を離す。長いようでいて、一瞬だった気もする。顔が熱いし何だかフワフワする。 「……どう、だった?」  ようやく口に出せたのは、そんな問い。夢中というかがむしゃらでどんな感じだったか全然思い出せない。  蒼汰は少し顔を赤くして、ちょっと困ったような顔をしていた。その表情にぽわぽわとしていた頭がゆっくりと冷えていく感じがした。  蒼汰は冷蔵庫に手を伸ばして、白いトレイを取り出した。その中には細長い魚。 「えっと、さ。鱚、初めて買ってみたから。どういう調理法がいいのかなって悩んでて」  蒼汰の言葉に顔が熱くなって冷たくなるのを繰り返す。  そうだ、蒼汰は料理してたんだから、いきなりキスの話をするはずがない。一線がどうこうとか考える前におかしいって思うべきだった。蒼汰は知恵が借りたいって言ってたんだし。  恥ずかしさとともに猛烈な後悔が襲ってくる。これまで蒼汰が保ってきた距離感とか丸ごと無視してキスなんてして、私の方から関係性を壊してしまったかもしれない。 「こういう言い方が正しいのかわからないけど、さ」  蒼汰の声に胸の辺りがギュッと締め付けられる。  もしかしたら蒼汰が料理を作ってくれるのもこれが最後になるのかもしれない。祈るように言葉の続きを待つ。 「えっと、おいしかった、です」  急にたどたどしくなった蒼汰の言葉に、顔から火が出たような気がして、いよいよこの場から逃げ出したくなる。  逃げるも何も、ここ、私の部屋だけど。 *  結局、蒼汰は「なんか思考が回らなくなったから定番で」と言い出して鱚は天ぷらとしてテーブルに並んだ。  天ぷらは衣がふんわりサクサクでおいしかったけど、“キスがおいしかった”とは食事が終わっても最後まで言えなかった。  せめて次は、一番好きなキスを答えられるように。
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