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十七、姫君の帰路 - la Princesse retourne -
翌朝開かれた最後の朗読会には、今までで一番多くの領民が参加した。もともと小さな町だが、廃寺に入りきらないほどの人々がやってきて、シダリーズ姫との別れを惜しんだ。中には領主邸の事件で彼女たちに興味を持ったものも少なくなかったが、シダリーズは文字を識るきっかけになるのなら大歓迎だと笑った。
シダリーズがエラデールで朗読する最後の物語は、『エメネケアのクィントゥス』だ。
戦で親兄弟を失った少年クィントゥスが旅の途中で泉の怪物や数々の魔物と対決し、力と仲間を得、最後には将軍となって祖国を侵略した敵軍を打ち倒し、生まれ故郷に凱旋する。その後、クィントゥスは初恋の幼なじみを妻にし、故郷の王となる。
持参した本の中には、クィントゥスの本はない。朗読会で使ったのは、全てシダリーズが覚えていた内容を報告書用の料紙に書き起こしたものだ。
廃寺の一番後ろの壁際に、ギイはいた。
じりじりと灼けてしまいそうな視線で、シダリーズの唇が物語を紡ぐのに見入っている。
子供たちは英雄の冒険譚に目をキラキラさせていたが、シダリーズはクィントゥスが故郷へ凱旋してから生涯を終える最後の部分を読まずに終えた。
「物語の最後は、あなたたちが完成させるのよ」
これが、最後の勉強会だ。
子供も大人も、覚えた字でそれぞれの考えた物語の結末を書き始めた。彼らの物語が完成する頃までこの地にはいられないが、いつかそれらを目にする機会が訪れるかもしれない。
荒れ果てていた廃寺にはエラデールの男たちが作った本棚が並び、シダリーズの持ってきた本が数十冊、文字の順番に並べられている。
石の壁には文字の見本がタペストリーとして飾られ、ボロボロだった礼拝用のテーブルや椅子も、いつの間にか子供たちが手習いするのに丁度良い大きさのものに作り変えられていた。
エラデールの人々が学習に意識を向けた結果だ。
「不思議ね」
すっかりペンを持ち慣れた子供たちを眺めてシダリーズが言った。隣には、早くも彼らとの別れを悲しんで涙ぐむマノンがいる。
「学校を建てるために来たらこんな…とんでもないことになってしまって、とても学校を建てるところじゃなくなってしまったっていうのに、成果は予想以上だわ」
「はい!マノンもそう思います…!でも――」
「なぁに?」
微笑んだ主人の美しい貌を見たまま、マノンは唇を結んで複雑そうに笑んだ。何も訊かないことにしたのだ。毎日着替えを手伝っているマノンには、シダリーズの肌に残されたキスの痕跡がギイのものだと分かっている。数日前に下着に付いていた僅かな血の痕が示す意味も、口に出さないだけで知っている。
シダリーズが如何に好奇心が強いとは言え、半端な気持ちで殿方と深い関係になるようなことはないということも、十分過ぎるほど知っている。
だから、このまま離れてしまってもよいのかと歯痒い気持ちでいるのだ。せめて王都からの迎えが来るまで待ってはどうかと提案したくもなった。
しかし、答えは決まっている。敬愛してやまない獅子心姫は、迎えが来るのを待つような女性ではない。
「…いえ。領主の一件が片付いて、早く学校が建つといいですね。その時はお祝いに来ましょう!絶対に」
「そうね」
遠くで正午の鐘が鳴った。旅立ちの合図だ。
馬車を見送りに、ブリュノをはじめ、すっかり馴染みとなったエラデールの人々が集まった。別れ際に子供たちが手紙をくれたのには、さすがに涙を堪えきれなかった。
娼館の周りで走り回って遊んでいた子供たちは、このひと月の間に文筆家も驚くほどの成長を遂げている。
きっとエラデールは大丈夫だ。彼らなら、良い町を育ててくれる。
馬車へ乗り込むシダリーズのエスコート役は、ジルベールからギイが奪い取った。ジルベールはこの時、さっぱりきれいに髭を剃り、髪の手入れをして、領主邸に潜入していたときとは別人のように若々しくなっている。割り込まれたジルベールは可笑しそうにやれやれと肩を竦めて退いた。
馬車の中に腰掛けるなり、シダリーズは目を見張った。エスコートの役目を終えたはずのギイが身を乗り出して、馬車の中に片足を踏み入れたからだ。
シダリーズの胸が苦しくなるほどの強い視線だった。
「…あんたの言う通りだ。報酬を諦める必要はない」
そう言って、ギイはシダリーズの唇に触れるだけのキスをした。
不意打ちを食らったシダリーズは顔を赤くしてギイの顔を見つめ、名残惜しそうに頬に触れるギイの手を握った。
「そうよ。あなたは報酬を得て、エラデールをもっといい場所にするのよ」
ギイはシダリーズの指先にキスをすると、唇を吊り上げた。人を食ったような笑みを見せるくせに、目は熱く、優しい。
「あんたはもっと自分を誇れよ。王国の花も獅子心姫も、俺はどっちのあんたも好きだ」
どっと心臓が跳ねた。同時にちょっと恨めしくもなった。別れ際にこんな風に口説いてくるなんて、まったく質の悪い女誑しだ。
「そうね。獅子心姫も、悪くないかも」
あなたが好きというのなら。と言うのは、やめた。
馬車が走り出した後、シダリーズは窓の外をぼんやり眺めながら、頭の中では深い青の目が放った光彩を思い描いていた。涙が頬に伝って、胸元に落ち、淡い青のドレスを濡らした。
「マノン」
「はい、姫さま」
マノンは縁にレース刺繍の施されたハンカチをシダリーズに差し出した。
「恋って、苦しいものなのね」
「恋の苦しみを知ることも、実は幸せなことです」
「苦しいのに?」
「その尊い苦しみを知らないままの人だっていますもの。離れて苦しい思いをするのなら、姫さまはとびきり素敵な恋をなさったのですわ」
シダリーズは何も言わず、ハンカチで頬を拭った。
あの青い目のキラキラが頭から消えないうちは、きっとそうは感じられないだろうと思った。
それとも、いつか星空のように遠く美しい思い出になるのだろうか。
相変わらずガタガタと揺れる悪路を進み続けて数時間が経つ頃、シダリーズを迎えに来た王都からの騎士団十騎と合流した。シダリーズは彼らの体面を立てるため、自分たちの護衛として五騎を同行させ、あとの五騎はそのままエラデールへ向かってギイが行っている事件の調査と、王都から教師が派遣されるまで領民の文字の学習を手伝うよう命じた。
剣の腕だけでなく、頭脳も優秀なものたちだから、きっと助けになるはずだ。
シダリーズは携帯式の銀の筆入れからペンを取り出して、すっかり手持ちの分がなくなってしまった料紙の代わりに、持っていたハンカチにギイに宛てて文をしたためた。内容は、五人の騎士の紹介状だった。内容はごく事務的なものだが、涙を含んだハンカチを送ることになるとは、なんとも叙情的なことだ。シダリーズは少しばかりほろ苦い気持ちになりながら、騎士たちを送り出し、再び帰路についた。
エラデールへ来た時と同じ道を辿っているのに、まるで違う道のように見えた。
そして、半年が過ぎた。
花々の香りが風に乗って王都に広がり、道行く人々の衣装の彩りが柔らかな春色に染まっている。
シダリーズは相も変わらず、教育局役員を始め、エマンシュナ婦人協会‘メルレットの会’代表理事、王立アストレンヌ大学理事などの仕事に日々追われている。
今までと違うことは、シダリーズが獅子心姫の顔を隠さなくなったことだ。
エラデールから帰ってきたシダリーズが旅装も解かずに王城へ怒鳴り込んできたのには、生まれたときから彼女を知っている国王も流石に驚いていた。
側近のイサク・マジノを出せ、といきり立ったシダリーズを王妃が宥めなければ、イノシシ姫とか何か、ひどいあだ名がまた増えていたかもしれない。
「あの時のリーズは本当に格好良かったですよ」
とルミエッタ王妃がころころと笑ったのは、二人のお気に入りの店でジェラートを食べているときのことだ。
親友同士の彼女たちは、激務の合間を縫って互いに時間を合わせては、時々こうして庶民も足を運ぶような城下の人気店へデザートを食べに来る。安全な王都にいるとは言っても王妃と国王の従妹が出歩くのだから、相応の警備が必要だ。しかし、諸事心得ている護衛兵たちは女同士の会話を邪魔しないよう、他の客も大勢いる店の中に侍女を含む数名を配置し、残りは店の外で周囲を警戒している。服装も、往来を行く人々と変わらない。王妃とシダリーズも装飾の少ない淡色のドレスを纏って、それとなく街に溶け込んでいる。二人がこの店の常連として有名であり、飛び抜けて美人であると言うことを除けば、そこそこ完璧なお忍びだ。
「だって頭にきたんだもの」
シダリーズが唇を尖らせた。
「イサクったら、いくら内密な調査だからって陛下にも話していなかったのよ。勝手が過ぎるってものだわ。その上現地調達した間諜に調査を命じたまま協力もせず放置なんて、あまりに杜撰じゃない」
シダリーズがぷりぷりしながらチョコレートソースのかかったイチゴのジェラートを頬張った。
「ですが結果的にリーズのお陰で事件も明るみに出ましたし、調査団も派遣されたではないですか。イサクさんの行動はある意味でよいきっかけになったのだと思います。リーズも――」
と、ルミエッタ王妃は蜂蜜のかかったミルクのジェラートをスプーンで掬い上げながら、新月の空を思わせる黒い瞳を意味ありげにシダリーズへ向け、穏やかに目元を和らげた。
「素晴らしい出会いがあったのでしょう?」
「そうよ。たくさんね。エラデールはいいところだわ」
頬を赤くしたシダリーズが誰のことを考えているのか、ルミエッタ王妃には分かっている。
「ああ、そうでした」
ルミエッタ王妃は伸びやかに言った。
「エラデールといえば、諸々の事務的な処理が終わって、代表の方がご挨拶に見えるそうですよ」
「えっ」
シダリーズはハッと顔を上げた直後、むぅ、と恨めしそうに頬を膨らませた。頬が恥ずかしそうに染まっている。
「わざとらしい言い方!面白がってるわね?」
「滅相もないです」
そう言いながら、ルミエッタ王妃はにこにこしている。
「嬉しいのですよ。あなたの初恋の人ってどんな方か、とても気になりますもの」
「彼が来るとは限らないじゃない」
シダリーズは淑女らしさを忘れて大きな口を開け、ジェラートを頬張った。
そうだ。ギイが来るとは限らない。執事親子の不正と違法な薬物の取り引きが露見してからと言うもの、ギイは忙殺されているはずだ。
名ばかりの領主だったデュロン伯爵を穏やかな余生のために近隣の領地にある療養院へ移した後、デュロン伯爵の断片的な証言を元に新たに見つけた取り引きに関わる書類から関係者を洗い出すことに成功し、彼らの捕縛の指揮もギイが自ら執ったと、イサクから聞いた。
これだけの働きがあれば、イサクとの約定は十分に果たしたと言えるだろう。それだけに、エラデールを立て直そうという今、本人が領地を離れる時間などないはずだ。誰か代理のものを送ってくるに違いない。
(きっとそうよ)
シダリーズは心の中で自分に言い聞かせた。
期待が失望に変わってしまう前に自分を納得させる方が、賢明というものだ。
「ふふ、リーズ」
頬を丸くしたままのシダリーズを眺めながら、ルミエッタ王妃が朗らかに笑った。艶やかな黒髪を美しく結ってまとめていると年相応の成熟した女性に見えるのに、こうして笑った顔は、知り合ったばかりの十七歳の頃と同じだ。とても三人目の子供を懐妊しているようには見えない。
「わたしはこう見えて、けっこう賭けには強いのですよ」
まるで何度も賭け事をしているような口ぶりだ。シダリーズはちょっと可笑しくなった。
果たして三日後、賭けの結果を知ることになった。
エラデールの代表としてギイ・ニコラ・ビゼという男が王都アストレンヌへ入った。という報がもたらされたのだ。同時に、エラデールの件に関わった王族として、シダリーズも同席するよう国王から命じられた。
「どっ、どうしよう」
シダリーズは慌ててアストレンヌ城内のルミエッタ王妃の私室へ駆け込んだ。
「どうしよう」
二度目に口にした時は、ほとんど泣き出しそうな顔になっている。
「落ち着いてください、リーズ」
既に使者との接見に相応しい装いに整えたルミエッタ王妃は、部屋の隅に控える背の高い侍女に茶を用意させて、シダリーズにソファを勧めた。が、シダリーズはとても座っていられない。着慣れたはずの裾の長いドレスを長旅の荷物のように引きずって、長いソファの前をウロウロと歩き回っている。
「わたし、どう?」
なんてことを訊いてしまったのかしらと思った。これではまるで十代の少女だ。自分で自分に呆れてしまう。親友が優しい言葉を返してくれることを分かっていて口にするなんて、子供じみている。それでも止められない。
「きれいですよ」
シダリーズの予想通り、ルミエッタ王妃は慈愛に満ちた笑顔を見せた。
「嘘よ。ひどい顔してるもの」
今更、どんな顔をしてギイに会ったらよいのか分からない。次に会うときまでには、二人の関係はあのとき限りのものだったと割り切れると思っていたのに、この半年、まったくそんな風にはならなかった。わざわざ他のものに任せればよい仕事まで自分に課して仕事に没頭していたのは、余計なことを考えないようにするためだ。それでも、効果はなかった。
毎日、一日の始まりと終わりにはギイの優しいぬくもりを思い出してしまう。そして、恨んでいる王族の女を彼が本気で欲しがっているなんて有り得ないと自分に言い聞かせ、自分で自分の首を絞めるように苦しい思いをしながら涙を流すのだ。この間に数件の縁談も舞い込んだが、とてもそんな気にはなれず、すべて黙殺した。
「ふふ」
ルミエッタ王妃はシダリーズを優しく抱きしめた。暖かい季節に咲く花のような香りがする。そういえば、ギイもこんな風に暖かい匂いのする人だ。シダリーズが親友を抱きしめ返すと、子供をあやすように優しい手が背をポンポンと叩いた。
「恋をしているあなたは誰よりもきれいです」
さざ波のような親友の声がシダリーズの心を撫でた。
目が熱い。接見まで時間がないのに、目を腫らすほど泣いてしまいそうだ。
「聞いた話では、指先へのキスは、爪の先まであなたを愛しているという意思表示なのだそうですよ」
「あなたも陛下にされてるのね」
「もう、リーズ」
シダリーズは頬を染めて慌てる王妃に悪戯っぽく笑いかけたが、胸の内では心臓がとくとくと速く打ち、もう何か月も前にギイの唇が触れた指先が、その感触を思い出したように熱くなった。
「ねえ、リーズ。だいたいのことは、思うよりも単純です。たとえば幸せな気持ちになった時や悲しい時にいちばんにそばにいたい人がいるなら、それを言葉にしたっていいのですよ。それが届いたら、何か変わるかもしれません。変化を恐れないで、リーズ。わたしたち、たくさんの素敵な変化を経験してきたでしょう」
シダリーズはしばらくの間王妃にしがみついて俯いていたが、やがてズビ、と鼻をすすり、真っ赤に腫らした顔を上げて、部屋の隅に控えるマノンを振り返った。
「お化粧直し、手伝って」
マノンは涙ぐみ、満面の笑みで応えた。
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