七、姫君の学び - la Princesse apprend -

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七、姫君の学び - la Princesse apprend -

「くそ」  ギイは扉の外で小さく毒吐いた。  無視し続ければそのうち音を上げるかと思ったのに、あの女はそんなことでは諦めなかった。  自分の考えが甘かった。というより、シダリーズ姫が規格外なのだ。ふつう、よく知らない男に手を出されそうになったら嫌がって二度とその場所に近付かなくなるものだ。そこらへんの娼婦や肝の据わった町娘ならまだしも、蝶よ花よと育てられた王族の娘なら、尚更そうあって然るべきだ。  あの夜、酒場の外で唇を奪ったのは、突発的な出来事だった。  荒っぽい男たちに見せたあまりに無自覚な言動に灸を据えてやるつもりだったし、ずけずけと人の心に土足で踏み入ったことに対する個人的な意趣返しのつもりでもあった。  誰とも深く関わろうとしない孤独な人間でいることを望んでいると指摘されたとき、初めて誰かに外面を剥がされたような気分になった。  そういう衝撃と苛立ちが、その場限りの衝動をギイに起こさせた。それだけのことだ。そうでなければ、王族の女に手を出すなど命知らずな真似はしない。  しかし、シダリーズはそれでも折れなかった。結局、かき乱されたのは、自分の方だ。  それだけではない。シダリーズ姫は驚くべき行動力を見せた。たった一日の視察で集会に丁度よい廃寺を見つけ、その次の日には子供が多く遊んでいる場所に目星を付けて声を掛け、その親たちまで巻き込んで朗読会を始めたのだ。  ギイは、現場に行っていない。  しかし、その翌日には夜の酒場でもその話題を耳にすることになった。肯定的な意見だけではない。中には「育ちのよいお嬢さまのきれいな発音に興奮する」などという下卑た目的で参加する者もいた。  そういう時、ギイはわけもなくそいつの顔を殴ってやりたい衝動に駆られた。が、ギイはこの地における顔役のひとりでもある。些細なことで喧嘩沙汰を起こすことはできない。苛立ちを押し殺しながら、鼻で笑うのみにとどめた。  領主邸に出入りする者たちの中にも、同じ話題が広まっていた。  王国政府から派遣された教育局の令嬢が廃寺を拠点に勝手な振る舞いをしている。と言う内容だ。お嬢さまの暇つぶしだろうというくらいにしか考えていない者もいたが、一部の人間は警戒し始めた。そういう者たちが、評判を上げ始めた公女の朗読会及び勉強会に行くのをやめるよう、領民の一部に圧力をかけていたことも知っている。が、ギイはそれも捨て置いた。これで無駄だとわかれば、リゼット・メルル嬢ことシダリーズ姫も王都へ帰る気になるだろうと期待したからだ。  彼女の正体は、最初からわかっていた。  ギイはエラデールで一番の情報通だ。教育局の役員としてシダリーズ姫が王妃の推薦によって任命されたことも、彼女がその可憐な容貌に似合わず猛々しい気性から獅子心姫と呼ばれていることも、知っていた。 (しかし、リゼット・メルルって)  仮名としては、あまりよろしくない。  シダリーズ姫がエマンシュナ婦人協会‘メルレットの会’会長であることは、彼女が教育局の役員であることよりもずっとよく知られているから、メルルという仮の姓からシダリーズ姫を連想することは容易だ。‘リゼット’に至っては、その愛称‘リーズ’が親しい者からの愛称であることは、王国ではあまりに有名な話だ。  別に、嘲って騙された振りをしていたのではない。  相手が王族であることを隠すのなら、相応の対応をした方が自分にとって有利に事が運ぶからだ。  十日もの間、誰も相応の礼儀を示さず、手を貸さなかったにも関わらず、シダリーズがこの地を去ることはなかった。見ている方が疲れるほどだ。しかし、疲労の限界が来ていたらしい。  早朝のことだ。たまたま、彼女の客間の前を通りかかった。  主人を気遣う侍女の声が聞こえたことで、小さな異変に気付いた。昨夜、浴室に向かう彼女を見かけたときも、顔色がひどく悪いのが気に掛かっていたのだ。  様子だけでも見ようと静かに扉を開いたとき、目の前でシダリーズが足元から崩れ落ちた。床に頭を打ち付ける前に身体を抱き止められたのは幸いだった。  侍女は、ギイを責めた。‘姫さま’が身体を壊したのはギイが礼を尽くさないためだとか、領主が不忠であるためだとか言って散々感情的に詰ったが、騎士は眉の下を暗くしてそれを止めた。 「姫殿下を説得できないわたしたちに責任があります。それに、姫殿下はこの方を責めることを望まないでしょう。ご自身の選択を誰かの責任になど決してされない方です。どうか、マノンの無礼を赦されたい。ルマレ閣下」  ギイはこの騎士に腹が立った。理由は、よくわからない。  あの夜、酒場で起きたことは、考えないようにしていた。  自分らしくもなく、全くもって衝動的な行動だったし、そういう自分が疎ましかった。シダリーズ姫は、些細な悪戯などと軽侮したが、次に同じ事が起きないとも言えなかった。そしてそれは、自分にとってはこの上なく屈辱的なことだ。  だから、騎士と侍女が薬を探しに屋敷を出ている間に最後の世話を焼いてやることにした。カモミールの茶を用意し、王都に遣いを送る。姫君が出張先で体調を崩して倒れたとなれば、否が応にも王都から迎えが来るはずだ。疲労だけならまだしも、本当に病気にでもなられたら領地が連帯で罰を受けることになる。  そうなっては、あと少しで区切りを付けられそうなところまで来ている自分の仕事が水の泡になってしまう。  そして、ことは起きた。  無理が過ぎて倒れた後に目覚めた姫殿下が少しは殊勝になっていることを期待したが、まったくそんなことはなかった。  それどころか、激しく乱された。  胸倉を掴まれて柔らかい唇が触れ、小さな舌が躊躇するように唇をちろりと舐めた時、頭の奥で何かが弾けた。  この女を、自分のものにしたいと、身体が叫んだ。強く掴んだら折れてしまいそうなほどに細い腰を強い力で抱き寄せ、そのままベッドへ押し倒した。薄い寝衣の布の奥から伝わる女の体温が、理性を奪った。 (何をするつもりだ)  自問したところで、答えは明白だ。そしてそれは正しくない。  しかし、止まらなかった。隙間をなくすように唇を重ね、酸素を求めて開いた唇から舌を挿し入れて内部を全て味わい尽くすように絡め取り、気位の高いこの女に小さな悲鳴を上げさせることに成功した。  初めて唇を奪った時からわかっていた。舌の根から先へ撫でるように触れると、シダリーズは甘ったるい吐息を漏らす。  背中に手のひらを滑らせ、指の腹に下着の線が触れると、それを破いてしまいたくなった。頼りない肩甲骨の隆起を通り、絹糸のような長い髪の下を這い上がってうなじへ触れようとしたとき、浮いた唇の隙間から女が勝ち誇ったように言った。 「獣の姿を暴かれた気分はどう?狩人さん」  この女は、自らを餌にすることで男の獣性を暴き、嘲りたいのだ。世間知らずと侮られたことへの意趣返しに違いなかった。  屈辱だ。だが、それよりもこの高貴な女の荒い気性が気に入った。獅子心姫とは、言い得て妙だ。 (それなら、どこで音を上げるか試してやる)  ギイの闘争心も強い。こと色事に関しては、相手に翻弄されたまま終わりにできるほど、自尊心の矮小な男ではない。 「そんなことで俺を飼い慣らせるとでも?」  そう言って見下ろしたとき、シダリーズは一瞬だけ怯んだように唇をキュッと結んだ。 (ああ――)  この唇に触れ、こじ開け、舌を入れて、自分のものを含ませたい。  これは、絶対に手の届かない王族の女に対しての劣情なのか、或いはシダリーズ・アストルへの欲望なのか、わからない。この先は危険だ。  しかし、この時のギイにはやめる理由がなかった。  なぜならば彼女もその先を欲している。ハシバミ色の目の奥に、野生の獣がひどく警戒しながら新しい獲物の匂いを嗅ぎに近づいてくるような類の好奇心が、見え隠れしているのだ。  シダリーズの寝衣を引き下ろしたとき、その奥からこぼれた温かく柔らかい乳房に、不覚にも胸が騒いだ。女の裸なんて飽きるほど見ているのに、彼女の身体は他と違っていた。手の中にぴったり納まるほどの慎ましやかな丸い胸は、ギイの愛撫に素直に反応した。  重ねた唇の下でシダリーズが甘く呻き、性的な興奮が肌を熱くした。獅子心姫の目論見は成功だ。その身体を使ってとうとう狩人を獣に変えてしまった。無垢な唇を貪る自分は、誰がどう見ても浅ましいけだものだった。  唇を解放して初めて彼女と視線が絡んだとき、シダリーズが我に返るのを見た。後悔するように噛み締められた唇が、嗜虐心を煽った。 「悪い遊びを始めたのはあんただぞ」  そうだ。始めた側が先に下りるなど、ルールに反している。  ギイは戸惑いを見せ始めたシダリーズが逃げられないよう腕を押さえつけ、乳房の小さな先端を啄んだ。甘い声を漏らし、枕を掴んで快感を耐えようとしている姿に、ひどく血が滾る。この女は肌に与えられる快感をまだ知らない。自分と同じ年齢の彼女が男を全く知らないとは考えにくいが、身分を考えればまったく経験がなかったとしても不思議ではなかった。 「あっ、だめ…」  喘いで身をよじったシダリーズの乳房の中心が、舌の上で硬くなっている。 「だめかどうか、自分の身体に訊けよ」  ――この反応は、やはり男を知らない。  だんだん腹が立ってきた。  こんなことにその身を犠牲にして、この女は一体何を手に入れることができるというのか。自分を説き伏せ、その身体に夢中にさせて屈辱を与えたところで、この地に学校が作れるわけではない。 (俺を籠絡して駒にするつもりなのか)  馬鹿にするにも程がある。 「王都へ帰ると言え。そうすれば今負けてやる」  と言ったのは、僅かに残された理性が、自分の憤怒から王族の貞操を守ってやるべきだと訴えたからだ。  しかし、それでもシダリーズは折れなかった。それどころか、闘争心に火を点けてしまった。 「負けてやる(・・・・・)ですって?もうあなたが負けているのよ。世間知らずの女に誘惑されて獣みたいに盛っているのがその証拠じゃない」  この時、理性は潰えた。  興味本位とか、相手が女神のように美しい女だからとか、そういうことではない。挑発された分、この女にも獣のように盛ってもらわねば気が済まない。  もはや負けてやろうとか、逃がしてやろうなどとは考えなかった。  薄い寝衣の中に手を入れ、柔らかい肌に触れて下着を脱がせ、動揺した女の声に耳を傾けることなく、身体の秘められた場所に触れた。  そこは、既に濡れていた。  内部は狭く、きつく、深い場所への侵入を許さなかった。誰も立ち入ったことのない証しだった。  それなのに、刺激を与えれば与えるだけ熱くうねって柔らかく溶け、甘い声を上げて悶えた。その中に入る瞬間を少しでも想像したら、目も当てられないほど無様な姿を晒すことになるだろう。だからできるだけ考えないように、シダリーズの反応にだけ集中した。  奥で快楽を得るようになるには、いくらか経験が必要だ。シダリーズは浅い部分と入り口の突起を弄られるとよく感じるようだった。  シダリーズがギイの指を締め付け、濡らしながら達した後に放った言葉は、またしてもギイを驚かせた。 「…本性に負けたのはあなたよ、ギイ・ルマレ」  絶頂のために息を切らせ、今にも逃げ出しそうな程に羞恥に顔を歪めているのに、この期に及んで、まだこれだ。 「強情すぎるだろ」 「あなたに何されようが、構わないわ。わたしはまだ帰らない」 (‘何されようが構わない’?)  この女は、本当に理解しているのか。自分が思うままに行動したら、一体どんな手ひどい目に遭うのかを。 (やめだ)  ひどい悪態を吐きたくなるのを、舌打ちにとどめた。  まったく、腹が立つ。こんな風に何ひとつ思い通りにならない女は初めてだ。  ギイは毛布をシダリーズに投げつけると、権高な女の顔をなるべく見ないようにして部屋を後にした。 (なにが王国の花だ) 「くそ」  扉の外で毒吐いて、一直線に浴室へ向かった。数少ない使用人たちを既に下がらせているのが幸いだ。まんまと挑発に乗って熱くさせられた無様な姿を見られなくて済む。  翌朝、ギイは王国政府に向けて書簡をしたためた。  早馬なら往復で七日もかからないだろう。遠くの地で倒れた国王の従妹を迎えに、王国の使者が隊列を組んでやって来るはずだ。  彼らを呼び寄せたことで、領主からは咎められるかも知れない。しかし、厄介払いが優先事項だ。今のギイにとっては、尚更に。  あんなことがあったから徹底的に避けられるかと思ったが、一夜明けたシダリーズの反応は予想と違っていた。 「いい朝ね、ルマレ閣下」  シダリーズ姫はいつもと変わらない、高貴な女性に似つかわしく優美な笑みを浮かべ、紅茶を片手に、寝室の鏡台に向かって座っていた。既に寝衣は脱ぎ、藁色の地味なドレスに着替えている。 (…いや、そうでもないな)  ギイは唇が吊り上がるのを堪えられなかった。長い絹のような金色の髪から覗くシダリーズの耳が、赤くなっている。  その視線に気付いたのか、シダリーズがそれとなく髪を梳いて耳を隠した。白い頬に、血色が昇る。 「…あんた、今日は外に出るなよ」 「わかっているわ。マノンとジャンにも厳しく言われたもの。特にジャンには、わたしのせいでずいぶん迷惑をかけてしまったから、言うことを聞かないと」 「あいつの言うことは聞くのかよ」  ずいぶん意地の悪い言い方になった。何故か、ひどく気に入らない。 「わたしの中で彼は英雄なの。ジャンに見捨てられたら、悲しいわ」  シダリーズが何か遠い記憶を辿るように目を細めたとき、不意に、その細い首に噛みついてやりたい衝動が起きた。  ギイはゆっくりとシダリーズに近づいて頬に触れた。シダリーズは動かなかった。 「けもの」  シダリーズはそれだけ言って、闘争心をその木漏れ日のような瞳に映した。  ギイは身を屈めて、唇を重ねた。
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