三、姫君の目 - la Princesse regarde -

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三、姫君の目 - la Princesse regarde -

 エラデールにやって来て初めて迎えた朝、シダリーズの行動は日が昇りきる前から始まった。  さっさと簡素なドレスを一人で身に付け、まだ活動を始める前の屋敷を歩き回ってこの屋敷の主人の寝室を二階の南側で見つけ、大胆にもその中にずかずかと押し入って窓を開け、しまいにはその質素なベッドに近付いて、眠っているギイ・ルマレから布団を引き剥がした。 「朝ですよ、ルマレ閣下――」  言いながら、すぐに後悔した。よく鍛えられた腹筋が寝衣のシャツの裾から覗いていたからだ。男性経験のほぼ皆無と言っていいシダリーズには、刺激が強すぎた。顔どころか、身体中が熱くなるほど動揺した。余りの恥ずかしさにすぐさまこの場から逃げ出したくなったが、足が動く前に「だめよ!」と頭の中の冷静なシダリーズが叫んだ。 (そうよ。こんなことで逃げてる場合じゃないわ。こんなの――) 「う…」  ちらりと視界に筋張った身体が入ると、途端に顔が熱くなる。シダリーズはギュッと目を瞑り、ぷるぷると首を振って、意を決したように胸を膨らませた。 (こんなの、何でもないって言うのよ!) 「閣下!起きてくださいます?」  声が上擦ったが、そんな些細なことはどうでもいい。  ところが、シダリーズの奮起も虚しく、ギイは眉間にぴくりと皺を寄せたものの、長いまつ毛を伏せたまま目を開ける気配はない。 「ギイ・ルマレ閣下」  もう一度呼ぶと、今度はごろりと寝返りを打って背を向けられてしまった。シャツの裾が捲れて背中の筋が覗く。シダリーズはこれも見ないように薄目を開けた。男性の身体を目にして恥ずかしくなるなんて、十代ならおぼこい娘で済むだろうが、三十路までいくつもない年頃の女がそのようではかえって不埒というものだ。  だんだん自分の不甲斐なさに情けなくなったシダリーズは、痺れを切らせてギイの肩を掴んだ。 「もう!起きてくださ――」  一瞬のことだ。  相手の肩を掴んだと思っていた手はいつの間にか逆に掴まれ、視界には朝陽を受けた暗い木目の天井があった。視線を泳がせた先には、ギイ・ルマレの顔がある。  自分の上にいる男は、女性を虜にできるという男の自信に満ちた、どこか淫蕩さを感じさせる笑みを浮かべている。 「きっ――」  と、シダリーズが悲鳴を上げるより先に、ギイの長い人差し指がその唇に触れた。 「シィ。こんなところを見られたら困るのはあんただろ、お育ちの良い公女さま」  起き抜けの掠れ声が耳に触れ、ぞくりとシダリーズの肌を震わせる。  それもそうだ。と、言いなりになったしまったことに動揺して、シダリーズは自分の上に覆い被さっている男の胸を拳で叩いた。 「ひどいな。俺を襲いに来たのは誰だ?」  思い切り叩いたはずなのに、びくともしない。シダリーズは恥ずかしさと情けなさで顔を真っ赤にし、もう一度、今度はもっと強く胸を殴りつけた。 「思い違いも甚だしいわ!どきなさい、ギイ・ルマレ!」  ギイは「降参」とでも言うように両手を挙げてシダリーズから離れたが、どこか人を食ったように笑っている。シダリーズはますます腹が立った。 (王族という身分を明かせばちょっとは態度を改めるかしら?)  と思ったが、ダメだ。それでは獅子心姫などと揶揄されてきた今までと変わらない。  シダリーズはベッドから立ち上がって乱れた胸元の襟を直し、広がりの少ないドレスの裾を払って、ベッドに腰掛けながら薄く笑っているギイに向かって権高に顎を上げた。 「あなたにこの町の案内を要請します。これは王国政府の使者としての申し入れです」  ギイは片眉を上げ、唇から笑みを消した。どうも気に入らないらしい。 「あんたらがどう足掻いたところで、ここは変わらない。無駄だ」 「それはあなたの見解であって、わたしの意見は違います。それに――」  シダリーズは豪胆にも、たった今自分をベッドに引き倒した男の顎を掴み、上を向かせた。ギイの青い目に、愉快そうな光が踊る。シダリーズは身体の内側に奇妙な熱が走ったことに気付かない振りをして続けた。 「…あなたは王国政府の要請を拒否できないわ」  ギイは無言でシダリーズを見つめた。この数秒が、シダリーズには何十分にも感じられた。あまりの緊張に、手が震えている。慣れないことをするのではなかったと少なからず後悔したが、このまま引き下がれない。エラデールを知るためには、顔が広いこの男の協力を得るしかない。 「ふっ」  シダリーズは耳を疑った。  この決死の協力要請を、笑われた。ものすごく胃が重くなり、気力が沈みかけたそのとき、ギイが立ち上がってシダリーズの手を握り、ニヤリと笑った。 「いいぜ、お嬢さま。エラデールを見せてやる」  シダリーズは握られた手を振りほどくのを忘れ、うっかり喜びを表情に出してしまった。  手の甲にギイの唇が触れた時になってようやく我に返り、サッと手を引っ込めた。 「協力に感謝します。ギイ・ルマレ閣下」  声色だけは平静を装った。  馬での移動は、シダリーズにとっては苦痛だ。  何故なら背中が密着するほどにギイ・ルマレが近くにいる。男性と体温を感じるほどに近付いたことなど、これまでにない。 「馬が怖いのか?」  耳の後ろから聞こえるギイの声色は、どこか愉しそうだ。  シダリーズはひどく恥ずかしくなった。後ろを振り向くことができない。 「怖くないわ。だけど、一緒に乗る必要はないと思います」 「あんた一人で乗れないだろ?」  馬鹿にしたような言い方だ。事実だが、腹が立つ。シダリーズはムッと頬を膨らませた。 「馬車という手段もあったじゃない」 「馬車」  ギイは嘲笑った。 「エラデールを知りたいと言った人間が、窓から景色を覗くだけか?」  これも道理だ。だが言われっぱなしでは気が済まない。シダリーズは完璧な貴婦人の微笑を作った。 「あなたが轡を取ってくださってもよかったのよ」 「なんで俺が馬丁みたいな真似をしなきゃいけないんだ。俺はあんたの小間使いじゃないんだぞ」 「お似合いじゃないかしら」  シダリーズは僅かに後ろへ首を傾け、唇を吊り上げて見せた。 「権高な女は嫌いじゃないが――」  吐息が首筋を舐める。シダリーズの身体の中に不可解な熱が奔った。 「俺を使いたいなら対価を払うことだ」 「そのつもりです。昨日申し上げた通り、お望みなら王国政府から相応の報酬を差し上げるわ」  言い終わるより前に、後ろから顎を掴まれた。バランスを崩して後ろへ倒れ込んだ瞬間、視界いっぱいにギイ・ルマレの剣呑な笑みが広がった。 「その言葉、忘れるなよ」 「…手を離しなさい。ギイ・ルマレ」  口でそう言いながら、シダリーズの頭は違うことを考えた。 (まただわ)  瞳の青に吸い込まれそうだ。髪より少し濃い色の睫毛が、弧を描く切れ長の目を縁取り、粗野な言動とは全く別の印象を持たせる。思慮深く、聡明で、優しい。それに、心を乱すほどに魅力的な――  はっ。と我に返り、シダリーズはぷるぷると首を振った。  その瞬間に、ゆったりとギイの目が弧を描いた。 「ふ。あんた可愛いな」 「えっ!?きゃ、あっ――」 「おっと」  慌てて馬からずり落ちそうになったシダリーズの腰に、ギイが太い腕を巻き付かせて支えた。シダリーズはますますパニックに陥った。顔が燃えるように熱いのは、そのせいだ。 「はっ、離して!」 「今離したら落ちるぞ」  ギイは機嫌よく笑い声を上げながら、強い力でシダリーズを支えている。 「うっ。ちょ、ちょっと、ちょっと待って…」  シダリーズはばくばく打つ心臓を持て余しながらギイの腕にしがみつき、にじにじと尻を動かして、やっと体勢を立て直した。ふう。とひと息ついて鞍を掴んだ後、急に恥ずかしさが襲ってきた。  それからはずっと後ろを向くことができず、ただ背中にどこか機嫌よさげなギイの空気とむずむず落ち着かない体温を感じながら、町を観察することに神経を集中した。  この日の視察でわかったことは、エラデールの人々はほとんど文字が読めないということだ。  夕陽が沈みかけるエラデールの痩せた地を馬上から眺め、シダリーズは無言でギイを振り返った。 「…あなたはどうして読み書きができるの?」  ギイは深刻に問いかけたシダリーズの顔を、眉間に深く皺を刻んで見つめ返した。  山々の向こうへ去ろうとする西陽が、乾いた土の上に馬上の二人の影を長く伸ばしている。
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