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十八、姫君の野風 - la Princesse ressent -
謁見の間は広い。他国の使節団が百名の大群でやって来てもまだまだ余裕があるほどだ。
大理石の床の中央にはエマンシュナ王国の紋章である獅子が描かれ、奥の壇上に設られた獅子の玉座には、獅子王の名に相応しい金色の髪をした国王が座している。そしてその傍らには、女神を模った流線模様の美しい玉座がある。即位と同時に、国王が王妃のために造らせたものだ。ここに、黒髪の美しい王妃が、その細い腰を預けている。
壇上が輝いているのは玉座の荘厳さ故ではない。
国王テオドリック・レオネ・アストルは齢三十を過ぎた今も少年期に放っていた華やかさを失うことなく、年を重ねて思慮深さと渋みを増した麗しい姿は、見るものを魅了してやまない。
王妃キセ・ルミエッタ・アストルもまた、神秘的で嫋やかな佇まいの中に凛然とした空気を纏う優美な女性だ。
互いに深く愛し合い、王国で最も理想的な夫婦となったこの二人を、シダリーズは心から敬愛している。いつかこんな風に心から愛し合える人と結ばれたいと思っていたし、そういう存在と出逢えるとも思っていた。
しかしいつからか、そういう類の願いをおとぎ話のように感じるようになっていた。王族として公務に参加するようになり、政治の裏の世界を覗く度、漫然と繰り返される日常の政に倦んだ貴族たちの顔を見る度に大きくなるシダリーズの野心が、乙女心を凌駕していったのだ。
今も、男たちの思惑が渦巻く政の世界で自分の存在意義を探し続けている。
王国の花としてここに居続ける理由は、それだ。
人よりも恵まれたものをいくつも持って生まれてきたからには、それらを最大限に利用して王国の力になりたいと願い、行動してきた。
そして今、それと同じくらいに、欲しいと思うものができた。
「ギイ・ニコラ・ビゼ」
国王が明朗な発音で玉座から名を呼んだ。
ギイは謁見の間を囲む重臣たちの品定めするような視線の中、大理石の床に膝をついたまま、周囲のものが息を呑むほどの典雅な所作で顔を上げた。最初に視線を向けたのは、国王と王妃ではなく、十名ほどいる他の王族と共にその脇に立つシダリーズだった。
これだけで、身体中に血が奔る。鳩尾のあたりがザワザワと落ち着かなくなって、今すぐに逃げ出したい衝動に駆られた。今、シダリーズは王族の矜持だけで足を床に貼り付けている。
半年ぶりに見るギイは、変わらず森を疾駆する狩人のような荒々しさの中に清廉な魂を秘めた顔つきをしていた。衣装は、エラデールにいた時よりも少しだけ格式高いものだ。
地織りの青いマントを左肩に掛け、その下には黒いシャツに暗い色のベストを着て、細身のズボンの裾を狩猟用のブーツにしまっている。憎らしいほどの男振りだ。
国王とギイが交わす形式的な挨拶など、耳に入ってこなかった。自分の心音に身体の内側から耳を澄ませるので精一杯だ。
(ああ、でも、だめ…)
胸が苦しくて、ギイの姿を直視できない。シダリーズは意識的に焦点をずらして視界にギイを入れないようにした。それでも、その存在が側にあると、肌がぴりぴりと痺れる。
「――リーズ、リーズ」
王妃に小声で呼ばれて、シダリーズはハッと我に返った。
「はい…」
自分でも驚くほど声が震えた。子供の頃から外国の特使や王族とも交流してきた自分が、今までにないほどに緊張している。
レオネ王が威厳たっぷりの顔をシダリーズに向けた。この表情の裏に従妹への叱咤が隠れていることを、シダリーズは知っている。
「ギイ・ニコラ・ビゼの報告とそなたの見解に相違はないか、シダリーズ姫」
レオネ王が言った。
「ありません」
適当な返事だ。
何も聞いていなかったのだからそう答えるしかない。しかし、ギイの報告であれば信頼に足るのだから、堂々と胸を張ってもいいだろう。
「陛下も既にご存じの通り、ビゼ閣下はボンフィス親子の不正を暴き関係者の捕縛を果たした他にも、エラデールの財政の立て直しによく尽力しています。エラデールで最も人望篤いのはこの方だと、わたしが自信を持って申し上げますわ、陛下。イサク・マジノ閣下との契約通り、爵位と領地を得るのに十分に値します」
シダリーズは、ギイの視線を避け、国王と王妃の顔を交互に見た。
「…?」
二人ともなんだか怪訝そうな顔をして、互いに視線を交わし合っている。
「リーズ、たった今、ビゼ閣下は元々お約束されていた領地と爵位を辞退されたのですよ」
そっとルミエッタ王妃が言った。
「えっ」
シダリーズは思わずギイの方を向いた。エラデールで別れて以来、初めてまっすぐに目が合った瞬間だった。
距離は離れているのに、その目は以前と同じように、吸い込まれそうなほど強く輝いている。
「ビゼ家の悲願でしょう。あなたが何年も心を裏切り続けてまで執事の信用を得たのは、領地と爵位を取り戻すためだったのではないの?この好機を手にするべきだわ。あなたにはその価値があるじゃない」
声が震えるのを抑えようとしても、上手くいかない。時々声が上擦ってひどく煩わしかったが、それでも言わずにはいられなかった。
「エラデールには、あなたが必要なのよ」
「俺にも必要なものがある」
ギイは表情を変えずに言って、国王の顔を非礼とも取れるほどまっすぐな目で見た。
「国王陛下、先程申し上げたとおり、俺はシダリーズ姫殿下に王国政府からの報酬を約束されました。王国ができる限りのことで報いると」
国王はシダリーズを見た。悪戯を咎めるような目だ。シダリーズは頬を赤くした。
「確かに言いました」
シダリーズが認めると、王妃が楽しそうにくすくすと笑った。国王は神妙な顔でギイに問うた。
「ではそなたは、イサク・マジノとの約定である爵位と領地を報酬として受け取らない代わりに、何を望む」
「シダリーズ姫に――」
と言った瞬間、国王の眉間に不愉快そうな皺が寄った。王族の女を報酬として求めようとしているのであれば、不敬罪として即刻牢屋行きだ。が、ギイの意図は違った。
「――求婚する許可を賜りたい」
ざわ、と謁見の間が騒がしくなった。扉の前に立つ衛兵も、側近たちも顔色をなくしている。「まあ」と唯一喜色を浮かべたのは、ルミエッタ王妃だ。両手を祈るように組んで、うっとりと顔を綻ばせている。
「そなたは、何を――」
「あなた何を言っているかわかっているの?」
国王の言葉を遮って、シダリーズが声を上げた。怒声と言ってもいい。刺すような言い方だ。
「そんなの、わたしが拒んだら全部おしまいじゃない!今までの苦労を全部無駄にする気なの?爵位と領地を、こんな…とんでもない大博打のために捨てようなんて、正気と思えないわ!」
もうだめだ。完全に頭に血が上ってしまった。これが公的な接見であり、周囲に重臣たちの目があることも分かっていながら、止められない。
「この半年、俺が正気だったことなんてない」
ギイが言った。
今この男の顔を直視してしまったら、何もかもが変わってしまう気がする。親友は変化を恐れるなと言ったが、無理だ。自信がない。
だって、本当に正気じゃないとしたら?いつの日かやっぱり王族は嫌いだなんて言われたら。――
足を床に貼り付けていた矜持が、ガラガラと音を立てて崩壊した。
シダリーズはドレスの裾をたくし上げて、足をもつれさせながら脱兎のように走り出し、壇上の後方にある扉から飛び出した。
「あっ、リーズ!」
王妃が叫ぶと同時に、ギイが立ち上がってその後を追い、玉座と同じ壇上へ駆け上がった。
衛兵が槍を持ってギイを止めようとしたが、国王と王妃が手を上げて制した。
「感謝します」
ギイが気軽に言って王族の出入りする扉の向こうへ姿を消すと、レオネ王はハアァ、と大きな溜め息をついて玉座の高い背もたれに背を深く預け、王冠を気怠げに頭から外して近習に受け取らせた。
「まったく。勝手にしろ」
「勝手にさせるのですね」
ルミエッタ王妃が朗らかに言って夫の手を握った。公の場で国王の言質を取るつもりだ。
「そうするしかないだろう。俺が何を言ったところでリーズが自分の意志に反することをするはずがない。もうあれには好きにしてもらう」
「ふふ。獅子心姫の面目躍如というものです」
「それ、褒めてるのか?」
「勿論です。わたしはずっとかっこよいあだ名だと思っていましたよ。誇り高く信念に満ちたリーズにぴったりです」
王妃がニッコリ笑うと、国王はつられて苦笑し、妻の手を優しく握り返して、細い指の先にキスをした。
逃走したシダリーズは、自分でも城のどこを走っているのか分からないまま、小さな中庭を突っ切り、何代か前の国王の像が立つ太い柱の陰から柱廊に入った。
こんなに足が軽いと思ったのは初めてだ。全速力で走っても転ばずに自分の執務室がある別棟へ到達できるなんて、初めてのことだった。いや、そもそもこんなに長い距離を走ったのも初めてのことだ。
こんな状況でさえなければ、この功績を誇れるというのに、今の自分は誇りとは真逆の存在だ。なにしろ、尻尾を巻いて逃げているのだから。その上、何から逃げているのかもよく分からない。身体が勝手に走り出したのだから、説明のしようがない。
西陽の射す白い石造りの階段を駆け上がろうとしたとき、身体が宙に浮いた。
黒い袖に包まれた腕が腰に巻き付き、後ろへ引き寄せられる。背中に感じる体温と匂いが、ギイの存在を生々しく、近くに感じさせた。
「つ、つかまえないで」
「あんたの足が遅いのが悪い」
(ああ。この声。――)
シダリーズは動けなくなった。
どんなに冷たい言葉を吐こうと、声の温度はいつだって春の日のようだった。ずるくて、危険で、心を捉えて離さない、ギイの声だ。
腰を抱く腕がぎゅう、と締まり、首の窪みにギイの頬が落ちてくる。背中からどくどくと伝わるのは、ギイの鼓動だ。
「ひどい女だ。ハンカチ一枚で手切れにしようなんて」
「そんなつもりじゃなかったわ。あれはただの紹介状で…」
「あんたが言ったんだぞ」
甘く低い声が肌を伝う。
「物語の結末は自分で決めろと」
「それは、クィントゥスの話よ」
ギイがどんな顔をしているのか分からない。シダリーズは振り向こうとしたが、勇気が出なかった。今後ろを向いたら、今度こそ何もかもが変わってしまう気がする。
「あんたは俺をクィントゥスより勇敢な英雄だと言ったろ」
「言ったわ」
今だってその思いは変わらない。
「だから、結末を自分で選ぶことにした。あんなハンカチなんかで終わらされて堪るか」
「その結果がこの大博打?」
言っていることがめちゃくちゃだ。
しかし、ギイの声色は真剣そのものだった。いつものように人を食ったような笑みも誘惑するような息遣いもなく、ただひたすらに懇願するような悲壮さだけがある。
「本当は爵位と領地を得て、エラデールを立て直してから堂々と求婚しようと思ってた」
(あ。――)
シダリーズはエラデールでギイと交わした最後の言葉を思い出した。「報酬を諦める必要はない」とは、このことを言っていたのだ。息が止まりそうなほど、胸が苦しくなった。
「だがあんたに縁談があると聞いて焦った。一日離れただけでも堪らなかったのに、もう我慢の限界だ。あんたに求婚するために、全て差し出そうと思った。だが俺にはこの命と、報酬として約束された領地と爵位しかない。あんたを手に入れるには到底足りないが、機会を得るだけなら許されるだろ」
「…イカれてるわ」
そうとしか言えない。ギイにとって王国の間諜として働いていた時間は、苦痛だったはずだ。子供の自分から家族を奪い、救いの手さえ差し出してはくれなかった王国政府への恨みは簡単には拭い去ることはできないだろう。それなのに、それらに耐え続けた最大の目的を、たった一度の大それた求婚のために反故にするなんて。
「気が狂ってるわよ」
「あんたが俺を狂わせた」
肩にギイの吐息が掛かる。
風が春の野を揺らすように、シダリーズの身体が震えた。恐怖や怒りではない。紛れもなく、喜びが風となって身体の中に吹いた。
この先は危険だ。
シダリーズは腰を強く抱きしめているギイの腕に触れ、ごつごつしたその手に自分の手を重ねた。
「答えは?」
「…‘いいえ’よ」
冷たい声色で言った。
「理由は?まさか国王より地位の高い男じゃなきゃダメなんて言わないだろ」
十年も昔の、それもほんの少しの間の婚約者のことを引き合いに出してくるなんて、意地が悪い。しかし、不思議と不愉快ではなかった。自分は過去に大勢の女性と関係を持っただろうに、シダリーズの数少ない過去の男の影を気にしているのなら、それも悪くない。だから、当時自分から婚約者を振ったという事実はまだ教えてあげないことにした。
「あなたがどこかの国の王だったとしても、心の内を明かさない人とは一緒にいられないわ」
シダリーズはツンとして、ギイの手を身体から引き剥がし、階段を上がった。ギイに顔は見せない。
ギイはシダリーズの手を握って、後ろへそっと引き、立ち止まらせた。機会を得るだけと言いながら、逃がすつもりはないのだ。
「あんたが好きだ、シダリーズ・アストル」
シダリーズは、ようやく振り向いた。唇がむずむずと綻ぶのが、我慢できない。
「あんたの意地が強くて鬱陶しいくらいに清らかなところにも惚れてる。俺の命と、この先の人生のすべてを差し出してもいい」
二段低い位置に、ギイがいる。希うようにシダリーズの手を握り、あの吸い込まれそうな青い瞳でこちらを見上げている。
顔が熱くなり、心臓がさっきよりももっと暴れだして、視界がぼやけた。
ギイが階段を一段上がると、目線が近くなった。シダリーズよりも少しだけ上に、その端正な顔がある。
「愛してる。一日の始まりと終わりと、それから人生の終わりには、あんたといたい」
心臓が止まりそうだ。それなのに、鼓動が鎮まる様子はない。
「…わたしは王族よ。あなたを苦しめた王国政府の人間で、これから先もそれは変わらないわ」
「そんなの知ってる。姫君のあんたと何も持たない俺じゃ釣り合わないってことも承知してる。だから持ってるものを全部賭けた。――それに、物は考えようだ。リーズ」
ギイは悪巧みをするような顔でニヤリと笑った。
「王国が何者でもない男に花を奪われたら、それこそ屈辱だろ。最大の復讐になると思わないか」
シダリーズは目を見張った。涙も引っ込んでしまったほどだ。
「あなた、わたしを王国への報復の駒にする気なの?」
なんと傲岸な男だろう。今この場で、不敬罪として牢獄に送ることもできる。建物の外に控える衛兵に命じればよいだけだ。
(本当にそうしてやろうかしら)
ところが、シダリーズの怒りを面白がるように、ギイの目が輝いた。
「その代わりあんたも報酬を得る」
「どんな?」
つい、興が乗った。
「毎日、あんたへの愛に屈服し、足元に跪くギイ・ル・マルの姿を見下ろせるぞ」
シダリーズは弾けるように笑い出した。
張り詰めていたものが、すべてほどけてしまった。
ギイの目が優しく細まると、心に熱いものが溢れて、ゆっくりと大きな鼓動が響き始めた。頭の中で叫ぶ獅子心姫の声が聞こえる。
――手に入れるのよ。恋が愛に変わることを、恐れてはいけないわ。
「どうする?お姫さま。俺は罪人か、英雄か。あんたが決めろ」
シダリーズはいつもより近い位置にあるギイの首にしどけなく両腕を巻きつけ、権高に顎を上げた。
「狩人さん」
誘惑するような甘いシダリーズの声が、ギイの耳をくすぐる。
この時、ギイの目の奥が暗くなるのを、シダリーズは見た。
「わたしは自分が何者かを自分以外の人間に決めさせるような腑抜けは嫌いよ」
「そうかよ」
ギイの唇がゆっくりと弧を描いて、近付いて来る。
シダリーズの唇が綻び、ギイの唇がそれに触れた瞬間、世界が花で満ちた。ずっとこれを待っていた気がする。舌が絡まり合い、もっと深いところまで欲しくなる。
「英雄は花を摘むのに赦しを求めなくていいんだったな」
唇を触れ合わせながら、ギイが囁いた。
小さく開いた唇から溢れる愛のことばは、ギイの唇に奪い取られた。
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