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 あの熱烈な試合と、熱烈なプロレス談義の後、アキからヨシダへ連絡があった。次の新日本プロレスの八王子体育館の試合を見に行きませんかとアキからショートメールが届いたのは、十一月の初めであった。八王子体育館と言えば地方会場である。八王子のアキが住んでいるアパートから一駅の所である。アキからプロレス観戦の誘いがあったのは、初めてだった。ヨシダは、はやる気持ちを抑えられずに、早々に返信をした。「こちらこそよろこんで。」 開場時間は17:30なので、17:00に八王子駅集合と約束していた。ヨシダは十分ほど前に駅のホームに降りた。すでに日が暮れ始めているホームには、電燈がついている。11月末の土曜日ということもあり、八王子駅のホームには大勢の乗客が新宿行きの中央快速の電車を待つ長い列を作っていた。むっとする人ごみの熱気。乗車を待つ長い列を横目に、ヨシダには胸の高鳴りと顔面のほてりが止まらなかった。それは決して外気の熱を反映しているわけではない。広いホームは寒かったし、薄いジャケットの上着一枚を着ているだけの姿だったが、ヨシダはふつふつと体が火照るのを感じていた。先日の長いプロレス談義からもうすでに一週間程だっていたが、あの時に自分で話しすぎたという思いから、恥ずかしさがぬぐいきれなかった。あの時は酔っ払っていたわけでもないのに、なぜか次から次へと言葉が唇と歯の隙間から漏れていった。延々と言葉は漏れていき、それはアキとヨシダの隙間を埋め、二人の間を埋め尽くしてしまった。アキの返事は少なく、ヨシダの言葉ばかりで二人の隙間は埋められていったのだ。そんな感じだった。そのヨシダが埋めた言葉の隙間をヨシダは恥ずかしく感じていた。まるで自分の臓物を周りに並べて、アキに見せつけたかのような感じだった。ああ、はずかしいと。ヨシダはアキに悶々とするも、頭を抱えたくなるような不思議な気持ちだが、アキにとても会いたい、そんな気持ちだった。重いのか軽いのかわからない中途半端な足取りで改札を目指す。遠目に紺色のセーターに赤色のマフラーを何重にも首に巻きつけた猫背の女性が見えた。よく見るとアキだった。ヨシダが10分前についたので、アキはそれよりももっと前から集合場所に着いていた可能性がある。まだアキはヨシダに気が付いていないようだった。足元のタイルをじっと見ているようだった。 「こんにちは。」 アキがピクリとして顔を上げ、ヨシダを見つけた。 「こんちは。」 アキが答える。アキは小さな花柄のスカートに、クリーム色のセーターと紺色のジャケットを着ていた。赤いマフラーが遠くからでもよく目立つ。二人は横並びになって、八王子体育館を目指して歩き始めた。歩いて十五分ほどの距離である。 「先日は僕が長々とプロレスの話をしてしまってすいませんでした。もしかしたらつまらなかったかもしれません。」  ヨシダは気になっていたことを初めに話した。 「いえ、とても興味深いお話でした。プロレスを初めて見たのは、父に連れられて地元の体育館でみた新日本プロレスの試合でした。猪木さんがとても強かったという印象をよく覚えています。小さい時に数回父に連れられてプロレスに行きましたが、自分でチケットを買って見に行くようになったのは、インターネットの動画サイトでプロレスの試合をたまたま見つけ、そこで棚橋選手の試合をみてとても心が振るえて、再びプロレスを見ることになりました。このときにとてもプロレスにのめる込むことになり、会社に入ってから初任給で、後楽園ホールに行きました。プロレスの会場はパソコンでみる動画とは全然違い、興奮の坩堝でした。いままでに感じたことのない高揚感、臨場感、一体感を得ることができました。プロレスのとりこになってしまったのです。小さいころ、父は私をプロレス会場に連れて行ってくれました。そして、いろいろな選手の名前や技の説明を事細かにしてくれました。先日、ヨシダさんの話を聞いて、父のプロレス話を聞いているような気がして、とても懐かしい気持ちになりました。今回は先日、色々とヨシダさんから自身の話をしてもらったので、私も自分のことを少し話してみました。」 「アキさんが嫌な気持ちになっていなくて、良かったです。色々話してくれてありがとう。ところで地元はどちらですか。僕は埼玉の南の外れで生まれました。」 「私は長野県の出身です。高校まで長野で暮らしていました。初めて行ったプロレス会場は長野運動公園総合体育館でした。父に連れられていったのです。父は長いこと熱心な猪木信者でした。ただ、私が小さいころ、五歳とか六歳の頃だったと思いますが、1990年代の後半は、闘魂三銃士の熱狂からは時間が立ち、格闘技ブームの寄る波を決して無視できないような時代に入っていたころだったと思います。その時の試合は、あまり覚えていませんが、猪木もすでにリタイアして、全試合の最後にリングに上がり、お茶を濁す様に一二三ダーの掛け声をしていたのは、はっきりと覚えています。真っ赤なマフラータオルがやけに鮮烈な色でした。試合では棚橋選手がまだ若手で、KINNG OF THE HILLSでやっていた時代だと思います。今はとても熱心な棚橋選手のファンになっていますが、その当時の記憶はあまりありません。中学、高校に上がってからは、父とプロレス観戦に行くこともなくなり、次第にプロレス自体を見ることもなくなっていきました。」 「そうでしたか。そうすると、アキさんは僕よりもプロレスを見始めたのは早いのですね。僕は大学に入った後にプロレスを見始めました。大学生のころは、急に手に入れた自由な時間を持て余しており、家でだらだらとテレビを見ていることがあり、その時深夜にやっていたプロレスを見ることがたまたまありました。まだ十八歳くらいの時です。からり昔のことのように感じますが、ちょっとだけ前のような気もしています。ちょっと前のことは大分昔に感じて、何十年も前のことをついさっきにあったことのような感覚になることはよくあります。そんな感じです。大学のときには、一年程はテレビでプロレスを見ていましたが、テレビで見ることに飽き足らず、大学二年の時に、数少ないプロレス友達と一緒に地元に来たみちのくプロレスを見に行ったのが、初めてのプロレス生観戦です。このときの記憶は鮮明に覚えています。身長はあまり高くないけれど、大胸筋がはちきれんばかりの新崎人生が腕組みをして、試合会場一番後ろの壁際に立って、選手たちの試合を見ていました。小さな体育館で、僕らの座った席は体育館の壁際近くで、すぐ後ろに新崎人生が立っていました。威圧感がすごかった。小さな体育館だから、後ろの方の席でも、リングがとても近くに感じられました。このときに乱闘があり、僕の隣の席に座っていた友人のパイプ椅子が奪われ、それを使って、ヒールレスラーがベビーの選手を叩きのめしていました。これは圧巻だった。これこそがプロレスかと。テレビで見るのとは全然ちがった。生観戦の面白さはこういったところにある。僕も危うく、自分の座っていたパイプ椅子で、ヒール選手を殴りかかろうかとヒートアップしてしまいました。これが僕のプロレス原風景です。おもえば奇妙なプロレス観戦デビューでした。どうでもよい話ですが、僕の中では今でも鮮烈な記憶です。」 「いいですね。ヨシダさんは、新日本プロレスやノアだけでなく、みちのくプロレスも見るのですね。いろいろなプロレス団体を見ていて、すごいですね。みちのくプロレスというのはどういうプロレス団体なのですか。私は名前くらいしか聞いたことがありません。」 「みちのくプロレスは、良くも悪くもザ・グレートサスケの団体です。彼のオリジナリティが団体のすべてと言っても過言ではないでしょう。ただ、彼に団体を運営する能力はなく、そこは新崎人生が社長としてその役割を担っています。設立者であるサスケの後にも数多くのレスラーがみちのくプロレスでデビューしていますが、彼以上のインパクトを残せたレスラーはいないと僕は思っています。サスケの世代でみちのくにいたレスラーがいまだに活躍しているのを考えるとあの時、あの場所にいたみちのくプロレスのレスラーはやはり素晴らしく、その中心にいたサスケはやはり偉大なレスラーだったのだと思います。あの当時、サスケの周りにいたのは、海援隊のメンバー、タカみちのく、SATOいわゆる現在のディック東郷、スペルデルフィン、そしてメンズテイオーです。僕はこのときのメンバーがとても好きです。先日もみちのくの試合にSATOとしてディック東郷が出場していました。なんとも息の長いプロレスラーです。」 「そうなのですね。グレートサスケはそんなに偉大なレスラーだったのですね。知りませんでした。」 「僕は、大学を卒業してからは、塾講師として働いており、今も近くの予備校で化学や生物の授業をしています。不思議なもので、大学中にアルバイトで始めた塾講師をずっと10年以上しています。大学の頃はテレビやパソコンで見ることが多く、現地で試合を見ることは少なかったのですが、働き始めてからは、月に一度はプロレス会場に足を運んでいますね。やはり現地で見るプロレスは、映像で見るプロレスとは別物です。ただ、現地で試合を見てから、実況のついた映像を見ると、理解が深まることは多いですね。実況というのは、得てして運営側の立場で説明をしてくれますから、このときのこの選手の動きは運営としてはこういう風に受け取ってほしかったのかということをよく理解することができるのは、やはり実況の力です。現地での観戦では微妙なニュアンスは伝わりづらいところはありますが、事実は実況より奇なり。それが生きたプロレスであり、事実はプロレス会場にあります。いくら実況で盛り上げていても、現地の観客が湧いていなければそれは、無意味なのです。実況解説というのは、その中間的な立場にあります。そこがプロレスのおもしろいところです。」 「ヨシダさんは塾で化学を教えていたのですね。知りませんでした。やはり現地に行かないと本当のプロレスには触れられないのですね。私も同感です。それはその通りだと思います。初めてプロレスを見に行ったのは父に連れられていったものでしたが、長いことその感覚を忘れていました。短大時代に新日本プロレスの映像を見漁っていた時代に再びプロレスに興味を惹かれて、初めて一人で後楽園ホールに行ったときの感動は初めての感動ではなく、過去の記憶が呼び戻されたような感じでした。既視感があったのです。とても懐かしい私のプロレスの原風景です。なぜヨシダさんは塾講師になったのですか。」 「とてもうらやましいプロレス原風景です。僕は大学でアルバイトでやった塾講師をずっと辞めずに続けていたら今に至ってしまったというところです。理由はありません。流れに身を任せてここまで来てしまったというところです。塾講師になったのは、これまでに中学、高校と勉強をしてきて、大学に進学し、大学進学後は、塾講師のアルバイトをしてきたから。塾の講師は、これまでの経験の蓄積で、仕事をすることができると感じたからです。中学、高校の数学、化学、物理の理系教科を教えています。とくに面白いものではありません。」 「私が生まれたのは長野県の山間部でした。地元長野の中学、高校に通っていました。中学、高校ではのんきな生活を送っていました。学校へはいつも自転車で通っていましたが、登り下りが激しく、大変な道のりでした。冬に雪が降ると、歩いて2㎞弱の道のりを歩いて通学していました。東京のように電車が網目のように張りめぐらされた今の便利な暮らしをしてしまうと、学生時代の通学のときはよく休まずに通っていたものだとほれぼれと思います。帰り道の下り坂はとても気分の良いものでしたが。小さな町でしたから学校と家の間には、小さな集落があるだけで、道の両側が木々に覆われたさびれた県道が赤く夕日に染まる中、夕日を背に帰る家路はなにかとてもほっとする道のりでした。東京にきてからはそんな感情を持つことは少なくなりました。」 「地元が好きなのですね。帰るべき田舎、懐かしい田舎があることは幸せなことです。僕はずっと埼玉に暮らしていましたので、今住むところとは別に帰るべき田舎があるというのは贅沢なことだと思います。」 「ありがとうございます。私の父親は熱心なプロレスファンで、特に筋金入りの新日本プロレスファンで、猪木信者でした。長野にプロレスが興行にくると父は小さな私を連れてプロレス会場へ行きました。兄弟は兄が二人います。上の兄とは十歳差があり、私は年の離れた末っ子でした。小さいころ父は私だけを連れてよくプロレスを見に行きました。私が小学生くらいのときの話です。兄二人はもう大学生くらいだったと思います。父は物静かで、普段は取り立てて大きな声を出すような人ではありませんでしたが、初めて父とプロレスを見に行ったとき、大好きな猪木選手が闘魂とかかれたガウンを着て、首に赤いマフラータオルを巻いて花道に颯爽と現れると、これまで私が聞いたこともないような大きな声で、イノキー、イノキーと叫んでいました。このときのことはとても鮮明に覚えています。別人のような父の姿に恐ろしさを感じたのは最初の一回だけでした。何回か父に連れられてプロレスに行ったのですが、父は毎度毎度、大きな声で選手を応援していました。ただその姿は、応援しているというのか、選手が現れると反射的に叫んでいたのかよくわかりませんでした。父は、決して激務というようには私には見えませんでしたが、私の知らないところで苦労があり、ストレスがあったのかもしれません。プロレス観戦が終わると、いつも晴れ晴れとした顔をして、私の手を引いて人ごみの中を帰路についていました。何回目かの観戦で、私も父に連れられて声が出てしまいました。私が応援していたのは、佐々木健介選手でした。その当時はパワーウオーリアーがお気に入りで、プロレス会場で初めて叫んだ言葉は『ケンスケ』でした。一度声をだして応援すると恥ずかしさというのは無くなるものですね。不思議です。」 「そうでしたか、初めは佐々木健介選手のファンだったのですね。やはり筋骨隆々のレスラーが好きなのですね。棚橋といい、健介といい。マッチョ好きですね。でも本当に地元が好きなのですね。」 「地元の長野はやはり好きです。マッチョマンが好きなのかどうかはわかりません。でも父とプロレスをみにいったのは私が小さい時だけでした。高校に入学したくらいになると、父親とプロレスを見に行くことが恥ずかしくなり、プロレスを見に行くこともなくなってしまいました。高校を卒業した後は、東京の短大に進学しました。東京へのあこがれは少なからずあったのかもしれません。長野の田舎は好きでしたが、東京にはここにはないものがたくさんあると思って東京の短大に進学することを決めました。私は文系でしたので、ヨシダさんが教えているような化学や数学は私にはさっぱりわかりません。短大では文学部でした。短大ではあまり楽しい思いではありませんでした。初めての東京で、私自身戸惑っていて、まごまごしている間に短大の二年間が終わってしまったような気持ちです。短大の時の思いではあまりないのですが、このときに再びプロレスを見ることになりました。最初はインターネットの動画で色々な映像を見ているときに、たまたまウオーリアーズの入場シーンが出てきて、ポチリとボタンを押したところ、次々と関連動画が出てきて、あれよあれよという間に後楽園ホールへと引きこまれていきました。現在進行形の新日本プロレスの試合を肉眼で確認したいという思いがつのっていました。プロレス観戦はいつも一人でした。短大の同級生や会社の同僚には自分がプロレスファンであることは伝えていませんでした。ただ、ひっそりと自分だけでプロレスを観戦していればよい、そう思っていたのです。」 「最初に後楽園ホールで声をかけてきたのは、短大の時の同級生ですか。」 「そうです。あまり好きな人たちではありません。短大は女子大だったため、女子らしい会話になれず、それに、みな東京近辺出身の学生が多く、他の同級生からの疎外感が大きくなりました。自ら心を閉ざすようになる。このときに一部の派手なグループの人々から目をつけられて、ちょっとした意地悪をされて、さらに短大の学生との交流はなくなってしまいました。そのなかで、ネットでの動画を色々見ているうちに、過去のプロレス動画を発見し、見入るようになりました。父が大好きなプロレスを思い、動画を見ているうちに、幼少期の記憶を思い出すことが多々ありました。短大の間はプロレスの動画を見ているだけで、初めて一人でプロレス観戦に行ったのは会社に入ってからでした。会場ではテレビとは違う熱量を感じ、猛烈に自然と声を発していました。また猛烈な高揚感がありました。会社では静かにひっそりと息をひそめてあまり目立たないように仕事をしていましたが、プロレス会場では、自分の好きな選手を自分のタイミングで大声で応援することができるという喜びを感じていました。わかりやすいプロレスが好きで、ヒールとベビーが明確に分かれている試合が好きです。悪いレスラーをやっつける良いレスラーという構図が好きなのです。大好きなレスラーはもちろん棚橋選手。会社に入ってからは、月に一度のペースで新日本プロレスの観戦に行っていますが、地方への観戦経験はありません。東京、埼玉、神奈川などの関東近辺での観戦が主です。」 十五分程歩いていただけだったが、初めてヨシダはアキの生い立ちやプロレスとのかかわり方について知ることとなった。濃密な十五分だった。初めて、知ることとなるアキの生い立ちであった。アキもヨシダの話を興味深く聞いているようだった。十五分の移動時間がまるで数時間にも感じられたが、会場はもう目の前だった。 地方会場といっても、八王子の大会である。ただ、普通の市民体育館での試合というのは、後楽園ホールのようなプロレス専用の会場で観戦するのとは趣が異なる。 「アキさん、ちょっと僕はトイレに行ってから席に向かうから、先に席に行っていてくれませんか。」 「わかりました。先に行っています。」 年を取るとトイレが近くなる。いつの間にかヨシダはそんな年齢になっていることを日々体感している。トイレにはヨシダの他に人は誰もいなかった。小便器の前に立ち、用を足していると、ヨシダの横に誰かがやってきた。出始めた尿はなかなか止まらない。勢いがない分、同じ量の尿を排出するのには時間がかかるのである。じーっと、前を向いていたヨシダだったが、不意に横に気配を感じた。隣からはすごい音がしている。どうも勢いでは負けているようである。ヨシダはどんな若者が世をはかなんで、用を足しているのか気になり、ちらりと横を向いた。横にはジャージ姿の柴田勝頼がいた。地方大会にはこういったサプライズがある。やはりレスラーの尿の勢いはすごかった。そんな単純な驚きがヨシダにはあった。自らの尿がすでに止まっていことも忘れて、ヨシダは声をかけていた。 「柴田選手ですか。」 すでにわかりきっていた質問である。 「ああ。そうだけど。」 ぶっきらぼうな柴田選手。 「今日の試合、頑張ってください。」 「おお。ありがとう。」 そんなやり取りをしているうちに、さっそと柴田選手は手も洗わずに、トイレを去っていった。プロレスラーの退団‐再入団、退団―移籍という意味で、最初に思い浮かぶのは、柴田勝頼である。柴田勝頼は新日本プロレスに所属した後に、新闘魂三銃士として会社からプッシュされていたが、自分が求めているストロングスタイルとは異なるという意味で、新日本プロレスを貫くために、新日本プロレスを辞めますという言葉を残し、新日を去っている。そして、前田明がプロデュースする当時の総合格闘技のHEROSに出撃することとなる。そして数年後に柴田は桜庭と共に、新日に戻ってくる。ヨシダはこのときのことをよく覚えていた。あまり、いい気分のものではなかった。新日の売り上げが悪い時に団体を去り、そして新日の隆盛とともに、戻ってくるというは他のレスラーにとってはあまりいい気分ではないだろうなと思ったことをよく覚えている。厳しい時代を支えた棚橋はずっと柴田を受け入れなかった。その気持ちはヨシダにはよくわかった。そして、柴田は悪名高いレスラーとして、ファンの間では語られることとなる。その後、柴田はこの十字架を背負いながらも奮闘し続け、ファンの支持を得ることとなる。これは大変なことであったと思う。そして、柴田はオカダカズチカとの死闘の末に、負傷し、現在は長期離脱中である。なんとも悲しい結末である。ヨシダはいつも思っているのはファンとはとても残酷であり、レスラーはいつもその操り人形なのかもしれないと思うことである。ファンはレスラーの手のひらの上で踊らされ、レスラーの一挙手一投足に歓喜、落胆するのであるが、実はレスラーもファンの求める自分の姿を求めて、ファンに操られているのではないか、と思うことが多々ある。ファンと、レスラーはともに操り、操られる関係にあると僕は思っている。 団体間の移籍をしたレスラーとして、次に思い浮かぶのはSUWAである。SUWAは、闘竜門、現在のドラゴンゲート出身のレスラーで、ウルティモドラゴンの弟子でもある。CIMAとも同期であり、初期にはクレイジーMaxというグループで、CIMA、ドン藤井らと共に戦っていた。僕はあまり好きではなかったが、比較的人気のレスラーであった。そのSUWAがたしか2004年あたりに、ノアに移籍した。これは大変驚いた。当時のノアは団体のもっとも勢いがあった時代であり、小橋‐秋山‐三沢で全日の四天王プロレスを体現し、ジュニアは、KENTA―丸藤が、これこそジュニアというような戦いをして、ファンを喜ばしている時代だった。そこに、SUWAは『本当の闘いをもとめてノアにやってきました』という言葉と共に、やってきた。僕はこのときのSUWAはもとに所属したドラゴンゲートのことを考えて発言していないとおもい、とても嫌な気持ちを持った。ドラゴンゲートのことも僕はとても面白いと思っていて見ていたので、おそらくCIMAやドン藤井はSUWAに対して、深い嫌悪感を持っただろうという気持ちがあった。この時代、ちょうど僕も、大学院進学が決まった時期であり、大学から異なる大学院へ進学することが決まっており、僕もSUWAと同じことをしているのではないかと不安になったことを覚えている。ただ、僕は昔の大学のことを悪くいうことは決してなかった。そのことだけは、絶対に気を付けようと思っていた。そんな時代である。SUWAはノアである程度の活躍をして、ジョンウーという、ドロップキックのような技を生み出したことだけが、彼の功績かと思う。その後、たしか怪我をして、プロレスを引退することとなった。 レスラーの移籍という問題には、常にファンの賛否が付きまとう。天龍はいくつもの団体を移籍しているが、特にファンから嫌われることはないだろう。団体間の移籍を経たレスラーは、輝きを失うことが多い。その理由は、ファンが見ているレスラー像は、レスラー個人が醸し出しているのではなく、その背後の団体もその一翼を担っているからに他ならないのである。フリーランスのプロレスラーが輝きを保ち続けている場合、そのレスラーは超一流なのかもしれない。 トイレから戻ると、アキは席に座って、練習生がリング上で柔軟体操をしている姿を眺めているようだった。 「お待たせしました。」 ヨシダがアキの肩をたたきながら、声をかけると、 アキはわっと体を震わせて驚いていた。 「ああ、ヨシダさん。びっくりしました。」 「おお、ごめんよ。」 わかりきった反応をヨシダは楽しみながら、パイプ椅子にヨシダは座った。 「そろそろ。第一試合が始まるかな。今日もいい試合が見られるとよいね。」 「そうですね。」 試合が終わり、帰り道にアキは自分のアパートに来ますかということを遠回しに聞いてきた。ヨシダはぶっきらぼうに答える。 「お邪魔していいかな。」 アキの部屋は小さな1DKで、寝室のある一部屋と、ダイニングの部屋で、質素ながらもこぎれいにしてあった。ダイニングテーブルには、小さなノートパソコンが置かれており、 このパソコンで、多くのプロレス動画を見ていたようだった。他には、プロレス雑誌がこぎれいに本棚に収納されていた。 二人でプロレスの動画を見ながら、時間を過ごし、試合がひと段落したところで、アキは新日本プロレスのホームページを開いて、ニュース欄の確認をしていた。そこに、来年1.4の東京ドーム大会の先行販売が始まったことの知らせが掲載されていた。アキは即決で購入を決める。そこで、ヨシダに対し、「ヨシダさんも行きますか?」と質問をする。 ヨシダは、「お願いします」といい、アキは隣席の2席分のアリーナ席のチケットをネットで購入した。ヨシダは二人分のチケット代を渡し、アキは小さな声で「ありがとうございます」と言った。 その後、二人はいつものプロレス談義に終始した。ヨシダは自宅へと帰り、アキは最寄り駅までヨシダを見送った。ヨシダは、帰路の電車内にて、アキのことを考えながら、素敵な女性だなあという思いを募らせた。
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