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 あの熱狂の渦と化した1.4の後、アキは呆然自失としていた。あの棚橋が負けたのである。試合自体はとても素晴らしかった。戦前には、昨年勢いを増しつつ最高の状態の内藤と、過去の素晴らしい戦歴を背負って来たが、近年コンディションの悪化が叫ばれている棚橋という立場の差があった。ただ、試合を通じてあそこまで世代交代が明確になるということまではアキは考えていなかった。アキとしても、内藤の勢いが増してきていることはわかっていたし、棚橋の動きが全盛期のそれと比べると陰りが出てきていることは誰に目にも明確でもあった。それでも、それでも、一ファンとしては棚橋を応援したいという気持ちが常にあった。それは偽らざるアキの気持であった。ただ、デスティーノをかまして、リング上でカバーに入り、リングの中央で片目を細め、右手を高く上げるアピールをしている内藤と、そこに横たわりピクリとも動かない棚橋を見るのはとても辛かった。棚橋と内藤の膝攻めは圧倒的なものだった。武藤、藤波のレスリングをみてそれに憧れた棚橋、武藤、棚橋を見てそれに憧れた内藤。ここに武藤―棚橋―内藤の系譜が明確に見て取れる。皆ひざ攻めに勝機を見出したレスラーたちである。武藤は足四の字。棚橋はドラゴンスクリュー。内藤は変形足四の次(プルマブランカ)をひざ攻めとしている。ただ、今回の試合では、それだけではなく、直接的に膝への低空ドロップキックが両者の間で行われた。圧巻のひざ攻めでざる。共にふらふらとなりながら、棚橋のハイフライロー、内藤のデスティーノがぐさりと決まる。この試合でこそ内藤のスターダストプレスが空高く発射されるかと思ったが今回はお預けとなった。 ヨシダはアキの一方的な愕然とした気持ちとは異なり、少し複雑な感情を試合中に感じていた。基本的には内藤贔屓目線で見ていた試合である。ただ、ヨシダとしてはもろ手を挙げてそれを喜ぶ気にはならなかった。入場シーンでは紫色のスーツを着て、内藤のために作られた目玉の大きな電飾を備えたモニュメントを背景にしてゆっくりと入場する内藤の姿に大きな声援を送ったのは紛れもない事実である。それを横目に、じろりとアキににらまれたのもまた事実。棚橋の入場では、横でアキが大声でゴーエース、ゴーエースと叫び続けていた。 不思議な感情を呼び覚まされたのは、試合が中盤に入ってきてからである。それまで均衡を保っていた内藤と棚橋の攻防において、棚橋の劣勢が見え隠れし始めたのである。これは、棚橋は負けてしまうのではと。まあなんとなしに、勝敗の結果は見えていた部分ではあり、今後の活躍が期待される内藤が勝つのだろうという事前の予想はあったが、それが現実のものになりそうだというのが 明確になってくると、ヨシダは得も言われぬ感情に襲われた。単純に言うと棚橋が負けるのが辛いのである。そして、ヨシダは棚橋に声援を送った。タナハシー、タナハシ‐と叫ぶヨシダを横に見て、アキは怪訝そうな顔をしていたが、アキも一緒にさらに大きな声援を上げた。棚橋が劣勢になると棚橋に声援を送るが、内藤の一撃がズバリと決まると内藤へ声援を送った。プロレスの本質とはこの感情なのかもしれないと、ヨシダはその時感じた。敗者に対する応援。素晴らしい攻防に対する賛辞。プロレスの本質はその二点で成り立っているといっても過言ではない。そして、闘っている二人の背中に見え隠れする隠しきれない歴史、因縁。これらはすべてプロレスの試合にとってのスパイスであり、試合を完成品へと仕上げてくれる。ヨシダはとても贅沢な感情の変化を感じることができた。プロレスの醍醐味である。そんな二人の感情の発露である。 1.4の後は、ヨシダ高校生の受験対策のための、仕事が忙しくなり、一月、二月には二人はなかなか会うことはできなかった。そして時はすでに三月である。あの1.4から二か月以上の期間があっという間に過ぎてしまった。二人にとって、棚橋―内藤戦の余韻が少し和らいできたところだった。三月半ばにアキが観戦を誘ってきた。丁度、ヨシダの仕事もひと段落したところであった。チケットもアキが買ってきてくれた。二人して、所沢市民体育館へいく。そんな二月の昼下がり。所沢はヨシダの地元近くである。 「お久しぶりです。お元気でしたか。」 アキは、1.4の試合前と変わらぬ穏やかな表情をしていた。黄色いカッターシャツの上に薄青色のカーディガンを羽織っている。春の訪れを感じながらもまだまだ肌寒い季節である。 「高校三年生の受験対策が大変でした。やっとひと段落といった感じです。1・4以降はあまりプロレスも追いかけられていないんですよ。残念ながら。今年のファンタスティカマニアはどうでしたか。見ましたか。」 「私も見ていないんです。1.4の後なんかプロレスを見るのが辛くなってしまい、私も少しプロレスの情報から離れていました。今日の試合が1.4以降に初めて見る試合なんです。」 そんな久しぶりに会った二人である。ただ、その興行中に、レスラーが不慮の事故で、死去することとなった。観戦中のレスラーの死というセンセーショナルな出来事を目の当たりにして、大きなショックを受けるアキ。そして、ショックを受けながらも、アキを気遣うヨシダ。ヨシダはアキに対して、親密な気持ちを強めることとなる。落ち込むアキを慰めるヨシダという関係性の中で、ヨシダはアキのことをいとおしく思い、積極的にアキへのアクションを取るようになる。プロレスとは何かを考える二人。プロレスラーの死というセンセーショナルな場面に遭遇したヨシダとアキは、次第に親しい関係になっていく。試合の当日二人は静かに岐路に着いた。 この試合後にヨシダはアキと連絡が取れなくなってしまった。ヨシダはとても不安になり、ツイッターや、メールを用いて必死で、連絡を送り続けるが、アキからの返信はなかった (アキさん、大丈夫ですか。あまり落ち込まないでください。もしなにか話したいことがあれば、いつでも返信ください。連絡まっています。) (お元気ですか。ごはんをちゃんと食べていますか。もし、外に出てくる元気があったら、昼ごはんでも食べに行きましょう。) (とても心配です。なにか連絡ください。どうか変な気を起こさぬように。) ヨシダは過去に一度聞いたアキの勤め先の電話番号を調べ、会社に電話をし、安否を確認した。アキは不在だった。アキは会社の上司には一週間の有給をとらせてほしいと連絡していたようだった。 心配して仕事が手に付かなくなってしまったヨシダをよそにして、二週間程して、不意にやっとアキからメールで連絡がきた。この頃になると、ヨシダは授業中でも、しきりに携帯のメール受信箱を確認して、連絡が来ていないかどうかということを確認しており、生徒からにらまれていたが、そんなことにもヨシダは気が付くことはなかった。 (ご心配おかけしました。無事に生きていますのであまりご心配なさらずにいてください。今は実家の長野に戻っています。もう少し長野にいるつもりです。もう少ししたら東京に帰ります。東京に帰ったらまた連絡します。色々心配をかけてごめんなさい。ヨシダさんありがとう。)  アキはショックのあまり、地元の長野に帰郷していたのであるその連絡があってから、数日後再び、ヨシダの元にアキから手紙が届いた。 『この前は、心配をおかけしてすいませんでした。会社の有給も残り少なくなってきたので、なんとか動きだす元気が出てきたので、昨日長野から東京へ戻ってきました。1.4での激闘の観戦で呆然自若の抜け殻となっていました。その余韻冷めやらぬ中、三月に一緒に見に行った試合にてレスラーが亡くなり、とても衝撃を受けました。私達がいつも見ていて、楽しんできたプロレスの危険性、恐ろしさについてわかってはいたものの、再認識することになりました。こんなにも恐ろしいものを私は見て、手をたたいて喜んでいたのかと愕然すると同時に、プロレスファン、強いては私があのレスラーを死へ追いやってしまったのではないかという慙愧の念が押し寄せてきました。あの所沢の小さな会場で、リング中央でなんでもないようなバックドロップを受けたあの選手が力なく四肢をだらりとさせてリングに横たわり、傍らにバックドロップをかけた選手が必死で声をかけて、横たわる選手の肩を揺らしている光景を見た時、初めはなにが起こったのかわかりませんでした。ふつうは横たわる選手をカバーしてスリーカウントを取るところですが、なにか必死に声をかけているのです。そして、すぐさまレフィリーが駆け寄ってきて、ゴングを要請しました。ここまで来たときに私を含めたファンは、なにか事件が起きたのではないかということに気が付き始めました。次第に小さな会場がざわざわし始めました。ヨシダさんは、どうしたんだろうね、選手は大丈夫かなといって私に声をかけてくれました。私も小さくうなずきながらも、ことの重大さに気が付き始めていました。ヨシダさんも実はうすうす気が付いていたのかもしれません。ほどなくして、担架を持った救急隊員が場内に現れて、きびきびとリング中央に横たわる選手を運び上げていきました。このときには、横たわっていた選手の体はなにかどす黒い色が体内から発せられており、表皮の肌色と相まって、暗い紫色にみえていました。選手が担架に乗せられ、リングを去ると唐突に、リングアナのキンキンとした声が場内に広がり、次の試合が始まる旨を伝えてきました。場内の観客はまだざわざわとしていました。ヨシダさんもしきりに大丈夫かなあといっていました。ただ、このとき私はすでに確信していました。あの選手はすでに絶命しているのだと。そして、私はとんでもない犯罪に手を染めてしまったのではないかという思いが押し寄せてきました。私達プロレスファンがあの選手を殺してしまった。そんな気持ちです。プロレスファンは激しい試合をするレスラーを見て、もっとやれもっとやれと言って、レスラーの背中を押し、自らも興奮してなにかを発奮するものです。レスラーはファンの期待に応えようとさらに激しい試合をしようとするのです。その結果が今回の選手の死なのかと私は思いました。私は一レスラーを死へ追いやったことの責任をどう果たせばよいのか。明確な答えを出せていないところです。プロレスファンを辞めるというのも一つの罪滅ぼしかもしれません。これ以上レスラーを死へ追い詰める行為をしてはいけない。そんなきもちです。長くなりましたが、ヨシダさん、ご心配おかけいたしました。長い手紙となってしまい、申し訳ありません。いまプロレスのことでとても落ち込んでいますが、プロレスでヨシダさんと出会えたことはとてもうれしく思っています。いつもありがとう。』 自宅リビングの椅子に腰かけて、手紙を読んでいたヨシダは胸に詰まるものを感じた。そして、落ち窪んだ両目からは涙がつつつと落ちていった。プロレスファンが選手の死を導き、そしてレスラーの死がアキをここまで罪の意識に際悩ませた。そして自分はどうすればよいのか。アキを助けたい。ヨシダはそう思った。自分ができることは、落ち込み、深く傷ついたアキを慙愧の沼から救い上げることだと思った。幸いヨシダにはアキ程の罪の意識はなかった。プロレスラーになった時の覚悟、刹那的な感情はおそらくどのプロレスラーも持っているものだとヨシダは思っていた。ただ、それでもヨシダに罪の意識がないと言えば嘘になる。ただ、アキほどではないと自覚していた。レスラーの死はレスラー関係者だけでなく、ファンにも大きな爪痕を残す。過去にリング渦に巻き込まれ、死んでいったレスラーは片手で数えられる程度にいるが、その都度プロレスとはなにか。なぜこんな危険なことをしているのか、ナンセンスであるといった意見が出てくるが、次第に忘れ去られ、時間と共にファンは再びリングに集まり始める。それがプロレスだ。自然と好きな人が集まり始めるのがプロレスである。ヨシダはすぐに、棚から便箋を取り出して、手紙を書き始めた。 『アキさん、長い手紙ありがとう。アキさんの気持ちがよくわかりました。この前の試合はとてもショッキングでした。レスラーの死の現場に立ち会ってしまったことは辛いことですが、自分とプロレスの関係性について見つめなおすことができたと思っています。アキさんの手紙からもそのことが良くわかりました。手紙の中で、アキさんはあのプロレスラーを自分は追い詰めてしまったのではないか。そして、それが今回のレスラーの死を導いてしまったのではないかと言っていましたが、僕もあのとき同じことを感じていました。ただ、興奮を追い求め、手をたたき応援しているつもりでも、それがレスラーをさらなる激しい攻撃へと導き、最終的に死んでしまった。そんな三段論法です。あの後、私も色々と考えてみました。しかし、レスラーだって自らの立派な体を作り上げて、それを削りながら、その成果を激しい戦いとして大喜びするファンの目前で見せつけて、それを自らの喜びとしている人たちではないのでしょうか。その結果彼らの体が負傷していき、時には命を落とす。それが現在のプロレスです。ファンからの大声援、まばゆいスポットライトの代償として、体の故障と、時には大けがをします。現在のレスラーで、セカンドライフで再び陽の目を見て生きているのは一握りのレスラーです。生きていくことは辛い。しかし、必死で生きること、その結果大きな成果を得ることができること、だけれどやはり人生はさびしいこと。そのすべてをプロレスラー達は身を以て体現し、我々ファンに道標を示してくれるのです。そして我々プロレスファンは再び生きていくパワーをもらうのです。それはおそらくレスラーにとってもうれしいことなのではないでしょうか。僕はそのように考えています。アキさんが落ち込んでいるのはよくわかります。でもそれは、レスラーの本意ではないのではないでしょうか。彼らは我々ファンに力強く生きていくことを教えてくれます。頑張って生きていきましょう。お互いに。長くなってしまいましたが、ここらへんで筆をおきます。最後に一つ、アキさん頂いたお手紙の最後一文について、僕もまったく同じ意見です。プロレスを好きでなければ、アキさんに会うこともなかったし、一緒にプロレスを見に行くこともできなかった。辛い出来事がありましたが、僕はアキさんと出会えて幸せです。それだけは僕も同じ意見です。人生は面白い。』 長い手紙を書きあげて、ヨシダはふうっと一息入れた。時計を見るともう、深夜二時を過ぎていた。明日の授業が思いやられる。そんな寂寥感と充実感。 「やあ。久しぶり。」 ひどく心を痛めていたアキを気遣い、ヨシダはアキをランチに誘った。日曜日の昼下がりである。場所はアキの最寄駅近くで、歩いてこられる距離である。予想通り、アキは歩いてやってきた。淡い水色の丸襟のついたシャツと同じ色のふんわりとしたスカートを着ていて、華奢なサンダルを履いていた。小さな爪がきらりと日の光を 浴びて光っていた。 「今日はいい天気だね。少し歩こうか。」 駅から少し歩いたところにあるイタリアンレストランに向かってヨシダは歩き始めた。日差しが暖かい。ヨシダの後をアキが静かについてくる。スカートがほわほわと揺れている。暖かな昼過ぎに、よくわからない鳥がチチチと泣いている他は、歩行者もおらず静かな空間が続いている。沿道の舗装された道沿いを歩いていく。左手には水路が流れ、緑が茂っている。のどかな遊歩道である。十分程歩き、住宅街が見えてきて、その一角の一軒家にそのレストランはあった。店内は小さいながらに、数個のテーブルが置かれており、席は空いているようだった。店員に話しかけて、奥まったところのテーブル席へ案内された。 「今日はランチに誘ってもらいありがとうございました。」 「うん。いいよ。そんな。いつ東京に帰って来たのだい。」 「一週間くらい前です。」 「そうか。まあなんか食べよう。」 ヨシダはカルボナーラとピザのセットを頼み、アキはミートソースのスパゲッティとサラダのセットを頼んだ。それぞれ注文した料理が届くと、二人はもくもくとくるくると回したフォークを口に運んで行った。会話はなく、ほどなくして皿にほとんどパスタが無くなりかけていた時、ヨシダが口を開いた。 「あまり今はなすべき話ではないかもしれないけど、この前、大仁田がまた引退宣言をしていたね。大仁田の引退程信用できないものはないけれど、ほとんど大多数のレスラーは静かに引退していくよね。レスラーの引退というのは、やはりさびしいものだね。トップレスラーや団体内で強烈なキャラクターを印象付けられなかった選手は、いつのまにか、プロレス界からいなくなっているということもあるね。そういったレスラーには、引退したとかしないとかということも明言することなく、セミリタイアのような形で静かに消えていくね。これまでに、見てきたレスラーのなかで、静かに消えていったレスラーとしては、菊池毅、井上雅夫、泉田純、川田敏明、エルサムライなど、フェードアウトしていくレスラーは一定数いる。そして数年後に孤独に死んでいたという報道がされたりする。悲しいものだね。表舞台から消えていくレスラーは悲しいね。立派な引退試合をしたレスラーというのは、明確に引退するけれど、彼らは大活躍できたレスラーなんだ。大活躍できなかったレスラーというのは、引退するでもなく、試合に出るでもなく、静かに表舞台から消えていくのだよ。ごめんよ。いま話すことではないかな。」 「いえ気にしないでください。お話を続けてください。」 「ありがとう。もう少し話をさせてくださいね。昔結構気に入っていた本田多門というアマレス出身のプロレスラーもいつの間にか表舞台からいなくなってしまった。図らずも、引退試合はしていないんだ。僕は本田と小橋のタッグチームがとても好きだったんだ。それだけの話さ。レスラーの引退というのはさびしいものだね。我々プロレスファンは、長いことそれぞれのレスラーの歴史を追い続けていて、彼らの人生に自分の人生を重ねて見てしまうんだね。その中には突然死んでしまうこともある。理由はなんにせよ。」 そのとき、ぴくっとアキの肩が震えた気がしたが、ヨシダは話を続けた。 「人はいつか死ぬ。それは寿命でも死ぬし、ある日突然死が訪れることもある。それはレスラーでも一般人でも同じなんだ。センセーショナルであるかどうかの違いで、いつか、もしくは突然に人は死ぬ。だけど、だからこそ落ち込まずに、一生懸命生きていかないといけない。自分がなりたい姿、やりたいこと、なるべき自分、こう見られたいという姿を目標に据えて、自分を高めていかないといけない。それが人生。僕はそう思うよ。」 ヨシダは、下を向いて、ぼそぼそと話していた。ヨシダの話がひと段落したところで、シーンとした静寂が訪れた。休日の昼過ぎだというのに、数組の客はいたが、皆ぼそぼそと静かに会話を楽しんでおり、アキとヨシダの間の空間には静かな静寂が訪れていた。ヨシダは顔を上げると、アキが音を立てずに、食べ終わった皿の上に、涙を落としていた。 「どうしたの。大丈夫?」 ヨシダはアキの涙に気が付き、声をかけた。 「すみません。気を使っていただきありがとうございます。ヨシダさんの話を聞いているうちに、不意に涙がこぼれてきていました。大丈夫です。先日長野に帰った時に、昔、父にプロレスに連れて行ってもらった長野運動公園総合体育館へ行きました。実家から電車とバスに乗って、一人で行ってきたんです。昔プロレスを見た時の興奮が思い出されて、その時も体育館の前で立ちつくし、涙が止まりませんでした。帰りに善光寺に寄って帰ると、寺の桜がとてもきれいに咲いていました。もうそんな季節なんですね。そのまま、また電車とバスを乗り継ぎ、最寄駅から歩いていると、周りの山々の新緑がとてもきれいでした。もう芽吹きの季節なんですね。」 沈黙を守っていたアキが不意に話し始めたと思ったら、一目散に話をして、そして再び沈黙が訪れた。静寂が訪れると、今度は店内にごく微音で、ヘンデルのソナタが流れていた。天にも昇るような音楽であるが、二人にはその音楽は届いていなかった。 長きの沈黙に耐え切れず、ヨシダとアキは店を後にした。二人は、レストランからの帰り道をとぼとぼと川沿いを再び歩き始めた。ヨシダは、アキの横にぴったりとついて、ヨシダはアキが歩くままに付いている。静かに数歩離れたところにヨシダがついていた。アキはずんずんと歩いて行った。二人は無言だった。下を向いて、黙々と歩くアキの後ろをヨシダは静かに音を殺してついて行った。数分歩くと小さな二階建てのアパートの前で、アキは歩みを止めた。アキは下を向きながら、ぼそぼそと話し始めた。 「今日はありがとうございました。それにご馳走様でした。」 「うん。また、今度どこかに遊びに行こう。それじゃあね。」 こんなにも静かな住宅街があるのかと、他に人は住んでいないのかという程に、川の流れすらも聞こえないほどに、なにか神妙な面持ちで、ヨシダは最寄り駅へ戻ろうとしたところ、なにかめそめそとした音が耳に入った。そして、その音は次第に、ひっくひっくという苦しげな呼吸へと変わっていった。そして号泣へとかわった。後ろを振り返って確認しようとすると、背中になにかが張り付く感覚があった。背中に暖かい感覚と、冷たい感覚がある。ヨシダのしわしわのシャツを必死に両手で握りしめて、自らの頬をヨシダの背中に押し付けて激しく嗚咽するアキであった。アキは、堰を切ったかのように、ヨシダの背中のシャツを握りしめて、頬をこすりつけるように泣き続けていた。ヨシダのしわしわのシャツは、涙にぬれて、まるで雨に濡れた洗濯物のようになっていた。アキはまだ、号泣していた。ヨシダは住宅街のなかで、自分の背中をアキに貸していた。 「鍵はあるかい?」 アキはヨシダの背中にくっついたまま、ポケットから小さな鍵の塊を後ろから差し出してきた。小さなくまのキーホルダーが付いていた。ヨシダは、鍵を受け取ると、アキに部屋番号を聞いた。1階の左端の部屋だった。 「部屋に入るけどいいかい。」 アキは小さくうなずいた。 入ると、小さなワンルームに、小さなダイニングテーブルと、椅子が一脚あった。机の上にはノートパソコンが閉じておかれていた。机の向かい側には、小さなベッドが置かれていた。アキはまだヨシダの背中にへばりついて、静かに涙を流していた。ヨシダは、そっとアキを背中からはがし、ベッドに座らせると、アキはヨシダの意に従った。自分は床に胡坐いかいた。 「大丈夫かい。なんでこんなに泣いているのだい。」 半ば泣いている理由はわかっていたが、ヨシダはアキにそれとなく質問をした。アキはまだ泣いていた。 「もう泣かないでおくれ。」 まだ、ひくひくと泣いているアキをみて、居た堪れなくなったヨシダは、アキの背中を軽く撫でてやり、肩をもんであげた。 「なぜ泣いているんだい。」 ヨシダは、慰めながらも、再びなぜ泣いているのかを聞いた。するとしくしくと泣いていたアキは目を擦りながら、やっと顔を上げ、話し始めた。アキは、レスラーの死を悲しむ共に、自分が大好きなプロレスの残酷さについて考え、ファンがレスラーを殺したのではないか、ファンの期待がレスラーを危険な技に走らせて、レスラーはその期待に応えて、無謀にも死んでいったのではないか、そして、自分もその一翼を担ってしまったのではないかという罪悪感があったと語った。 明るく、楽しく、激しいプロレスは、ファンを高揚させるとともに、レスラーはその身を削り、ファンの声援を得て、時にけがをして、時に死んでしまう。ファンから多くの声援を受けたレスラーほど、そのダメージは大きい。ファンはレスラーを愛しながらも、レスラーを傷つける。プロレスが抱える残酷な反比例の関係に、アキは気が付いてしまったのである。 このアンビバレントなプロレスファンとレスラーの関係について、ヨシダはすでにずっと前から気が付いていて、過去に一度深く考えていたことはあったが、見て見ぬふりをしていたのと、アキが棚橋に肩入れするほどに、極端に応援するレスラーがおらず、第三者的な気持ちでプロレスを楽しんでいたので、この問題について真っ向から考えることはなかった。 「プロレスは危険なもので、時に悲しいこともあるけれど、とても楽しくて、エキサイティングで、感情を爆発させることができる、そしてなによりも人生を豊かにしてくれるものなんだよ」 そういってヨシダは説きアキを慰めた。 窓の外を見ると、もうとっくに日は落ちていて、向かいのマンションの窓には光がともっている。日曜日が終わろうとしている。どこからか、カレーのいい匂いが漂ってきた。平凡な日常がふたたび始まろうとしていた。ヨシダは、このままアキとここで穏やかに過ごしたいとふと思い、再びアキの頭を撫でようとしたが、アキの方ほ見ると、アキもヨシダのことを見つめていたので、恥ずかしくなり、ヨシダは下を向いた。ちらりと再びヨシダはアキの方を見ると、アキは窓の外を見ていた。美しい横顔が涙に汚れ赤く、腫れぼったくなっていた。 「気持ちも落ち着いたみたいだから。そろそろ僕は帰るよ。明日からは、がんばって会社に行った方がよいよ。あまり休みすぎると会社を首になってしまうからね。」 ヨシダは、立ち上がり、小さな部屋の出口へとむかった。ヨシダは背中に気配を感じた。アキがまたコバンザメのように背中にくっついていた。 「どうしたのだい。僕は帰ります。」 落ち着いた気持ちになって、改めてヨシダはどぎまぎとした気持ちになっていた。ただ、心地よかった。 「今日はありがとうございました。少し元気になりました。明日からは普通にもどれると思います。」 アキが背中越しに、ぼそぼそと話していた。 そして、静かにヨシダはアキの自宅を去った。
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