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十、姫君の遊び - la Princesse joue -
酒場には、今日の朗読会に参加した大人たちが集まっていた。
マノンはすでに出来上がっている。ギイの悪友たちや地元の若い女性に混じって、シダリーズが見たこともないような大きなマグからエールらしき酒を呑んでいた。シダリーズとギイを見つけると、見るからに酔っ払っているとわかる笑顔を浮かべ、ぶんぶんと大きく手を振って席へ招いた。
「ああっ!お待ちしてました!ひめ――」
むぐ、とマノンが黙った。ものすごい速さで近付いてきたシダリーズが手近な皿から取ったパンをマノンの口に詰めたからだ。
「あら。酔いすぎよ、マノン。パンでも召し上がれ」
朗らかに微笑むシダリーズの目は笑っていない。マノンはちょっとだけ酔いから冷め、ニワトリのようにコクコクと首を縦に振った。
彼女を熱烈に歓迎したのは、マノンだけではない。ギイの悪友のひとりである青年ブリュノも、ごつごつした拳を突き出してシダリーズに挨拶した。シダリーズも拳を差し出してブリュノの拳に突き合わせ、次に腕を交差させるように合わせた。今日教えてもらったエラデールの若者独自の挨拶だ。
「合ってるかしら」
シダリーズが訊くと、ブリュノは豪快に笑い声を上げて彼女の肩を叩いた。
後から店に入ってきたジャンがブリュノとシダリーズの間に割って入って挨拶を交わしたとき、ギイがシダリーズから離れてカウンターの席へ移動した。
なんだか、避けられているみたいだ。昨日、互いに気まずい秘密を明かし合ったのだから、無理もないのかもしれない。
シダリーズは若い女性がギイに声をかけるのを見て、胸がチクチクした。
この日わかったことは、マノンがひどく酒に弱いということと、エラデールの若者が存外学習に意欲的であるということだ。今まで機会がなかったというだけで、皆がこの地をもっと良くしたいと思っていることは間違いなかった。
そして、王国政府の人間としては由々しき事実を知ることもできた。領民のほとんどが領主の姿も見たことがなく、税率も正確な数字を提示されないまま、農作物を領主邸から派遣された担当者に言われるままに渡しているという事実だ。
「そんなのおかしいわ」
と、声に出すのは憚られた。ここは多く人が集まるから、王国政府に非協力的な領主側の人間もいるかもしれない。
王国政府は十年前から税法を改め、年ごとの収穫量に応じた税率を決め、領民の負担を多くかけないよう尽力している。発令の中には、不作の時には領民の代表者たちと協議の上で税率を決めることや、それでも領地運営がうまくいかない場合は王国政府への支援要請も可能であるという条目があり、領民たちが口を揃えて「税率は決まっていない」というのは、王国の法律に基づけば、あってはならないことなのだ。
シダリーズはギイの方をチラリと見た。
今度は先ほどとは違う女性が隣に座って、なにやら親密そうに腕を触れさせていた。確か、コリーヌという娼婦だ。また、胸がちくりとした。
しかし、嫉妬や浮かれた気分に感情を振り回されていられるほど、シダリーズの立場は単純ではない。
(領主のために働いてるって言うけど…)
思えば、ギイには秘密が多い。
ギイはエラデールに於ける名士と言うだけで、特に爵位を持っているわけでもなければ、暮らしぶりも金に困っていないと言う程度で、特に富豪というわけでもない。ルマレ家の表だった情報と言えば、父と兄が王国政府付きの騎士団に入っていたという経歴と、先祖代々の屋敷がエラデールにあるというだけだ。その彼が、使用人以外で領主邸に出入りできる唯一の領民であるということも、シダリーズに疑念を持たせるには十分だった。
領主が不正を働いていて、ギイがそれを知っているとなれば、シダリーズは彼を断罪しなければならない。そしてそれは、大いにあり得ることだ。
(こんなことって、ないわ)
なんだかひどく落ち込んできた。初めて誰かに恋をしたというのに、その相手が悪事を働いているなんて、あまりにもひどすぎる。
(わたしって見る目ないのかしら)
当のギイには、また別の女性が近付いていた。両隣の席が、彼への好意を惜しみなく露わにする女性たちで埋まっている。
「なんだよ、お嬢先生。暗いじゃねえか」
と声をかけてきたのは、向かいに座るブリュノだ。酒瓶を片手に大声で歌うもじゃもじゃヒゲの男に肩を抱えられながら、シダリーズの方へ身を乗り出した。
‘お嬢先生’とは、彼らが勝手に呼び始めた肩書きだ。なんだか慣れないが、シダリーズは気に入っている。
「そんなことないわ」
シダリーズがにっこり笑うと、ブリュノは太い眉を上げてニヤリと笑った。
「ははぁ。あれだな。あれが足りないんだな。Gから始まる女誑しが」
「ふふ。何を仰っているのかわからないけれど、あなたってとても愉快な方ね、ブリュノ閣下」
シダリーズが王国の花の顔をして微笑んだ。都合の悪い質問を躱すときは、この顔が一番効果的だ。男たちは魂を抜かれたようにぽうっと見惚れ、周囲の女たちが苦々しげに男たちの肘や頭を叩くと、彼らはやっと我に返った。
同年代の男女と他愛もない話で笑い合い、大きなマグでエールやワインを酌み交わす経験は、きっと王都に帰ってはできないだろう。
シダリーズは、近いうちにこの地を離れなければならないことを心底残念に思った。最初の警戒心は強かったが、一度受け入れた人間にはとことん優しい。それに、素直だ。
酒が進んだブリュノは以前教えたとおりにシダリーズにダンスを申し込み、シダリーズもそれに応じた。
ジャンは護衛対象であるシダリーズに人が群がってくるので多少ぴりぴりしていたが、領民との交流を深めている主君の邪魔をするようなことはしない。一定の距離を保って、自分もここ数日で顔見知りとなった若者たちと酒を飲んでいた。
マノンはと言えば、ベロベロに酔っ払って女たちと一緒に輪になって踊っている。エラデールの春の祭りで踊るものを教えてもらっているらしかった。恐らくは、明日になればきれいさっぱり忘れてしまうのだろう。
「なあ、お嬢先生、あんたたちはいつまでいるんだ?」
ブリュノは、今日は大酔していない。客人を気遣ってくれたのかもしれない。
「多分、五日もせずにここを発つわ」
「そりゃみんな寂しがるな」
「嬉しいことを言ってくださるのね」
シダリーズはにっこり笑った。心から嬉しいと思った。
「…でも、ルマレ閣下はそうじゃないと思うわ。ずっと早く出て行けと言っていたもの。とても迷惑をかけたし、当然だけれど」
「ええ?」
ブリュノは覚えたばかりのぎこちない足運びでシダリーズのリードに応えながら、面白そうに口を左右に大きく広げて見せた。
「本気か?あいつがいちばんあんたらのことを気に掛けてたぜ」
シダリーズは目を丸くした。
「有り得ないわ。ずっと無視されていたのよ。領主の命令だから屋敷だけは提供してくださったけど、食事も何も出してくれないし、お風呂だって、ルマレ閣下が入ったばかりの温かい時間を逃さないようにいつも大急ぎで入っているの」
ブリュノがガハハ、と大口を開けて大笑した。
「育ちのいいお嬢さんがそこまでするとは、肝が据わってるなぁ。だが、マジな話――」
ブリュノは普段の彼からは考えられないほどに声を小さくした。
「あんたのお勉強会から離れたやつらを説得したのは、ギイなんだ。王国政府の人間だからって別にこの土地をどうこうしようとしてるわけじゃねえ、読み書きができればできることが増えるからってさ。どうせ暇なんだから身に付くことでもしてろとも言われたな」
「そんな…本当に?」
「ああ、それだけじゃない。あいつ蒸気浴が好きなんだ。それも、長ぇ時間かけて身体がタコみたいに真っ赤になるまで入るんだがよ」
ブリュノがもう一度声を低くしたので、シダリーズは耳を近づけた。
「あんたらが来てから入ってねえんだと。気が休まらねえからだとか言ってたが、あんたの話を聞いて何でかわかったぜ」
「…つまり、閣下はわざわざ、わたしたちが温かいうちに入浴できるようにしてくれていたってこと?」
「さあな。あんたはどう思う?」
シダリーズはなんだか急に恥ずかしくなってきた。顔から火が出たのではないかと思うほどに熱い。自分らしくもなく、俯いてしまった。なんだかブリュノがニヤニヤしながらこちらを見ている気がするが、何故か顔を上げることができなくなった。
「そ、そうね。たまたまじゃないかしら。でも、教えてくださって、ありがとう」
と、言い終わらないうちに、後ろから強く腕を引かれた。
相手の顔を見る前に、心臓が大きく跳ねた。この手の感触が誰のものかは、知っている。
「睨むなよ」
苦笑するようなブリュノの声が聞こえて、シダリーズは顔を上げた。視線の先には、ひどく不機嫌なギイ・ルマレの顔があった。栗色の眉の間に深く皺を刻み、青い目を暗くして威嚇するように悪友を睨め付けている。
「何してる」
「何って、ただのダンスとお喋りだ。なあ?お嬢先生」
「え、ええ。そうよ」
シダリーズが言うと、ギイはますます眉間の皺を深くして彼女の腕を引き、扉へ向かった。
「閣下」
と、ジャンが扉の前に立ちはだかったが、ギイはそれを煩そうに押し退けた。ジャンは仕方なくギイに掴みかかろうとした。主君の腕を掴まれていては、武力行使も仕方がない。ところが、シダリーズはその拳にそっと触れて止めた。
「大丈夫よ、ジャン。わたしも彼に話があるの。マノンをお願いね」
シダリーズはギイに腕を引かれるまま、外へ出た。このまま屋敷へ帰されるのかと思ったが、ギイの行動は予想と違っていた。シダリーズの腕を掴んだまま酒場の外の階段を上がり、建物の反対側の上階にある木の扉を開けて、奥へ入った。酒場に併設されている、宿泊客用の部屋だ。灯りはない。カーテンのない窓から月の光がぼんやりと射すだけだ。
しかし、危険とは思わなかった。
「ブリュノと何を話してた」
声が怒っている。シダリーズは何故か顔を見ることができず、ギイの上衣の胸を留めているボタンを凝視した。
「それは…」
言いかけて、口を噤んだ。
この先を口にしたら、泣いてしまいそうだ。理由はわからない。
「俺には言えないことか」
「い、言いたくないわ」
ギイが怒気を発したのがわかる。
しかし、シダリーズにはこれを説明できるほどの言葉がないのだ。余りに矛盾が大きくて、どう理解したらよいのか分からない。しかし、こんなふうに詰問されて、大人しく口を噤んでいられる気性ではなかった。
「あなたこそ、どういうつもりなの。出てけって言ったり、使用人たちに私たちのことを無視させたり、わたしのことを避けたり、それなのに、ブリュノが――」
その先は言えなかった。
ギイの手がシダリーズの口を塞ぎ、壁にその身体を押し付けたからだ。シダリーズが見開いた目のすぐ前に、ギイの目がある。月光を受けて、鈍く光っていた。
「他の男の名前を言うな」
シダリーズは混乱した。それじゃ会話ができないじゃない。とか、なんて自分勝手な言い分なの。とか、言ってやりたいことはいくつかあるが、口を塞がれているのではままならない。
「もっと自分の立場を考えた方がいい」
これには腹が立った。自分の立場を理解しているからこそ、ここに学校を作ろうとしているのではないか。
シダリーズはガブリとギイの手に噛み付いた。
ギイがシダリーズの口から手を退け、その目に剣呑な光を踊らせた。
文句を言う前に、唇が重なってきた。
「んっ…は…、ルマレ閣下」
「そうやって呼ぶな」
ギイはうんざりしたように言って、逃げたシダリーズの唇を追いかけ、蹂躙するような激しさで奪った。
舌が絡み合うたびに鼓動が速くなり、身体の中が痛くなり、腹の奥が熱を持つ。
「あっ…ギイ」
口付けに必死で応えている自分は、一体何者だろうか。
ドレスの紐を背中でほどかれているのを知りながら、この突発的な激情を受け入れようとしている自分は。――
「俺がどういうつもりか聞いたよな」
ギイが言った。
声が熱を持つことを、シダリーズは初めて知った。
「わたしが逃げ出すと思っているの?」
ギイは苛立ったようにドレスの紐を引き、細い肩から布を引きずり下ろした。シュミーズの繊細な肩紐を引っ張られても、シダリーズは動かなかった。
「怒っているの?わたしが逃げないから」
「あんたは何も分かってない」
「そうよ。だから理解したいの」
ギイの目が苦悶するように細まった瞬間、シダリーズの身体は抱き上げられ、硬いベッドの上に投げ出された。
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