十三、姫君の闘争 - la Princesse combat -

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十三、姫君の闘争 - la Princesse combat -

 シダリーズがそっと一階の酒場に下りていくと、見るも無惨な光景が広がっていた。  床で寝転がって大いびきをかいている男が数人と、テーブルに突っ伏して眠ってしまったらしい男女が五、六人といったところだ。テーブルの上は店主が片付けたらしいが、木の床には誰がどういう経緯で脱いだのか、男物の下着やブーツが片方だけ転がっていた。夜通し飲んで馬鹿騒ぎをしたのだろう。  一人だけ酒場の隅できちんと椅子に座っていたのは、ジャンだった。座りながらシダリーズを待ち、そのままの体勢で眠ってしまったらしい。  シダリーズの気配で目を覚ましたジャンがいつものように穏やかに微笑むと、なんだかひどく申し訳なくなった。 「お話は済みましたか」  ドキリとした。ジャンはギイとの間に何があったのか察しながら、何も言わず、ただ受け入れてくれているのだ。この信頼に、シダリーズは応えなければならない。 「ええ、済んだわ」  と、シダリーズは気丈にも微笑んだ。 「ところで、マノンは ?」 「あそこに」  ジャンが指差した先は、男女が突っ伏して寝息を立てるテーブルだった。その中に、見慣れた胴色のお団子頭がある。  シダリーズは思わず吹き出した。 「マノンったら。本当に楽しかったのね」 「そのようです。昨夜のことを覚えているかわかりませんが」  ジャンもくすくす笑った。 「エラデールは、いい町ね。ジャン」 「はい。そう思います」  ジャンが言った。 「じゃあ、やっぱりさっさとやることやりましょ。学校のことも、不正のこともちゃちゃっと片付けて、ここのみんなにもっといい暮らしをしてもらわなくちゃね」  例えギイを裁くことになっても。――シダリーズは鼻の奥がツンと痛くなったのを無視した。 「昨晩みんなが寝てしまった後、ジルベールが来ました。‘首尾よし’と」  ジャンは声を低くして言った。領主邸の中に人夫として紛れているジルベールとは、ジャンが目立たないように連絡を取り合っている。 「じゃあ、今から行動ね」 「お供します」  シダリーズはジャンに向かってにっこりと笑いかけた。  この日、シダリーズはマノンのひどい二日酔いが多少良くなった頃を見計らって、ルマレ邸の使用人に強い態度で迫って風呂を用意させることに成功し、持参した中で最も格式高いドレスを身に纏った。  この日のドレスと装身具一式で、王都に豪邸が建つ程の価値がある。王城では普段着ているものとそう変わりはないが、ここエラデールの地に於いては重要な意味を持つ。  上質な綿と毛の混ざった織物の生地に幾何学的な蔦模様とアストル家の紋章である星が絡みつくように縫い取られ、美しい襞の広がるスカートのスリットから覗く内側の布地は、王国の紋章である獅子が銀の糸で刺繍されている。  首飾りは大ぶりの真珠で、トップに大粒のルビーが輝き、髪には小粒の真珠が連なった髪飾り、耳には首飾りと揃いの耳飾りをつけ、右手の人差し指には大粒のルビーがキラキラと輝く金の指輪を嵌めた。  獅子心姫の完全武装だ。美しさは強さを備えることを、シダリーズは知っている。 「ああああお美しいです…!お美しいという言葉では全く足りないほどお美しいです…!!」  すっかり顔色の戻ったマノンが拝むように両手を組んで主君の姿を崇めた。 「いいえ、マノン。わたしの美しさは勝ってこそ価値を持つのよ」  シダリーズは勝ち気に笑った。  今はこの闘争心が胸の痛みを和らげてくれる。  領主邸の門を開けたのは、御者のジルベールだった。と言っても、一見してジルベールとは分からない。数日前に別れた時とは、何故か顔が違って見える。前髪を下ろして、不精髭を生やしたせいかもしれない。  ジルベールは、この地に足を踏み入れた日から領主邸の敷地内で荷駄係の人夫に紛れ込んで内情を探っているが、どういう手を使ったのか、ひと月も経たない間に人足の間で信頼を得、使用人の中の上役にも目を掛けられて、敷地内だけでなく建物の中を自由に行き来できるようになっていた。 「ジルベールさんって、何者なんですか?」  飄々とした足取りで前を行くジルベールの細い背を眺めながら、マノンがこっそり訊ねた。ただの御者ではないことに気づいているのだ。 「国王陛下の器用なお友達よ」  シダリーズも小さな声で返すと、マノンは納得して小さく頷いた。シダリーズの言葉が腕利きの間諜を意味していることを理解したのだ。確かに、国王が仲の良い従妹を僻地へ送るのに護衛として騎士一人しか付けないはずがない。  領主邸の中は、不気味だ。得体の知れない陰鬱な空気が辺りを覆っている。  その上、かなり不自然に思えた。  シダリーズの知る統治者の居城は身なりの良い人間が多く出入りしていて、常に忙しない。しかし、ここはそうではない。上階に続く冷たい石階段の向こうから人の話し声や気配が届くのみで、一階は来るものを拒んでいるように殺風景で無機質だった。 「ここは本当に領主邸なの?廃墟じゃなくて」  堪らずシダリーズが言った。 「昨日までは私も同じ事を思っていましたがね、驚きますよ」  ジルベールが唇を吊り上げた。この間諜は、‘無口な御者’の顔はもうやめにしたらしい。  最初にジルベールが階段を上がり、革の上衣のポケットから鍵を取り出して固く閉ざされた扉の錠前を開け、二階の床を踏んだ。シダリーズがその後ろへ行き、次にマノン、殿(しんがり)にはジャンがいる。  シダリーズは目を見張った。  深紅の絨毯に、つやつやした大理石の床、ガラスの粒が無数に輝く大きなシャンデリアが天井から下がり、壁には鹿や熊、虎など、動物の頭がトロフィーとして無数に飾られていた。もともとの壁が何色だったのかわからないほど、獣の首のトロフィーや歴代の領主と思われる肖像画などの装飾品で埋め尽くされている。配置は、ひどいものだ。とても管理されているとは思えないほど乱雑で、装飾品が増える度に空いた場所に取り付けていったような有様だった。  壁だけではない。夥しい動物の剥製や異国の壺、何に使うのかわからないガラスの球体などの器具が置かれた細い棚など、ありとあらゆるものがそこら中に置かれて、ダンスホールほどの広さがあるにも関わらず、人が一人通れる程度の空間しか残されていない。 「す、すごい…けど、すごく不気味ですね」  マノンが顔を青くした。 「ここは何?」  シダリーズは不快感を露わにした。ここには、それぞれにそれほど高い値打ちのものがあるとは思えないものの、全て売り払えば領地運営の足しになる程度の物量がある。この狂気じみた蒐集品に領民の血税を使っていたとしたら、許せない。 「推測ですが、屋敷の中心部に繋がる廊下です。領主と代々仕える使用人の数名しか入れません。わたしもこの奥まで入るのは今日が初めてですよ」  ジルベールが声を潜めて言うと、ジャンが怪訝そうな顔をした。 「言っときますけど鍵の入手方法は秘密ですよ。あなたがたは知らない方がいい」 「心得てます」  ジャンは肩を竦めた。いくつもの顔と名を持つこの男の仕事を一から十まで理解することは不可能だ。  先頭を行くジルベールが奥の扉を開くと、目の前に上品な老紳士が立っていた。小柄で、面長の顔は白い髭が威厳たっぷりに整えられ、執事らしく黒い上衣とズボンを纏い、首には伝統的なクラバットを巻いている。  警戒したジャンが前に出てジルベールの隣に立ったが、シダリーズは二人を押さえて前に出た。 「どちら様ですかな。本日は来客の予定はございませんが」  朗らかな口調だが、声は急な来客を全くもって歓迎していない。しかし、シダリーズの豪奢な装いにはたじろいだようだった。今日のシダリーズは、どこからどう見ても一国の姫君だ。 「エマンシュナ王国教育局から来たシダリーズ・アストル姫です。わたくしはこれからデュロン閣下にお会いします」  これは意向を伝えているのでも、お願いをしているのでもない。命令だ。  シダリーズは胸を張った。この不気味な空気に怯んだ様子を見せては、主導権を握れない。しかし、部屋の奥から漂ってくる甘ったるい煙のような異質なにおいが鼻を突いた瞬間、妙な胸騒ぎがした。 「ここへはどうやってお入りに?」 「無論、正面からです」  シダリーズが答えると、執事は朗らかな笑みをのままジルベールを一瞥し、同じ事をもう一度言った。 「来客の予定はございません。それにご存じのことと思いますが、デュロン伯爵様は長患いにて誰ともお会いになれません。姫君には失礼を承知で、本日はお引き取り願いたく存じます」 「いいえ、お会いします。王国政府の通達を黙殺した瞬間に、あなたがたはいつでも使者を迎え入れる準備をすべきでした。わたくしたちは今日、教育機関と税収についての調査をしに来ました。あなたではなく、領主のデュロン伯爵と話します。それに、長く患っているのなら当然のことながら王家からもお見舞いしなければなりません。案内なさい」  執事はゆったりと目を細めて頭を下げ、奥へ案内した。態度にこそ出さないが、全く不本意なのだろう。この期に及んでも歓迎の言葉はない。  中は、先ほど通ったばかり廊下と同じく、動物の剥製が溢れている。どの国からやってきたものなのか、極彩色の鳥や熊ほどの大きさもある鹿、巨大な角を持つサイの剥製まで置かれていた。どこまでが廊下でどこからが部屋なのか、もはや判別できない。 「旦那さま」  と執事が声を掛けると、夥しい剥製の中から、ひょろりと背の高い老人が姿を現した。執事よりも年上に見える。身に付けている服は上等なもののようだが、羊毛の上衣は擦り切れ、黄色がかった白髪は背中の方まで伸びていて、無精髭も生えている。とても身なりが整っているとは言えない。執事の方がよほど貴族らしく見えるというものだ。 「あら、お元気そうで何よりですわ。デュロン閣下。シダリーズ・アストル姫です。用向きはご存じですね」  シダリーズが皮肉を込めて高らかに言うと、老人は夢を見ているような顔でにっこりと笑顔を見せた。 「お姫さま?お姫さまは初めて見る」  と言っているようだが、呂律が回っていない。聞き取るのもやっとだ。  ジャンとマノンは互いに視線を交わし合った。尋常の様子ではない。 「この蒐集癖とあの様子じゃ、長患いは嘘ではないようですね」  ジルベールが息だけの声でシダリーズに言った。シダリーズは小さく顎を引いた。 (一体この人の側近たちは何をしているの)  そういう憤りは、慈悲深い王国の花の顔に隠した。 「デュロン伯爵。長く患っているそうですね。王国政府を代表してお見舞いします」  ウン。と、デュロンは大きく首を縦に振った。子供のような振る舞いだ。  シダリーズはジャンから書状を受け取り、デュロンの前で広げて見せた。デュロンは、恐ろしいものを見たように両手で顔を覆った。 「教育局からの通達です。二週間ほど滞在していますが、ここには通達の内容通り教育機関が作られていませんね。王国政府からも支援金を出しています。それを教育のために使った形跡もありません。これはどういうことかご説明ください。領主であるあなたに責任があるのですよ」  シダリーズは柔らかい口調ながら、毅然として言った。  ところがデュロンは何を言われているのかわからないようだった。執事を怯えたように見、シダリーズに視線を戻して、フルフルと首を振った。その目には、恐怖がある。 「よ、よめ、読めない。文字は怖い」  と言うのである。  シダリーズは怒りを隠さず、執事を見た。 「これはどういうこと?王国政府からの公文書は誰が目を通しているの?エラデールの収支報告は、一体誰が行っているのです」  執事は無表情のまま口を開いた。 「閣下は幼い頃から文字に悪い魔力が宿っているとお考えで、ひどく怖がるのです。ですから読み書きが必要なときにはわたしや息子が対応します。天涯孤独の旦那さまには、ただ心安らかにお過ごしいただくよう尽力しております」  マノンが顔を青くしてジャンの袖を引き、小声で言った。 「じゃ、じゃあ、あのものすごい量の死体…じゃなくて剥製?…あの蒐集品は領主の心を慰めるためってことですか?あれが?」  あんなに不気味なのに。と言いたいのだ。 「そうでしょうね」  ジャンも小声で答えた。動物の剥製ばかりを集めていた理由もなんとなく説明がつく。彼らは人間と違って、文字を持たない。 「立派な忠誠心ね。でもデュロン伯爵に領地運営の能力がないのであれば王国政府へ申し出てもらう必要があるわ。後継者がいないのなら、尚のこと対策を講じなければなりません。あなたたちは、この重大な事実を隠蔽していたことになるのよ」  シダリーズは声を震わせた。横領していたのは領主ではない。領主に心身に関わる大きな問題があることを王国政府はおろか領民にまで隠し、領主のふりをして私腹を肥やしていたのは、間違いなくこの執事だ。 (かわいそうに)  書状から逃げるように遠ざかって熊の剥製の後ろに隠れた老人を、シダリーズは憐れに思った。  誰にも恐怖を乗り越える方法を教えてもらえず、心に病を抱えたまま、牢獄のようなこの屋敷で生かされてきたのだろうか。 「いつからです」 「先代の旦那さまが亡くなられてからずっと――もう五十年ほどになりますか」  執事の口調は、まるで他人事だ。 「…このことは、すぐに国王陛下に報せます。あなたがたにも適切な処分があると思いなさい。それまで、あなたを含め、この隠蔽に関わったものは全員謹慎とします。沙汰を待ちなさい」  シダリーズが王族の威厳を持っていうと、執事はニタリと笑った。  怖気が立った。 「それは困りますな」  その瞬間、後方の鹿の剥製の影から男が飛び出してきた。もう一人いたのだ。  ジャンとジルベールは咄嗟にシダリーズを囲うように守った。が、逃げ遅れたマノンが男に捕らえられた。男のナイフがマノンの首を狙っている。知らない男だった。が、老いた執事と面立ちが似ている。服装も同じだ。  マノンの顔は蒼白だ。声も出せないほど怯えている。 「…あの男を討てと命じてください、姫殿下」  ジルベールが囁いた。侍女を見殺しにする許可を求めているのだ。王族として、それが正しい判断だろう。しかしシダリーズは迷いなく首を振った。 「息子さんね?親子そろって影に隠れるのがお上手なのね」  シダリーズが権高に言った。 「わたしの侍女を解放なさい。そうすればあなたがたの望みを聞きます」  こう言うしかなかった。シダリーズの倫理観は、誠心誠意仕えてくれる侍女を見殺しにできるようにはできていない。 「息子が地下室へご案内します」  執事の息子がマノン頸にナイフを突きつけたまま、部屋の奥へ行くよう促した。剥製の群れを抜けると床に小さな上げ板があり、その下は人が一人通れるかどうかという程度の狭い穴があいていた。 「下りてください」  と執事の息子が無表情で示したのは、穴の下に続いている縄梯子だった。 (冗談じゃないわ)  シダリーズの身体は全力で穴蔵に下りることを拒否したが、マノンの命を盾に取られては従うほかない。  ジルベールが最初に下り、次にジャンが下りて、シダリーズのスカートの中が見えないように目を瞑りながら湿った石の床に下り立つ彼女を支えた。最後に、無慈悲にもマノンが突き落とされた。これを、ジャンが下敷きになって受け止めた。怒りの声を上げようとしたジャンの目の前に、切り落とされた縄梯子が放り投げられた。  上げ板が閉められる直前に、耳を疑いたくなる執事の言葉が聞こえてきた。 「旦那さま、お寂しくないように新しい剥製を作りましょう…」  上から漏れる微かな明かりを頼りに、彼らは互いに目を見合わせた。 「い、いい、今のって、わたしたちのことですか…!?」  マノンが取り乱して叫んだ。 「そうみたいね」  シダリーズは平静を装って頷いたが、頭の中にはパニックが押し寄せている。 (わたしのせいだわ)  王国の力になりたくてやってきたのに、またこれだ。失敗して、周囲を巻き込んで、挙げ句の果てにここでみんな死んでしまったら、もう取り返しが付かない。最悪だ。  王族という身分も、美しさや品位さえもこの場では無意味だった。何という役立たずだ。  ギイに世間知らずのお姫さまと言われて怒る資格などなかった。全くその通りだ。この十年、王国政府の仕事に携わってそれなりに経験を積んできたつもりだった。しかし、所詮はその気になっていただけだ。側にはいつだって国王や王妃や経験豊富な助言者がいて、安全な場所で常に守られて生きてきた。 (わたしって、最悪)  さようならも言わずに、本心さえも隠したまま、今朝の冷え冷えとした会話が今生の別れになるなんて、ひどすぎる。でも一番ひどいのは、この期に及んでギイのことを考えてしまう自分だ。マノンにも、ジャンにも、ジルベールにも、帰りを待つ家族がいるというのに。  シダリーズは両手を組み、爪が手のひらに食い込むほど握りしめた。そうでもしなければ、身体中が震えてしまいそうだ。その時。―― 「いやぁ、油断した。あんな素人にやられるとは、わたしも鈍ったものです」  と、伸びやかなジルベールの声が、シダリーズを恐慌状態から救った。 「ううっ、ごめんなさい。わたしが捕まったから…」  マノンはズビズビと鼻をすすって泣き出した。 「あなたのせいじゃありませんよ。このご時世にまさか王族に対してあんな強硬手段に出ると思わないですからね。相手は老人だったし、完全に気を抜いてました。こりゃ帰ったら陛下に大目玉を喰らいますね。怖い、怖い」  ジルベールがガシガシと頭をかいた。まるで子供の悪戯に引っ掛かったような口ぶりだ。そして、この場から出られると当然のように信じている。 「どうやって出ましょうか」  ジャンがマノンの肩をぽんぽんとさすりながら言った。取り乱してはいないが、声に不安が滲んでいる。 「じきに助けが来ます。大丈夫ですよ」  ジルベールは気軽に言った。 「こ、来なかったら…?」  マノンの声が震えている。 「…きっと、剥製にされてしまうわね」  シダリーズは頭上を見上げた。  下りた時の感じでは、少なくとも六メートルはある。唯一の脱出手段である梯子は、今は足もとに無惨にも死体のように転がっている。助けが来なければ、この石の壁をよじのぼるしかない。が、上り切ったところで、上げ板には鍵が付けられている。  万事休すとは、こういうことだ。  沈黙が響く地下室で、シダリーズは祈るようにギイを想った。
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