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 月曜日は憂鬱だ。塾講師とは渡り鳥のような職業である。ヨシダは複数の予備校で、数時間ずつ理系教科を教えている。今日は朝十時から、立川の小さな予備校で高校生の化学の授業があるので、のんびりと自宅のマンションを出発した。昨日の後楽園ホールの興奮の余韻が冷めやらぬ中、静かに自宅マンションのエントランスを出る。少し腕が筋肉痛でいたんだ。今日は空が高い。リング上も空も夏の装いである。 立川へ向かう電車の中で、ヨシダはスマートフォンを弄っていた。スマートフォンの小さな画面には小さな文字や、写真がならんでいる。ヨシダは、ツイッタ―で昨日の後楽園ホール大会に関する投稿を確認していた。大きな試合の後には、ツイッタ―上にファンが取った写真や記事が投稿される。それを見るのはヨシダの楽しみでもあった。ファンは一番熱心なプロレスマスコミである。棚橋がコーナーに立って、拳を突き上げている写真や、内藤のふてぶてしい顔の写真が投稿されており、写真と共にちょっとしたコメントが投稿されている。こういった投稿でも、単に選手の格好よさを褒め称えるだけの投稿もあれば、試合結果を詳細に記述している投稿もある。棚橋に対する賛辞が多かったが、ヒール側の内藤、BUSHIへの応援も多々見受けられた。そんな中、ひときわ目を引くベストショットの棚橋の写真にコメントが添えられた投稿があった。写真は、BUSHIにテキサスクローバーホールドを決めている棚橋の写真がアップで撮影されていた。コメントには、『テキサスクローバーホールドは美しい棚橋の上半身、特に大胸筋を観客に見せつけることができるので棚橋にとって極めて適した技である。』といったコメントが書いてあり、単に棚橋への賛辞を贈る投稿とは重く気が異なっていた。そのアカウントは、「百年に一人の乙女」という名前で、数枚の写真が投稿されていた。そのアカウントの写真をちらちらとスクロールしながら見ているとその中に昨日の試合で、外国人レスラーが場外乱闘を起こした時の写真が投稿されていた。その写真はよほど興奮して撮っていたのか、かなり乱れていたが、かろうじてピントはあっており、写真の中央には場外でパイプ椅子を振り上げる外国人レスラーが収められていた。ヨシダはその写真の端の方に、どこかで見たことのある猫背の背中を見つけた。 「ああ、僕の姿が映っている。」 写真には興奮して席から立ち上がっているが、紛れもないヨシダの猫背の背中が映っていた。電車内には立川駅に着いたことを知らせるアナウンスが流れたため、ヨシダは急いで、スマートフォンをスーツの内ポケットにしまった。憂鬱な月曜日が始まる。やっと頭の中に今日の授業で講義をする化学の内容が頭の中にリロードされ、投影されてきた。 一日も終わりに近づいている。立川に行った後は、新宿で夜の七時まで高校数学の講義を行い、ヨシダはやっと一息ついた所であった。塾は新宿駅の南口から数分歩いたところにあり、平日の夜ということもあり、新宿駅へと向かうサザンテラスには仕事帰りのサラリーマンがとぼとぼと歩き、暇そうな大学生達は花壇の縁に座ってくちゃくちゃと何か話をしている。ヨシダはさっさと喧騒をすり抜けて、新宿駅へと向かった。塾講師だからといって、勉強が好きなわけではない。ただ、長い間、教えることができたから、それが仕事になっただけである。仕事とはそういうものだ。できることをやる。やったことが評価されて賃金を得る。それが仕事だ。 自宅に帰り、作り置きしておいた野菜炒めを箸でつつきながら、ヨシダはスマートフォンの画面をスクロールしていた。仕事へ向かう電車の中で見ていたツイッタ―の写真には、紛れもなく自分の背中が映っていた。その写真を再確認したかった。 「やはり、間違いない。僕の背中だ。」 黄色と白のストライプのPOLOのシャツは昨日後楽園ホールに着て行ったものだ。マンションの部屋の片隅にそのシャツは細い針金ハンガーに、ヨシダの肩の如く角ばった肩のラインを強調して吊るされていた。そのアカウントのプロフィールをよく見ると、そのアカウント主のホームページのリンクがはられていた。リンク先は何かのホームページであり、スマートフォン上に小さな文字が躍っている。老眼が始まっているヨシダには見づらい小さな文字が所狭しと並んでおり、ヨシダは勉強机上のパソコンに、同様のホームページを開くと、拡大した画面で詳細に内容を確認しはじめた。      『Rapsody in the Ring』なんとも切なげなホームページタイトルである。アカウント名はやはり「百年に一人の乙女」だった。なんとも物々しい乙女の切なげなネーミングである。なにが百年に一人なのかはよくわからない。ホームページにはプロレスの観戦記、選手のプロフィールを整理してまとめたものや、プロレスに対する感想が書かれているホームページであった。プロレス観戦記の部分をクリックすると、昨日の試合の記事が写真付きで既にアップロードされていたのでその早さにヨシダは少し驚いた。 その日の観戦記に掲載してある写真をいくつか見ていくと、やはりその中の数枚に、猫背のヨシダの背中が映っているものがあった。そして、『今日の棚橋選手は最高だったが、大学の同級生に出会い、最悪の幕引き。そして黄色いPOLOおじさんとの応援合戦。内藤は、なぜ人気があるのか皆目見当がつかない。勧善懲悪がプロレスの掟。正義が勝つのが絶対普遍のルール。』という文章が書かれていた。 どうやらこのホームページの制作者は先日の後楽園ホールの試合で、ヨシダのとなりに座っていた若い女性であることが実しやかに特定された。なんとも不思議なつながりである。非常に稀なことでもある。黄色いPOLOおじさんとはなんとも。その風貌ままのネーミングである。思ってみれば、ヨシダも白髪交じりの老眼のおじさんである。たしか、「百年に一人の乙女」は大学の同級生からは『アキ』と呼ばれていたなとヨシダは振り返っていた。 「プロレスを好きな女性は最近増えてきていると聞いているが、あんな若い女性もプロレスを好きになるのだな。不思議な世の中だね。」 互いに応援する選手は違うが、プロレスが好きな女性がいることに、ヨシダはなぜか不思議にうれしい気持ちになっていた。ヨシダはまじまじとアキのホームページの閲覧を再開した。よくよく詳細を見ていくと、『アキ』のプロレスに対する非常に熱い思いが伝わってきた。特に棚橋への思い入れは強く伝わってきた。ホームページの記事には単なる棚橋へのファン心理だけではなく、プロレスにおけるベビーの果たす役割について、熱く語られていた。観戦記の記載が始まったのは、一年程前だった。3年前の新日本プロレスの最前線だった中邑真輔と棚橋の試合結果がリポートされていた。他にもホームページには、新日本プロレスのベビーのレスラー(棚橋、真壁、KUSHIDA、田口、中邑、ライガー)の説明や、観戦した試合の観戦記がつづられており、一年くらい前に開設されたものだった。昨日の後楽園の試合の観戦記もアップされており、棚橋の勝利を喜んでいた(棚橋〇―BUSHI×)。プロフィール欄には、『AKI』というハンドルネームが書いてあった。ヨシダは、ホームページを見てアキが後楽園で会った女性であることを確信し、ツイッタのアカウントもアキ本人であるだろうと推測した。 あの女性はかなりプロレスが好きなのだろうな、プロレスは男がビールを片手に叫ぶためのものだと思っていたが、女性が紅茶を飲みながら黄色い声援を送るものになったのかとヨシダはふと時代が変わりつつあることを感じた。ヨシダは、このアキという女性にとても興味を持った。ホームページに記載された直近の後楽園の試合結果を読んでいると、『棚橋はパーフェクトなプロレスラーになった。棚橋の試合運び、観客へのアピール。ファンサービスは、完全無敵の百年に一人の逸材以上のそれである。それはライガーや藤波と同じレベルに達したと言える。つまり現役で体はまだしっかりと動ける中で、棚橋はレジェンドレスラーの仲間入りを果たしたのだろう。それらを超越したところまで彼はすでに達している。棚橋に勝ち負けはなく、また棚橋に世代交代はない。』 棚橋への深い洞察が記述されており、なぜ自分がこのレスラーを応援するのかといった哲学を感じさせた。 ヨシダはこのアキという女性に非情に興味を持ち、なにかアクションを起こさずにはいられない気持ちに駆り立てられた。ヨシダは、『百年に一人の乙女』のツイッタ―アカウントに、メッセージを送ることにした。思い立ったらそれが吉日である。 「初めまして。突然のメッセージをお許しください。ヨシダといいます。先日後楽園ホールで新日本プロレスの試合を隣席で見ていたものです。あなたのホームページを拝見しました。ホームページの内容を見る限り、棚橋の大ファンのようですね。棚橋のプロレス技で一番好きなものはなんでしょうか。やはりハイフライフロー?それとも、ドラゴンスープレックス?突然のメッセージをお許しください。それでは。」 一息にヨシダはメッセージを入力すると一思いに送信した。その日の夜、ヨシダは深い眠りについた。それは不思議な安堵感であった。どこかにいるプロレスファンと実際につながったのである。まだ一方的な思いではあるが。 次の日、恐る恐るスマートフォンの画面を開くと、ツイッタ―のメッセージの受信を示すマークが表示されていた。 「ヨシダさん。初めまして。『百年に一人の乙女』です。先日後楽園ホールの新日本プロレス大会で隣席に座ったものです。ホームページからお察しのとおり、棚橋選手の大ファンです。棚橋選手の技の中ではテキサスクローバーホールドが好きです。プロレスは面白いですね。私は主に、新日本プロレスを見ています。月に1度程度は現地へプロレス観戦に行きます。やはり後楽園ホールが多いです。」 ヨシダはアキからの返信があったことに驚き、早速ツイッタ―アカウントでの返信をした。 「ヨシダです。返信ありがとうございます。とてもうれしいです。棚橋選手よいですね。テキサスクローバーホールドは、棚橋選手の極度に発達した大胸筋がより誇張される技で、関節技なのに棚橋選手がかけると、とても見栄えが良い技の一つですね。昨日は一人で来ていたようですが、プロレスはいつも一人で見に行くのですか。私はいつも一人で見に行っています。ただ、プロレスは一人で見ていてもさびしい気持ちにはなりませんね。一人で見に行くと他人と話さなくてもよいので、レスラーと観客である自分の距離間がとても短く感じる点では、大いに利点があると思います。あなたのことを百年さんと呼んでよいですか。百年さんは後楽園ホールにはよく行くのですか。突然ツイッタ―で連絡をした私に返信をくれてとても感動しています。」 「ヨシダさん、こんにちは。棚橋選手の良さをわかってくれて、ありがとうございます。ただ、棚橋選手の魅力は大胸筋だけではありません。棚橋選手の試合の組み立て方は超一流です。それにとてもファン思いなのです。試合会場の1列目で試合を見ているときに、私はなんども、棚橋選手にハイタッチをしてもらいました。そういった決め細やかなファンサービスも棚橋選手の魅力なのです。ところで、ヨシダさんは、どの選手のファンですか。長州力さんのファンですか?笑」 「百年さん、こんにちは。吉田光雄さんのファンではありません。笑。現在特定の選手を熱烈に応援しているわけではありませんが、今は内藤選手を応援しています。そこは、棚橋ファンと内藤ファンという点で相容れない可能性がありますね。棚橋と内藤はまるで写し鏡のような存在ですから。」 「ヨシダさん・・・・」「百年さん・・・・」と、二人のツイッタ―でのやり取りは、一週間で、十数往復にも及んだ。両者共に熱心なプロレスファンであったことから仲間意識が芽生えヨシダとアキのプロレス談義は延々と止むことなく続いた。 「プロレスの面白みを一言で表せという大学入学試験の問題が出たとしたら、どうしてもその大学に入学したい百年さんはどのようにプロレスの面白みを表現しますか。初めに私にとってのプロレスの面白みとは簡単に言えば、まず日常の閉塞感を打ち破り、強烈な解放感を得るための空間を提供してくれることです。それでは。また。」 「ヨシダさん、こんにちは。プロレスの何を面白いと私が感じているのかというと、それはヨシダさんの感覚と近い部分があります。日常からの離脱。異世界へ没入感。自らの日常から延々と続いているプロレスという大河ドラマへの自らの突入。自分がプロレス村という世界に享受されているという感覚。色々な言葉で表すことはできますが、簡単にいえば、ヨシダさんの感覚と同じく、閉塞的な日常からの解放感を得るために、試合会場へ足を運んでいるのだと思います。深夜テレビや、インターネットの無料動画で公開されている試合映像も見ますが、それは長い大河ドラマのストーリーを追っていくための手段にすぎません。プロレスの本質は試合会場の現場にその九割があるといっても過言ではないでしょう。」 アキとヨシダはプロレスの面白みについて、自らの意見を存分に語り合ったが、二人の意見はとてもよく似ていた。それは、プロレスとは脈々と続いていく人生ドラマであり、プロレス会場で行われていることだけが事実であり、それを映し出すテレビや無料動画の類は単なる記録でしかなく、プロレスそのものではないということ、そして、プロレス会場で行われていることがプロレスであり、それは現実世界から異世界への入口でもあるということだ。 「ヨシダさん。こんにちは。先週の後楽園の試合に出場していたライガーは素晴らしかったですね。あの生ける伝説ライガーも最近は、第一試合に組まれることが多くなってきて、先週の興行でも、ライガー、川人組が、岡、北村組と試合をしていましたが、ライガーが登場するとやはり、会場の雰囲気ががらりと変わりますね。ライガーは入場曲と共に、リングに上がって、マントを翻してリングインし、両手を高く上げただけで、観客の大多数は大満足ですね。ヤングライオン達も奮闘していました。やはりライガーはスターです。ただ、棚橋選手が一番です。」 「百年さん。こんにちは。やはりライガーは別格ですね。ライガーが現れた時の気持ちが昂る感じは他のどのレスラーにも代えられないですね。話は変わりますが、百年さんは新日本プロレスが格闘技路線へ突き進んでいた時の時代をご存知ですか?十年以上前の話になりますが、プロレスラーがみな格闘技をやり始めた時代がありました。新日本プロレスの歴史は、誰が最も力が強いのかを決めるというアントニオ猪木が掲げた理念から始まっています。アントニオ猪木が掲げたIWGP構想は、International Westling Grand Prixというもので、世界で一番強いのは誰なのかを決めるためのベルトを作りました。その理念に基づき、猪木は全世界の強者といわれる格闘家を呼んできては、闘いを挑みつづけました。その中にいたのがかの有名なモハメド・アリです。他にも柔道のオリンピックメダリストやどこの誰だかわからない格闘家等、猪木は様々な格闘家を呼び寄せては、戦いを挑んでいました。それが新日本プロレスの始まりです。話出すととても長いのですが、直近で格闘技方向に新日本プロレスが舵を切ったタイミングというのは、2000年代の格闘技ブーム、いわゆるプライド、K-1らの台頭によるものです。その時に格闘技路線を進めたことで、新日冬の時代が始まったと言われています。話は長くなってしまうので端的に話すと、プロレスの格闘技路線を私は好みません。格闘技寄りのプロレスは、刹那的で美しいのですが、その選手生命は圧倒的に短いものです。365日の内、200日を興行で戦うプロレスラーと、年に数回しか戦わない格闘家では戦い方が違うというのは当たり前の話です。私は年に数回プロレスを見たいのではなく。毎週プロレスラーの生きざまを映すドラマを見続けたいのです。とてもわかりやすく、自らの欲求を満足させてくれる方を私は選択しているということにすぎません。」 「ヨシダさん。私も新日本プロレスが過去に推し進めた格闘技路線については、わずかばかりの知識を持っています。永田さんがミルコクロコップのハイキックで見る姿なく数秒でKOされた試合を過去の動画で見たことがあります。私は本当の殺し合いを見たいのではありません。格闘技は嫌いです。ところで、二週間後の九月半ばの後楽園ホールの試合を見に行きませんか。もっとプロレスの話をしたいです。」 「百年さん。こんばんは。二週間後の後楽園、ぜひ行きましょう。とても楽しみです。十月の両国大会の前哨戦を見ることができますよ。」 二人のツイッタ―のメッセ―ジ交換は数日間でさらに数重往復にも及んだ。 ヨシダはダイニングテーブルの椅子に座り、大きな背中を小さく丸めながら、強く握り拳を固めた。机の上に置かれた昨夜の夕食の残りの野菜炒めの残りを眺めながら、グラスに入ったウーロン茶を一気に飲み干した。そして、十数年ぶりに心が高鳴るのを感じた。これまで愛し続けてきたプロレスが再びヨシダを別の世界へ連れて行ってくれる気がした。 二人のプロレスファンは後楽園ホールにて再会した。二人は席番を事前に連絡しあい、隣席のチケットをそれぞれ購入した。ヨシダにとっても、アキにとっても初めての経験であった。ヨシダは後楽園ホールへ向かう電車の中で、緊張を隠しきれず、電車からの景色をずっと眺めていた。なぜ今日、一度しか会ったことのない女性とプロレスを見ることになったのか、はたして女性は本当にやってくるのか。だまされているのではないか。先日後楽園ホールにいた性格の悪そうな酔っ払いの女性がアキの背後にいて、彼女を操りアキはその女に騙され、そそのかされて、自分をだましているのではないか。様々な憶測が頭をよぎったが、丸の内線の本郷三丁目まで来てしまった。次の駅は後楽園、ヨシダは降車する駅である。 ぷしゅーっという音と共に、電車のドアが開き、数人の乗客と共にヨシダは電車から降りた。東京ドームでは、ビッグイベントが行われていることはなく、今日の後楽園ホール周辺は比較的静かであった。歩道橋の上を歩き、馬券売り場の看板を見ながら、「黄色いビル」を目指す。東京ドームの横の階段を下ると少し開けた場所に出て、そこはプリズムホールである。正面には「黄色いビル」、後楽園ホールの建物が見えてきた。このプリズムホールと後楽園ホールの間の空間はとても奇妙な空間であり、大好きな空間でもある。数名のプロレス観戦者と思われるマニアックな出で立ちの人々が立っていた。数年前にわずかに改装され、駅前の宝くじ売り場のようだった小さなチケット売り場は、建物の一部に埋め込まれた明るい小さな部屋として新設されていた。入り口の壁には、本日の講演と書かれ、今日の興行のポスターが大きくはってあった。このポスターを見ると、いつもわくわくとした気持ちが抑えられなくなるのは、プロレスファンの宿命である。ポスターの一番上にいる二人が本日のメインイベンターである。あと十分程で開場の時間となる。次第に奇妙な空間で入場を待つ人が増えてきたが、アキと思われる人はまだ来ていないようだ。ヨシダはきょろきょろとまわりを見渡したが、プロレスTシャツを着た小太りの男性ばかりが開場をまだかまだかと待ち構えていただけであった。 開場時間よりも少し早めに、後楽園ホールの係員が開場を知らせるアナウンスを始めたので、観客たちは、ぞろぞろと入口を通って、階段を登り始めた。チケットは事前に購入していたため、ヨシダはそのまま彼らの後続に陣取った。まだ、アキの姿はどこにも見えず、ヨシダは少し不安になった。 後楽園ホールの階段はいつ見ても驚いてしまう。とても象徴的な壁である。それはまるで異世界への入り口の様相を呈している。過去から延々と続いている戦いの聖地へつながる入場口である。人々の熱気が階段を上がるごとに上昇していき、五階に着くと、先の方にぽっかりと明るい入り口が見えている。異世界の窓口である。窓口には、チケットのもぎりの係員が二人いて、門番の赤鬼と青鬼である。赤鬼がヨシダのチケットを手にして、フライアーを渡してきた。 中に入ると物販ブースがあり、多くのTシャツやタオルが販売されていた。ヨシダは物販ブースには目もくれずに、一般席南口を目指した。いつも、後楽園ホールで見る時は、座席のある一般シートで見ることが多い。今回も、ヨシダとアキは一般シートの隣あった席を購入することを決めていた。 ヨシダは高鳴る興奮した気持ちと、絶望的な不安を抱えながら、南入り口正面の階段を上る。今回購入した席はI-8で、まあまあ見やすい席である。席に近づくにつれて次第に不安になってきた。遠くからI-8の席番を目指して近くの席番を見ながら進むが、アキと思われる女性の姿はまだ見えない。I-8の席番を見つけた。隣にはまだアキの姿はなかった。まだ来ないと決まったわけではないと認識していながら、ヨシダは大きな不安を抱えることになった。開場は十七時、開演は十七時三十分である。そして、現在十七時五分。ヨシダは開場と共に入場したわけである。まだ、アキが来ないと決まったわけではない。再びヨシダは心の中でそうつぶやいた。背負ってきたリュックを下して、ヨシダは静かに席についた。ヨシダはまだ三十分あると思い、気持ちを落ち着けて、リングの方を眺めているふりをした。リングはすでに設営されており、正面の大きなスクリーンに過去の試合映像が映し出していた。ヤングライオンがリング上でロープの硬さを確かめるために、ロープワークを繰り返している。 「あの、ヨシダさんですか。」 横から小さな声で話しかけてくる声が聞こえた。ヨシダはふっと横を見ると、目に滲みるようなからし色が目に飛び込んできた。そこには小さなショートヘアーの女性が立っていた。からし色のセーターと黒っぽいスカートを着た女性だった。ヨシダは女性から不意に声をかけられて、少し驚いた。 「はい。ヨシダです。あなたはアキさんですか。」 「はい。そうです。えっと、なんで私の名前を知っているのですか。ツイッタ―のアカウント名では『百年に一人の乙女』のハンドルネームで投稿していたのですが。」 「先日の後楽園ホールで、アキさんが酔っ払った女性の友人からそう呼ばれていたのを覚えていました。初めまして。ヨシダです。今日は来てくれてありがとう。とても楽しみにしていました。」 「こちらこそ。ありがとうございます。ツイッタ―上だけでしか話したことがなかったので、もしかしたらヨシダさんという人など現実にはいないのではないか、私は誰かに騙されているのではないかと、とても不安でした。ヨシダさんはプロレスのことをとても詳しいのですね。」 「アキさんもプロレスのことがとても好きなのですね。ホームページを見ていて、棚橋への愛が溢れていました。大ファンなのですね。」 「ホームページはあまり詳しくは見ないでください。匿名で書いていますので。」 アキはとても恥ずかしそうにしていた。前回会ったときは、しっかりとアキの姿を見ることはなかったが、とても若い女性であるようにヨシダには感じられた。先日の後楽園ホールでは顔だけではなく、その姿形もしっかりと見ることはなかったので、年齢を把握しかねていたが、小柄な若い女性であるとわかった。からし色のセーターは小奇麗に毛玉が取られていたが、昔から長い間着ているような感じがした。黒っぽいフェルトのスカートと、灰色のタイツ、ヒールが低めの地味なブーツがかわいらしかった。 「アキさんはいつごろからプロレスを見ているのですか。」 「私は、それこそ小学生くらいの小さい子供の頃からプロレスを見ていました。私の父が筋金入りの猪木信者だったのです。小さいころからプロレスは見てきて馴染はありましたが、自分で積極的に観戦し始めたのは、ここ数年間の出来事です。ヨシダさんはいつからプロレスを見ているのですか。ツイッタ―でのお話ではとても詳しかったので、かなり以前から長い期間見ているのではないですか。」 「そうですね。お察しのとおり、私のプロレス観戦歴は二十年以上になります。私は新日本プロレスだけでなく、他の団体も含めて比較的色々と観戦してきました。ただ、今は新日本プロレスが熱いですね。世間的にも、自分の感情としてもとても盛り上がっていますね。」 「やはりそうでしたか。どおりでとても詳しいのですね。」 会話は延々と続きそうだったが、カンカンカンとゴングを鳴らす木槌の乾いた音がホール全体に響き、二人の会話は途切れた。ふと周りを見ると、いつのまにかほとんどの席が埋まっており、ビールや焼きそば片手に、観客達がすでに各々興奮を隠しきれない様子であった。ホールには新日本プロレスのテーマ曲が流れ、観客は皆手拍子をしはじめた。数秒の空白の時間があった後に再度、爆音が流れ、ヤングライオンが二人ずつ猛然と走りながら、一番下のロープとリングの隙間からスルリ、スルリとリングに入り込んできた。二人の会話は試合の開始と共に途切れ、二人の意識とともにリング上へと吸い込まれていった。この異世界ではすべての言葉はリング上へと吸い込まれていく。   
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