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 アキと神戸ワールドへ行ったのはいつことだっただろか。あの時のことは、鮮明に覚えていることと、ぼんやりとしか覚えていないことが、はっきりと二つに分かれている。はっきりしているのは中邑の入場シーン、ゴングの瞬間、中邑の咆哮。そして、アキと手をつないでいたこと。それ以外は記憶がぼんやりとしていた。神戸でのことはどうにもあまり、思い出せないでいる。あの後、僕とアキは次の日、なんの変わりなく東京へと帰っていった。でも、アキは静かで、話し掛けてもあまり反応が薄かった。アキの方からも連絡はなく、自分としてもなにか気恥ずかしい感じがして、アキと連絡を取ることをやめていた。 すでに一週間が経過していた。僕は通常の生活に戻り、塾での仕事を再開していた。授業をしている最中に、ブーブーと携帯が鳴った。生徒に、自習しているようにと告げ、僕は教室を出て携帯を確認した。アキからだった。着信に応えると、開口一番アキの声が聞こえてきた。 「ヨシダさんですか。その後、どうですか。」 「ごめんよ。今授業中なんだ。後で電話するよ。」 「わかりました。」 そう言うと、アキは電話をすんなりと切った。 アキの声は、落ち込んでいるのではなく、切羽詰まったような感じがした。 授業が終わった昼休みにアキに電話をかけてみた。 はい、といってアキは電話に出た。どうしましたかと、聞いてみたが、少し白々しく聞こえたかもしれないかなと思った。頭を垂れて、僕は頭をかきながら、アキの電話口の声を聴いていた。アキは、この前の中邑すごかったですねとか、とめどない話をしていた。うん、うんと僕はうなずきながら、やはりまた下を向き、頭をかいていた。 アキには白々しい返事をしていたが神戸から帰ってきた後、ヨシダはずっと悶々とした気持ちを募らせていた。アキから連絡がくるのを今か今かと待ち構えていたのである。ただ自分からは連絡を取ることはできなかった。白々しい反応の内実である。ヨシダは正式に交際をしているわけではないのに、友人という関係である中において、アキに唐突にキスしたことを後悔し、そしてアキに合わせる顔がなかった。ただ、アキとまた話をしたいという気持ちには嘘偽りなく、その混然とした気持ちの結実が白々しい反応となった。電話口で、アキからは今度お茶でもどうでしょうかというお誘いがあり、二人は次回会う約束をした。ヨシダは予定を確認するふりをして、その日は空いているから大丈夫だよといって、武者震いをした。 ヨシダは約束の場所にいくとアキがその喫茶店の前に立ち自分のつま先を見つめながら呆然と立っていた。ただ、先日のことを話す勇気は二人にはなく、とめどないプロレス世間話をし始めた。そして、会話が途切れた瞬間に、ヨシダは、週刊プロレスを取り出し、おもむろに読み始めた。そこには小橋健太の引退試合が二週間後に、行われることが書かれていた。いくつもの初めて体験するような出来事の中で、ヨシダは大事な小橋の引退試合を忘れていた。ヨシダは驚いて、すぐに引退試合のチケットをネットで予約することにした。アキも来るか聞いてみたら、二つ返事で「もちろん行く」との回答があり、二枚のチケットを手配した。 そして、二週間後の日本武道館にて二人は再び落ち合った。 アキとヨシダは一万人以上の超満員に膨れ上がった日本武道館の1階アリーナ席にて、隣り合って座っていた。リング上ではセミファイナルの試合がちょうど終わりかけていた。金髪の大男が勝ち名乗りを受けていた。レスラー達が退場し、リング上が暗転すると、館内はざわざわとした人々のささやきから始まり、それが大きなうねりへと変化しはじめてきた。そして、おそらく時間としては一分弱程度の短い時間であったとは思うが、小橋の名前を呼び始める観客が現れて、そしてすぐに3拍子の小橋コールが始まった。 「こっばっし、こっばっし、こっばっし・・・」 延々と3拍子の小橋コールが、ワルツのごとく日本武道館内に響き渡る。頃合いを見計らったかのように、リングアナウンサーが本日のメインイベントを発表する。 「本日のメインイベント、ファイナルバーニング、マイバッハ谷口、金丸吉伸、ケンタ―、潮崎組対、秋山準、佐々木健介、武藤敬二、小橋健太組」 リングアナウンサーがメインイベントの組み合わせを叫びあげた。 青コーナーの四人が入場した後に、赤コーナーの武藤、秋山、健介がリングインすると、最後に小橋の入場曲、GRAND SWARDが流れ始めた。階段を一歩ずつ登っていくかの様な入場曲。この曲を聴くといつも、小橋が若手の新人時代から大型外人選手との死闘、そして四天王プロレスで三沢、田上、川田、秋山らとしのぎを削っていた時代をへて、ノアでのGHCベルトホルダーとしての、絶対王者時代へ上り詰めた様子がまざまざと浮かび上がる。不思議な曲である。一歩ずつ階段を上り詰めていった小橋の原動力は努力以外の何物でもない。そんな小橋の最後の入場曲である。最大限の小橋コールが武道館内を反響するなか、いつものように、フード付きの黒いガウンを着て、フードを深くかぶった状態のまま、遠くから見てもすでに体中汗だくの小橋の姿が花道の入り口に見えると、ヨシダは喉がちぎれんばかりに小橋コールをすること以外には許されない状態となった。 すでにこみ上げる思い、それは小橋のレスラー人生を思いだしたことにもよるが、なぜか小橋と共に時代を共有した自らの人生が脳裏にふわっとよぎった。 小橋がリングインする。セカンドロープを広げているのは、本田多門だった。ヨシダは本田多門のレスリングテクニックはとても好きだった。そんな懐かしい面々が小橋の周りを固めていた。ガウンをわずかに翻して、小橋はリングの中央に立つ。そして、リングアナが小橋の名を読み上げる。武道館内はどどどという音が発生していた。 ヨシダはシャウトが止まらない。小橋、小橋と叫び続けて、自身も汗だくになっていた。横目にアキを見ると、アキも小橋と叫んでいた。 四対四の八人タッグマッチで、最初に出てきたのは小橋とKENTAだった。ノア時代に、絶対王者として君臨し輝き続けた小橋をずっと見ていたKENTAである。他の3人をけん制して、KENTAがすっと前に出た。小橋も少しでも早く目立ちたい武藤を片手でけん制し、すっと出てきた。いまの新日本ではあまり見なくなってしまったが、全日本、ノアの最初の手合せでいつも行っているアクション。手四つの恰好を取り合う二人、小橋の右手と、KENTAの左手が組み、片方の組まれていない手で、けん制しあう。攻めの優位性をどちらが取るかという序盤の緊張するやりとりである。こういった時間帯になると武道館内はシーンと静かになる。この緩急のつけ方は、日本のプロレスでよくみられるシーンだが、リング上の選手だけでなく、観客も含めてプロレスという競技、闘いが成り立っていることを強く実感できるシーンでもある。予想通り手四つは体格に秀でている小橋が主導権をとった。そして、ロープへKENTAを押し込む。するとKENTAはくるりと体を入れ替えて、小橋がロープを背にすると、パチンと小橋の頬を張っていった。シーンとした館内がうおーという咆哮が響き渡る。よっしゃ―、いけー、やめてくれー。そんな思いが観客の小橋コールに含まれている。そんな攻防がつづく。KENTAに頬を張られた後には、ここぞとばかりに小橋のKENTAへの反撃が続いた。キッチンシンク、かわず掛けからのかわず落とし、そしてローリングクレイドルと、新日本プロレスではあまり見ることができないような、全日特有の技を小橋はここぞと繰り出していく。ヨシダが驚いたのは小橋のローリングクレイドルの速さである。現役のそれと変わらない気がした。その後、青コーナー陣営はタッチワークを繰り返しながら、着々と小橋を痛めつけて、小橋が捕まる時間が長くなってきた。ヨシダはその姿を見ながら早く小橋が秋山にタッチして交代することを切に望んでいた。横を見ると、アキが祈るように両手を握りしめていた。 リング上では、小橋が必死の思いで、片手をエプロンから伸ばしている秋山とやっと手を合わすことができた。タッチをすると、秋山が矢のようにリングインしてくると同時に、マイバッハ谷口をストンピングで蹴散らすと、リング中央で、1万人以上の観客に向けて吠えて見せた。観客がワッと湧いた。ヨシダは一万人を自分の雄叫びひとつで沸かすことができると、人間はどのような気持ちになるのだろうと、ふと冷静に思いながら、大多数の他の観客と同じように大声を上げていた。 秋山が金丸をぼこぼこにやっつけている間にも、いつのまにか小橋は体力を取り戻し、エプロンから手を必死に伸ばしている。ヨシダはふと、小橋とはなぜ、あんなにも必死に頑張れるのだろうかと思っていた。それは月並みな疑問である。ヨシダは自分がプロレスを見始めたときから、ずっと小橋のことを見続けていたので、小橋のことは表面上付き合っているような知人なんかよりもよっぽど、理解していると自負していた。ヨシダにとって、小橋はある種、友人よりも近くに寄り添ってきた存在だったのかもしれない。そう思った。小橋の生きてきた道のりはよく知っている。それは、様々なプロレス専門誌や、インターネット上の情報にて、公開されており、その内容について、ヨシダはよく知っている。ヨシダはそれについてはよく理解していた。高校を卒業して、会社勤めをしてから、脱サラしてプロレスラーになった小橋。格闘技エリートとのせめぎあいの中、不遇の新人時代を送った小橋であったが、数年後にジャイアント馬場に認められて次第に表舞台へと出てくることとなる。そのシンデレラストーリーは苦労人のそれとして、雑誌などで取り上げられることが多いし、ファンは不遇の人生を送ってきた小橋に肩入れをしていることが多い。ヨシダもその流れで、小橋のファンになった。だが、それだけだはここまでの絶対王者としてのGHC防衛ロードを送ることはなかっただろうとヨシダは思っている。長い期間虐げられてきたレスラーが、ある時観客の後押しと会社のプッシュを受けて、一時の人気がでるということはたまに見られる現象である。ただ、そういったレスラーに、ヨシダはあまり心を揺り動かされることはなかった。小橋がそういったレスラーと明らかに異なるのは、圧倒的な努力、それは筋肉量を維持するためのトレーニングに始まり、リング上での受け身、自らの試合を見直すことによる試合の組み立て方の研究、そして格上の体格を持つ外国人レスラーに対抗するための独特な訓練、そして新しい技を次々と考えていくプロレス脳。小橋の努力というのは、プロレスラーとして上に上り詰めていくためのすべてのことを指している。単に不遇の時代を過ごしたという薄っぺらい折り紙ではないのである。それにヨシダが気付いたのは、小橋を見続けて、数年たった後である。小橋はじつは、とても気が利いて、効率的なのではないか、そして機転がきいて、勘が鋭いのではないか。ここでこういった技をかけると、観客が大喜びすることを小橋は知っているのではないか。そんなことである。実は努力をするということを突きつめると、効率よく、機転を利かせて、上を目指していくことではないのか。努力という言葉は、泥臭く非効率的にがむしゃらに頑張るということと同義であると語られることが多いが、実は突き詰めると、努力というのは、極端に上を目指すことと同義で、泥臭いとか、非効率とは同義でないのではないか。小橋というのはプロレスラーとして大成することを極度に目指して、そのなかでより効率的に、機転が身についてきたのではないか。小橋というのはおそらくもともとは平凡な人間であった。ただ、自分が平凡であることを知っており、努力するなかで、非凡な才能、それは効率性であったり、勘の鋭さを身に着けていったのではないかとヨシダは思っていた。努力は凡人を非凡に変える。それはやる気になれば、誰にでもできることのような気がする。ヨシダはそう思った。 いろいろと思いを馳せているうちに、リング上では、武藤が一人で、金丸にシャイニングウィザードを決め、続けざまにムーンサルトを決めた。そして、武藤はエプロン際にたつ小橋に向かって、背後側に腕を回し、指をさした。武藤の恰好良さは、小橋のそれとは根本的に異なる。それは美意識の追及である。それは極端に上を目指すということとは大きく異なる。その武藤がエプロン際に立つ小橋を指差し、大きく手を伸ばした。そして、先ほど、武藤のムーンサルトを食らってリング上に横たわる金丸に向かって指をさした。   タッチをする小橋。そして、セカンドロープからリングイン。急いで、金丸の横たわるコーナーのトップにするりと登ると、観客の方を四方に指差すと、大きな弧を描いて、空中を漂った。それはラウンディングボディプレスではなく、れっきとしたムーンサルト。僕の大好きなムーンサルトだった。涙が止まらなかった。それはもしかしたら、不意に武藤からタスキを渡されてとんだムーンサルトだったかもしれない。本当は医者から止められていて、ムーンサルトをしたら、ひざの人工骨が折れてしまうことが小橋にはわかっていたのかもしれない。でも、日本武道館での引退試合で、小橋は美しく、力強いムーンサルトを決めて見せた。そして、金丸から3カウントを取って見せた。金丸は小橋の最後のムーンサルトを受けて、3カウントを奪われた最後の選手となった。小橋の引退試合に、様々な記録と記憶が埋め込まれていく。それがスーパースターの宿命でもある。ヨシダは涙した。そして涙した。 僕も涙した。あの時の試合は忘れられない。薄汚れた万年床の布団の上で小さな画面に噛り付き、僕は小橋の引退試合を見た。もう十年以上前の話である。あの感動、悲しみ、寂寥感はおそらく、この先数十年以上忘れられないだろう。そしていま僕は、飲み屋のカウンターで、小さなPCを広げてこの原稿を書いている。 引退して、消えていくレスラーの悲しみは、人生の賛歌でもある。ファン達に人生の素晴らしさを語りながら、自らの幕をひく。それはとても美しいが、ファンはとても悲しい。悲しさのなかに一抹の人生の喜びを知る。プロレスとはそういうものだ。 プロレスっていいものですね。人生っていいものですね。 小橋の引退試合を観戦し、ヨシダは猛烈に涙した。あふれる涙が止まらなかった。両手を天に向けてあげて、拳を握る小橋の思いはすべての武道館のプロレスファンへと注がれた。隣に座るアキも静かに涙を流していた。そして、ヨシダは、アキの両肩を持ち、アキの顔を自分の方へ向け、静かに告白をした。 観客の歓声で何も聞き取れないアキ。再び求婚するヨシダ。しかし、聞こえないアキ。なにを言っているか聞き取れない素振りを何度も見せるアキ。首をかしげる。ヨシダ再び、大きな声で求婚。ぽかんとした素振りのアキ。そしてさらに大きな声でヨシダは、求婚。小橋への大歓声は続いており、観客は総立ち状態。その中で、ヨシダとアキは静かにパイプ椅子に座っている。ヨシダは涙が止まらない。アキの涙は乾き始めている。するとアキはヨシダの背中に腕を回し、抱きつくとともに。キスをした。 「私もヨシダさんと結婚したいです。」 ヨシダは小橋への大歓声とグランドソードが鳴り響く中、アキを抱きしめ、再びキスをした。 ヨシダは自分を支えてくれたプロレスへの感謝の気持ちを込めて、さらに初めて自分の人生を選択し、ベースボールマガジン社への中途採用試験を受けることを決心した。自分の大好きなプロレスを存分に、他人に伝え、そしてプロレスとは何かを追求していくことを自分で選択したのである。その傍らには、アキが共に歩むこととなった。プロレスとは人生と同じである。プロレスを観戦した年月はプロレスと共に歩んだ年月でもある。一度も話したことのないレスラー達は、いつもファンの傍らにいる。 『迷わずいけよ、行けばわかるさ』 それは、猪木の言葉。それが人生。
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