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二、姫君の宿 - la Princesse reste -
ギイ・ルマレと名乗る男の屋敷は、領主邸から三十分もかからない程度の場所にあるという。しかし、道が悪く、ひどく馬車が揺れる。
馬車の外からは、ジャンと御者のジルベールがこんな場所をシダリーズさまに歩かせられないとか何とか話している声が聞こえてきた。丈夫な革のブーツを履いてきたのは正解だったようだ。
「ほ、本当に付いていって大丈夫なのですか?」
マノンが堪りかねて言った。
「大丈夫かどうかはわからないけど、ドラゴンの首を落とすにはドラゴンの背に登らないといけないでしょう」
「姫さまは勇者じゃないんですよ!」
マノンがいきり立つと、シダリーズはくすくすとおかしそうに笑い声を上げたあと、穏やかに微笑んで見せた。
「大丈夫よ。王国政府の役人に手荒なことをするはずがないもの。安心して」
マノンはホッと肩の力を抜いた。が、シダリーズは自分の言葉ほど楽天的ではなかった。王国政府の要請に従わず、代理のものさえも寄越したことのない領主が、一体どんな肚でいるのか、皆目見当もつかない。
「まずは、誰でもいいから教育がどれほど大切なものか理解してもらわないといけないわね。誰か味方になってくれないかしら…」
シダリーズはぽつりと呟いて窓の外を見た。
エラデールの地は、あまり豊かとは言えない。出発前に収支報告書を見たときは、エラデール地方の採算はそれほど悪くなかったと思ったが、実際の暮らしぶりはとてもそうは見えない。
領主邸に程近い町の中心地は長らく修繕されていない石畳が続き、多くの古びた商店や酒場が閉まり、かつて市場だったらしい場所は子供達の遊び場と化していて、そこから目と鼻の先の通りでは、まだ陽の高いうちから娼婦が客を引いていた。
「ギイ!今夜は来ないの?なんなら今からでもどう?」
「客がいるから無理だ」
馬車の外で、娼婦とギイ・ルマレが話しているのが聞こえてきた。
「残念。じゃあ明日は来てくれる?」
科を作るような甘い声だ。
「気が向いたらな」
ギイ・ルマレの声は素っ気ないが、なんだか期待を持たせるような含みがある。拒絶しているくせに、誘惑するような声色――まさしく女誑しといった感じだ。
馬車が娼婦を通り越したとき、窓の外の娼と目が合った。思ったより若い。鳶色の髪を美しく結い、胸元の大きく開いたさくらんぼ色のドレスを着て、シダリーズをぎろりと睨め付けている。
マノンは「なんて破廉恥なのでしょう!」などとぷりぷりしていたが、シダリーズは別のことを考えた。普通、夜に活動するはずの娼婦が昼から働かなければならないほど、生活が困窮しているのかもしれない。
ギイ・ルマレはその後も領内の人間に声をかけられては軽くあしらうような調子で応対していた。女だけではなく、男も多い。彼らは決まって若い男で、手に持つ農具が凶器に見えるような、いかにも柄の悪い不良といった風体だった。
(治安が良いとは、とても言えないわね…)
シダリーズは馬車の窓からその様子を窺い、溜め息をついた。
中心地から少し離れると広い農地がいくつもあった。人手に困っているようには見えないのに、実っている作物が少なく、随分前に耕したらしい土がそのまま放置され、雑草が茂っている場所も多く見られた。
この時期であれば農家の蔵などに収穫物が多く積まれているのが普通の光景だ。が、見たところどの家にも蓄えが少ない。
しかし、先ほど馬車の窓から見た領主邸はそうではなかった。領主邸を出入りする人夫が牛を引いて穀物を多く運び入れ、狩りの獲物らしき獣肉や毛皮を持ち込むのを、シダリーズは見ていた。
(冬に備えて食糧を一箇所に集めているのかしら)
そうでなければ――悪い考えが頭をよぎる。
シダリーズはそれとなく窓に顔を寄せ、前方を行くギイ・ルマレの後ろ姿を観察した。
彼がどういう人物なのか、見極めなければならない。
永遠とも思えるガタガタの悪路に揺られ続けた末、馬車は止まった。
「驚いたわ」
シダリーズはジャンの手につかまって馬車を降りながら、声を上げた。
ギイ・ルマレの屋敷は、まるで小さな古城だ。昔は砦として使われていた建物の一部なのだろう。
中央のエントランスを、左右から翼を広げるように階段が囲い、後方には木々に隠されるように円柱型の塔が立っている。が、石の壁は無数の蔦が這って建物を覆い隠し、門から屋敷へ続く石畳はどこもかしこもボロボロだ。使用人の出迎えもない。
(なんだかおとぎ話のお城みたい)
今にも魔術師や怪物が中から出てきそうだ。普段は絢爛な王都で美しく快適なものに囲まれているシダリーズには、目に新しい。
「本当に、驚きです」
マノンが言った。シダリーズとは違う意味だ。
こんなところに高貴な姫さまを連れてくるなんて、一体どれほど馬鹿にすれば気が済むのかしら。と、その顔が言っている。ジャンも、言葉にしないだけで不服そうだ。
「突然の訪問にもかかわらず逗留場所を提供してくださって、感謝します。ルマレ閣下」
シダリーズは礼儀正しく言って、下馬したギイ・ルマレに手を差し出した。しかし、ギイはその白い手に一瞥をくれただけで握手に応じなかった。
「領主の命令で仕方なくだ。俺の本意じゃない。俺に干渉せず、勝手に泊まって気が済んだらさっさと帰れ。迷惑だ」
「なんですって!」
と、声をあげたのはマノンだ。
「黙って聞いていればあなた、このお方を――」
「マノン、いいのよ」
シダリーズは朗らかに言ってマノンを諌め、ギイの手を自分から握って無理矢理に握手した。
「本意でないところを迎えてくださったのですから、ますます感謝しなければなりません。ですが、わたしたちがここを出ていくのは目的を達成した後です。それまではどうぞ、よろしくお願いしますね」
シダリーズは誰もが虜になる王国の花の微笑みを浮かべ、ギイの手を両手に包んだ。この顔を見せれば、大抵の人間は首を縦に振る。
ところが、この男は違った。
薄い唇を片側に吊り上げ、どこか蔑むような目でシダリーズに笑いかけた。
「俺がよろしくしたとして、どんな見返りがあるんだ?あんたがその身体で奉仕してくれるなら歓迎するが」
これにはさすがにジャンも腹に据えかねて、とうとう剣の柄に手をかけた。が、それよりもシダリーズが口を開く方が早かった。
「このご恩に対する報酬がご所望でしたら、王国政府からご用意します。可能な限り施して差し上げますわ、ルマレ閣下」
シダリーズはにっこりと優雅に笑って応酬した。このような挑発に乗るようでは、役目を果たせない。
しかし、予想外のことが起きた。
握手したままの手をギイが突然強く引き、シダリーズの身体はその腕の中に収まった。
抗議のために顔を上げると、肌が触れ合いそうなほど近くにギイ・ルマレの顔があった。どこか放埒さを匂わせる端正な貌に、悪事を企むような微笑を浮かべている。
「報酬なら、あんたがいいな」
シダリーズは顔色を変えた。これほどまでの狼藉を働かれたことは、今までにない。それなのに――
(この人、いい匂いがするわ…)
呑気にもそんなことを思ってしまった。そういう自分が、ひどく恥ずかしくなった。つい声を荒げそうになったが、シダリーズが取り乱す前にギイが手を離した。
背後でジャンの剣が、狼藉者の頸椎を狙っているからだ。
「度が過ぎます。これ以上の無礼は王国の騎士として、看過できません」
ギイは不遜に笑ってシダリーズから一歩離れ、同時にジャンも剣を収めた。
「まあ、せいぜい頑張ってくれ。領主を説得するのはおろか、会うのも不可能だろうがな」
シダリーズも、何事もなかったように優美な笑顔を作った。
「ええ。お心遣い感謝します、ルマレ閣下」
この日の夕刻。
「なんっなのよ…!あの、ギイ・ル・マル!!許さないわ!ああーっ!もう!なんなのよー!!」
シダリーズは疲労を理由にマノンとジャンを追い出した後、寝室として用意された部屋のほこりっぽい古びたクッションに顔を埋め、足をジタバタさせて叫んだ。こうしておけば、誰にも怒りの叫びを聞かれずに済む。
「見てなさいよ。このまま何もせずに諦めて帰るようなあまっちょろい小娘じゃないって言うのよ…!」
シダリーズはガバ!とベッドから起き上がると、先ほど部屋から追い出したマノンを呼びつけ、風呂の用意もしようとしないこの屋敷の使用人に代わって熱く蒸した布を用意させた。
マノンは玉のような肌を蒸した布でやさしく拭いながら、痛ましい思いでいた。国王の従妹たるシダリーズ姫君は、決してこのような扱いを受けてよい方ではないのだ。
「姫さま――」
「だめよ、マノン。ここにいる間はリーズお嬢さまと呼んで」
いつになく硬い声色にハッとしてシダリーズの顔を見た。いつも通り美しく穏やかな顔だが、どこか決然としている。
「リーズお嬢さま、香油も塗りましょうか」
「いいわね、そうしてくれる?後でジャンも呼んで食事を取ったら、早く寝ましょう。明日はあなたたちにお願いしたいことがあるの」
シダリーズは獅子心姫の顔を、優美な笑みで覆い隠した。
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