四、姫君の問い - la Princesse demande -

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四、姫君の問い - la Princesse demande -

 ギイは不思議な生き物を見るような思いで目の前の女を見た。  多少、後悔もある。この女を自らの縄張りに入れるべきではなかったかもしれない。  王国政府の使者であるということを誇らしげに語るこの貴婦人に少しの敬意も示さず、雑に扱えば怒って出ていくだろうと思っていたのに、とんだ見当違いだった。 (扱いにくい女だ)  誘惑すれば少女のように耳まで赤くして動揺する癖に、馬上から領地を観察する彼女はまさしく王国に忠実な官吏以外の何者でもなかった。  気になる建物や人物を見つければ逐一馬を降りたがり、その度にギイは彼女が下馬するのを助けた。この七面倒臭い作業が苦ではないことが唯一の救いだ。このリゼット・メルルと名乗る女に興味を引かれ始めている。  彼女が話しかけた領民は、少なくない。  五歳から十五歳くらいの子供たちが数人、畑仕事に勤しむ若い男女や、台所仕事の合間に家の外で立ち話をする母親たち、切り株で日向ぼっこをする老人など、この土地で暮らす様々な人々だ。  話題は、ギイが拍子抜けするほど簡単なことだった。日々の暮らしのことや、子供たちは毎日どんなことをして遊んでいるか、家族の誕生日はどう過ごすかなど、どれも他愛ない。  その間、ギイは離れた場所で話しかけてくる顔見知りと談笑しながらそれとなくその様子を観察していた。邪険にされているにも関わらずリゼット・メルルがわざわざ自分を同伴者に選んだ理由は、明白だ。 (俺を利用してる)  ギイはおかしくなった。‘リーズ’嬢は可愛い顔に似合わず、なかなかやり手だ。この地に来て一日足らずで、閉鎖的な気風と多くの領民たちの内向的な特性を理解したのだろう。  貧しく閉鎖的な土地に縁もゆかりもない者――それも、ひどく身なりの良い貴婦人が現れれば、当然の如く警戒される。口をききたがる者は多くないだろう。  ところが顔の広いギイが一緒にいれば、彼らの警戒心を解きやすい。それも、わかりやすく領主や政治について探りを入れるのではなく、領民一人一人の生活や習慣を知ろうとしているような話しぶりだった。いかにも話好きで好奇心旺盛な、無害な娘であることを相手に巧く印象付けている。  しかし、ギイの関心を引いたのはそれだけではない。  地味ながら明らかに上等なドレスの裾を泥だらけにして畑仕事を手伝ったり、粗末な農家の軒先で特製のハーブティーを馳走になって心から喜んで見せたり、本気でこの地を理解し、馴染もうとしているらしい。  子供たちと草原に転がって遊んでいたことにも、驚いた。走るとすぐに足がもつれて転びそうになるのを子供たちに笑われて、本人もおかしそうに笑い声を上げた。  ギイの二十七年の人生で構築された貴婦人や役人といった種類の人間は、こうではなかった。 「人に取り入るのが上手いんだな」  これは多少、意地が悪かった。勿論、怒らせる意図もある。  しかし、リーズ嬢は嫌な顔を微塵も見せず、朗らかに笑った。 「そう見えるなら嬉しいわ」 「褒めたんじゃない」 「わかっているわ。あなた、わたしをわざと怒らせて追い出そうとしているのでしょう」  ギイは眉を開いてニヤリとした。 「バレてたか」 「軽薄そうで、案外策士なのね、狩人さん。愛読書は兵法書かしら」 「俺が好きなのは歴史書だ。『エメネケアのクィントゥス』、知ってるか?子供の頃はよく図書館で好きな場面を書き写して、家に帰ってからも何度も読み返した」 「勤勉な坊やだったのね。クィントゥスはわたしも好きよ。女性に対して節操がないところは好きじゃないけど、敵に侵略された故郷を救った英雄だもの。素敵よね。それに、彼の戦略や思想は興味深いわ」  リーズ嬢はふっくらした唇を吊り上げて、笑った。しかし、すぐに物憂げな表情になり、夕陽が沈むエラデールの町をぼんやりと見回した後、鏡の向こうの世界を覗き込むような目でギイの目を見た。 「あなたはどうして読み書きができるの?」  ギイは言葉を失った。  しまった、とも思った。  この女は、決して長くはないこの地の人々との会話の中で、エラデールのほとんどの領民が文字を書くことはおろか読むこともできないということを知ってしまったのだ。そして、今の自分との会話で感じた不自然な部分を見て見ぬ振りはしないはずだ。 「今日、エラデールの人たちと話してわかったの。この土地の識字率はあまりに深刻だわ。もっと貧しい農村でも半分の人は読み書きができるもの。けれど、ここではお年寄りも、親世代も読み書きができないわよね。違うかしら」  ギイはいかにもそれが何でもないことであるかのように鼻で笑って見せた。 「それがここでの生き方だ。子供の時から働いて、一族中で家を切り盛りする。勉学よりも仕事優先だ。字なんか読める奴に読ませておけばいい」 「レオネ国王陛下とルミエッタ王妃陛下の望みは――」  と、リーズ嬢はその名を誇らしげに語った。 「この国をもっと豊かにすることです。そのためには、教育が必要不可欠なの。すべての子どもたちと、勿論大人にも、学習や研究の場を多く与えたいと考えているわ。わたしを含む教育局の者も同じ考えを持っています。だから、この地に読み書きを教える学校を作りたいの。今のままでは、畑は枯れたまま、人々は貧しいままだわ」 「ここでの生き方を否定する気か」  ギイは眉を顰めた。 「違うわ。ここをもっと良い場所にできると言っているのよ。知識は、翼なの。子供たちが大きな世界に飛び出すためのね。そういう子たちが成長して、この町をもっと豊かにしてくれるわ。絶対にもっといい場所にできる。だから、学校が必要なの」  木漏れ日を思わせるようなハシバミ色の目が、夕陽を受けて黄金に輝いている。  不思議な引力に巻き込まれるような感覚だ。ギイは柄にもなく鼻白んだ。やはりこの女を自分の縄張りに入れるべきではなかった。 「俺は協力できない」  殊更不機嫌な声色で言った。が、リーズ嬢が引く様子はない。 「もう遅いわ、ギイ・ルマレ閣下。あなたはわたしを馬に乗せた時点で、教育局の計画に加わっているのよ」 「違うな。俺がしたのは案内だ。それ以上でも以下でもない。あんたが言ったんだぞ。‘案内を要請する’ってな。俺は王国政府の役人の要請に従って町を案内した。あんたは俺が一度手助けしたことで味方に引き込めると思ったかも知れないが、そんなに甘くない。役人が詐欺師みたいなことを言うのは感心しない」  む、とリーズ嬢が悪戯を咎められた童女のように僅かに唇を尖らせたのを、ギイは見逃さなかった。 「でも――」 「いや、ここまでだ。俺はもう手を引く」  それほどの身分でないにしても、ギイにもエラデールにおける彼なりの立場がある。これ以上よそ者に協力して名を貶めるのは、得策ではない。 「いいわ」  リーズ嬢はツンと細い顎を上げた。 「なら、あなたの世界を教えて。普段行くお店や、一緒にいる仲間たちも」 「それも要請か?」 「いいえ。これは個人的なお願いだから、拒否したければ、それでもいいわ」  好機だ。と、ギイは思った。  普段つるむような連中は口も柄も悪いし、何をどう考えてもこの育ちの良さそうな女とは文化がかけ離れている。 「いいぜ、お嬢さま。俺の世界を教えてやるよ」  ギイの目論見は、外れた。 (くそ、やめておけばよかった)  と、後悔せざるを得ない。  あろうことかお育ちの良いリゼット・メルル嬢は違法な小賭博場と化した酒場の隅で、見るからに粗野なギイの悪友たちと一緒になってカードに興じている。 「またわたしの勝ちですね」  リーズ嬢は声を弾ませてテーブルの中央に高く積まれたコインを自分の前へ集めた。 「そりゃないぜ」 「勝利の女神が自分で戦うんじゃ、俺たちに勝ち目はないな」  などと軽口を言って、若者たちは笑い声を上げた。ギイは、敢えて離れたカウンターに座って遠巻きにその様子を観察している。周囲の客も粗暴な田舎者ばかりで店の中はどこも煩く、おまけに堂々と娼婦が客を引っ掛けに来る。交渉が成立すれば、階上にある粗末な客室で事が始まり、時には娼婦の喘ぎ声が階下の酒場まで響いてくる。王都から来た上品な貴族のお嬢さまにはとても耐えられない場所だろうと思ったのだ。 (詰めが甘かった)  妙に順応力の高いリゼット・メルル嬢をエラデールから追い出す計画を思案し始めたギイの元へ、鳶色の髪の女が現れた。 「ギイ、一人ならあたしと遊びましょうよ」  赤いドレスの大きく開いた襟から覗く豊かな胸をギイに押し付けるようにして、女は後ろからギイに抱きついた。 「悪いな、コリーヌ。今日も来客中だ」 「それって、あのお上品な子?」  (おんな)が冷ややかな視線を向けた先は、口元を小さな手で隠してくすくす笑いながら粗野な男たちとテーブルを囲むリーズ嬢だ。 「ああ」 「ふぅん。でもあの子、あなたがいなくても平気そうじゃない。お守りは何人もいらないでしょ?」  ギイはコリーヌ嬢の口付けを頬に受け、恋人の機嫌を取るように笑いかけると、ベルトに括り付けた革袋から銀貨を一枚取り出して白い手に握らせた。 「事情があって目が離せない。ここで一緒に飲んでくれるか?お前とならベッドの上じゃなくても十分楽しい」  すっかり機嫌をよくしたコリーヌ嬢が店主に酒を注文する間、ギイはリーズ嬢を見ていた。どうもあれは、ころころと声を弾ませて本当に楽しんでいるらしい。しかし、問題はここからだ。酒が進んで男たちが荒っぽい言動を取り始めれば、きっと状況は変わるだろう。  酔った男に絡まれることなど日常茶飯事の酒場の女たちは、そういう時のあしらい方を知っている。しかし、王都のお嬢さまはそうではないはずだ。彼女の気丈な顔も崩れるに違いない。そうなれば、助け船を出してやり、ほら見たことかとエラデールから追い出せばよいのだ。  ほどなくして好機は訪れた。 「お嬢さんの手相を見てやるよ」  と、顔を真っ赤にして酔っ払った若い男がリーズ嬢に接近したのだ。呂律も回っていない。ギイはコリーヌ嬢が話す他の客の噂話に相槌を打ちながら、一方でそれとなくリーズ嬢の様子を観察した。 (そうだ。嫌がって、怒れ)  内心でほくそ笑んだ。生意気で権高なリゼット・メルルに助けを乞われるのは、痛快だろう。  しかし、リーズ嬢は動かなかった。手相占いにかこつけて手をベタベタ触られても、男が告げるでたらめな結果にいちいち驚いた様子を見せ、どこで覚えたのかとか、この指にはどんな象徴的意味があるのかとか、楽しそうに訊ねた。腰に手が回ってきたときにはさすがに怒るだろうと思ったが、それでもリーズ嬢が怒りを露わにすることはなかった。それどころか―― 「あら、ムシュ。女性と距離を縮めたいのならダンスに誘うといいわ。ただし、礼儀正しくなさってね」  などと言って、まんまと紳士的にダンスに誘わせてしまった。それを真似した他の男たちが次々にダンスに誘うので、今まで賭博をしていた場所が一変してダンスのレッスン場になっている。 「まるで猛獣遣いだな」  思わず口に出た。自分の声を聞いて初めて、コリーヌ嬢の話を聞いていなかったことに気付いた。隣に視線を移すと、案の定、コリーヌ嬢が小さな唇を尖らせ、ネコのように吊り上がった目でこちらを睨めつけている。 「あたしよりあの子に夢中なのね」 「客人が問題を起こすと俺のせいになるからな」 「お金だけ渡して仕事もさせてくれないなんて」 「いい客だろ?」  ギイは悪びれもなくニヤリと笑った。  自分の顔が女にどう映り、その言動が女をどうさせるか、ギイは分かっている。世慣れた女なら追いかけたがり、初心な女は逃げたがるものだ。  コリーヌは前者。――今、熱烈に唇を重ねて自分に振り向かせようとしてきたことも、計算通りだ。 「全然よ。でもそこが好き」  ギイはしどけなく膝に乗ってくるコリーヌを抱き止め、もう一度淫らな口付けに応えた。
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