十四、姫君の危機 - la Princesse tombe -

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十四、姫君の危機 - la Princesse tombe -

 ギイが異変を感じたのは、間もなく昼になろうかという時分のことだ。  領主邸へ出仕する前に、食糧の確保のために仕掛け罠を張ろうと森へ出掛ける途中でコリーヌに声をかけられた。いつものように今夜は来るのかと訊かれただけだったが、今日ばかりは違和感を覚えた。  コリーヌは数日前からシダリーズの朗読会に参加している。当初は馬鹿馬鹿しいと思っていたようだが、娼婦仲間に誘われて始めてみると案外楽しいし今後の為にもなると言って、熱心に通っていたはずだ。 「朗読会はどうした」  ギイが訊ねると、コリーヌは肩を竦めて首を傾げた。 「今日は用事があってお休みなんですって。それより、あの子何者なの?ただのお嬢さまじゃないでしょ」 「何故そう思う」  ギイは眉の下を暗くした。何故かわからないが、良くない予感がする。 「だって、お姫さまみたいにものすごい豪華なドレスで馬車に乗ってるのを見たもの。もしかして、領主さまのところに行くのかしら」  領主さま。と、コリーヌは空想の生き物の名を口にするように言った。この地の人間にとって、領主の存在などその程度のものだ。実在するのかさえ、深く考えるものはない。  しかし、ギイはその正体を知っている。 「…リーズ――!」  その名を口にした時には、馬の腹を蹴っていた。  朝から気分は最悪だった。これ以上ないというくらいには苛々していたし、シダリーズに対して怒ってもいた。  あの女はギイ・ルマレが欲しかったのではない。朝を迎えた後、昨夜の交情はお姫さまの人生経験のひとつと化し、重なり合ったと思った熱はもてなしと一蹴された。挙げ句、利害関係を承知していながら情報を求めてきた。  まるで男娼にでもなった気分だった。昨夜得た充足感は、水面に浮かぶ月を手のひらに掬ったようなものだ。  女と寝た後にこんな気分になったのは、初めてだ。  しかし、今はそれよりももっと最悪な気分だ。下手を打てばシダリーズを永遠に失いかねない。 「くそっ!」  激しい不安と焦燥に駆られながら、馬を駆った。  これまで自分の積み上げてきたものを全て失うことになる。それでもいい。しかしシダリーズだけは失うわけにはいかない。生きてさえいればいい。彼女が生きてさえいれば、一生手に入らなくても構わない。  領主邸の敷地内は、いつもの様子と変わりない。見知った顔の荷駄係が小ぶりの馬車や荷駄車を整列させて石造りの貯蔵庫へ無数の麻袋を運び込み、領民から徴収した作物を領の外へ出て行く大きな馬車に載せている。  彼らは自分たちが運んでいるものが何であるかを知らない。  ギイは門の外に停めてある馬車の中に、王国政府の紋章が付いた黒い馬車を見つけた。心臓がいやな音を立てて歪んだ。  シダリーズが中にいる。  ギイは奥歯を噛んだ。平静を装い、いつものように正面から領主邸の門をくぐった。荷駄を運ぶ人夫たちがギイに挨拶すると、ギイはいつものように応じた。表情まで取り繕えたかどうか、正直自信がない。  内部の構造は知っている。何年もかけてあの忌々しい執事に媚を売り、胸糞悪い仕事の後始末をしてきた。  今まさに手をかけた扉の奥に何があるのかも、ギイは知っている。  そして嫌な予感が確信に変わった。いつもは施錠されているはずの錠前が、外されている。用心深い執事親子が屋敷の心臓部を開け放ったままでいることは、常ならばありえない。如何に彼らの信頼を得たとは言っても、彼らの同伴なしにギイはここへ入ることはできない。  ギイは足音を立てずに内部へ侵入した。奥の扉から、話し声が聞こえてくる。剥製の影に身を潜めながら扉に近付くと、声は明瞭になった。 「――それに火種をつけたまま穴に放り込めばきれいなまま死んでくれる。女だけ残して、後の処理はルマレにやらせなさい」 「わかりました、父さん。でも処置の前に美しい方の女を僕にください。あれほどの上玉ですから、遊んでからでないと勿体ないでしょう――」  ざわっ、と激しい怒りが背筋を走った。全身の血が凍り付くようだ。  なんの相談をしているのか、全容を知る必要はない。あの親子が誰に何をしようとしているのかは把握できた。それで十分だ。あんなのが同じ人間だとは、とても思えない。  老人と中年の息子の制圧は難しくない。本当なら今すぐに飛び出して行って顔面に何発も喰らわせた上でぶち殺してやりたい。が、人質を取られていてはこちらの分が悪い。今は冷静に対処して確実にシダリーズとその連れを救出しなくてはならない。 (どうする)  装備は森に入るために用意した鉈と仕掛け用の縄、火打ち石と、それから小さなナイフがある。  ギイは、罠を張ることにした。とは言え、敵が罠にかかるのを待つ時間はないから、この場からなるべく遠くへ誘き出す必要がある。  彼らの命の次に大切なものを盾に取るのだ。しかしそれは、ギイの計画の頓挫を意味している。 (構うものか)  シダリーズさえ救い出せれば、あとはどうなってもいい。  ギイはゆっくり後退し、扉の錠前を踏みつけて壊してから階段を降り、短くはない距離を全速力で走って、蔵へ向かった。  貯蔵庫の奥に、執事親子が最も大切にしている蔵がある。見た目はただの木造の小屋に過ぎない。が、その実態は温室だ。それも、この片田舎に似つかわしくない高度な設備で、山地の地熱を利用して植物を育てている。  執事親子が横領した領内の作物を外で金に換え、その代わりに仕入れているものが、この植物の種や苗なのだ。  それらを育て、何も知らない使用人たちに命じて違法な薬を作り、違法なものを扱う商人と取り引きをして、懐を温めている。  これが、明るみに出ず三十年以上も続けられてきた。反乱や利益の分配を求められることを恐れて、最低限の使用人しか屋敷に置かず、領民が知ることのないよう、徹底的に隠匿されてきた事実だ。  ギイはこの小屋の外側にランプ用の魚油を撒き、懐に入っている火打石で火花を散らして火をつけた。幸い、今は空気が乾燥している季節だから燃え広がるのは早い。  ギイがこの場を離れた時には、小屋の内部まで火が移り、屋根から燻された木材と水分を含んだ植物の燃えるにおいが鼻を突き、黒い煙とともに立ち昇っていた。 「火事だ!逃げろ!」  大声で叫ぶと、離れた場所で荷駄を運んでいた人夫たちは恐慌状態に陥った。  井戸から水を汲もうと声を上げたものもいたが、領主邸の門から貯蔵庫までの配置しか知らない彼らは、持ち場を捨てて逃げるしかない。  ギイは走って領主邸の中へ戻り、階下で叫んだ。 「温室が燃えているぞ!」  狙い通りに親子が血相を変えて階下へ現れるまでそれほど時間は掛からなかった。  ギイは階下の柱の影に潜んで彼らが丸太小屋へ向かうのを確認し、床で壊れた鍵を忌々しげに蹴り飛ばしながら執事の息子が走り去ると、猛然と階段を駆け上がった。  領主の私的な部屋と思わしき空間に無数の剥製が置かれ、どこからか甘ったるい煙のような匂いが漂ってくる。なぜか、神経に障るにおいだ。吸ってはいけないものだと身体が気付くと、ドッと恐怖が全身を包んだ。 「リーズ…!リーズ!」  考えるより先に、声が出ていた。間違いない。「処理」を始めたのだ。  この時、部屋の隅から息を呑むような声が聞こえた。視線を巡らせると、大きなオオカミの剥製の後ろで老人が蹲っていた。この憐れな男が誰かは知っている。恐らく意思疎通が難しいだろうということもわかっているが、構っていられない。 「彼女はどこにいる!」  ギイの大声に驚いて、領主はヒィッと顔を隠した。 「…きれいな女の人と、騎士と侍女が来ただろう。どこにいるか教えてほしい。友達だから助けたい。頼む」  ギイは声を荒げないよう、子供に言うようにして身を屈めた。焦点が合わない薄い色の瞳が、ギイの目を捉えた。まるで人間に怯える動物だ。 「そうしたらお姫さまは、僕の新しい友達になってくれる?」 「ああ、そうだ。でもこんなふうになったら――」  と、ギイは剥製を指差した。 「二度と話せない。仲良くもなれない。そうだろ?怖い思いをしてるから、出してやらないといけない」 「あそこ…」  と、老いた子供は細い指を部屋の奥へ向けた。僅かに色の違う床板がある。 「隠れてろ」  ギイは領主を剥製の影に潜ませ、周囲の剥製を倒しながら駆けた。床板には指を入れる窪みと小さな錠が付けられている。 「リーズ!」  ギイが叫ぶと、下から咳き込むような声と壁を叩く音が微かに響いてくる。ギイは腰に差した鉈で鍵を壊し、床板を退かした。一気に煙が上り、ギイの喉を突いた。中は、深い。腕を伸ばしたが、とても届く距離ではない。煙のせいで中の様子がわからない。冷たい汗が背筋を走った。 「リーズ!」  もう一度呼んだ。  返事の代わりに、下から縄が投げつけられた。ギイはそれを受け取ると縄梯子の切れ目を自分の腰に付いていた縄で括って繋げ、穴の中へ下ろした。 「上がれるか」  縄梯子が下へ引っ張られ、最初に上がってきたシダリーズの煤だらけの顔を見た時、ギイは全身の力が抜けそうなほどに安堵した。  腕を掴んで引っ張り上げ、崩れ落ちるように身体を投げ出したシダリーズを、ギイは抱きしめた。 「…まだ」  と言って、シダリーズは激しく咳き込んだ。煙のせいだろう。  ギイは腰に下げた革の水袋の栓を開けてシダリーズに渡し、安心させるように肩を撫でた。 「心配するな」  ギイは次に上がってきたマノンを引っ張り上げ、ジャンに手を貸して、最後に知らない顔の男に手を貸してやった。どこかで見たことがある顔だ。が、何故か思い出せない。 「待ってましたよ、旦那。すぐ来ると思った」  ジルベールが咳き込みながら言った。 「どうして――ギイが来るってわかってたの?」 「ハハ」  シダリーズの問いに、ジルベールは咳き込みながら軽快な笑い声を上げた。 「見てれば分かる。この人は同業ですよ」  ギイは反射的にシダリーズの顔を見た。  名も知らない他人に遠慮なく自分の身分を暴露されたことに腹が立ったが、それよりもシダリーズの反応の方が重要だったのだ。  シダリーズは、言葉を失っていた。 「リーズ…」  ハシバミ色の目が、それ以上の接触を拒んだ。  ギイは立ち上がり、シダリーズとマノンが立ち上がるのに手を貸してやったあと、男たちの肩を叩いて立たせた。 「裏手の小屋に火を点けた。早く逃げろ。俺は領主を担いで外に出す」  剥製の後ろには、まだ恐怖に呻きながら震え続けている老人がいる。 「それはわたしとマノンがします」  シダリーズがガラガラの声で言った。あの権高な調子で、気品に満ちた顔をしていた。 「あなたたちは、必ず執事親子を生け捕りにしなさい。逃がしてはなりません。絶対に、王国憲法のもとで裁くのよ!」  女神を見たと思った。  煤だらけのドレスを纏い、顔は恐怖と酸欠のせいで蒼白。頬も汚れている。それなのに、これほどまでに神々しい輝きを放つ存在が他にいるだろうか。  ギイはシダリーズの白い手を取り、甲に口づけして背を向け、そのまま扉へ走った。
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