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「どうぞ。どうぞ。今日は色々とお菓子を買ってきました。ヨシダさんも食べてください。」
アキはリュックの中から、大きな紙袋を取りだし、中のチョコレートをヨシダに手渡してきた。
「ありがとう。チョコレートを一つください。」
ヨシダはアキから小さなチョコレートを受け取った。新幹線の中はの人影はまばらであり、サラリーマンらしき人、家族ずれや、中国人らしい観光客の一団が席を反転させて大きな声でなにか口々に主張していた。ヨシダは聞き耳を立てて会話を聞いていたが、何も理解できなかった。先ほどからアキがチョコレートとクッキーを食べ続けていた。
「神戸についてから昼飯を食べる予定だよ。そんなにお菓子を食べていて、神戸に着いてから食べられますか。まず、神戸に付いたら豚まんを食べる予定ですよ。」
ヨシダがアキをたしなめると、アキは大丈夫ですよーといいつつ菓子を食べる手を止めた。先日、アキの自宅近くでランチを食べた時の落ち込んだ状態からは復活しとても元気になっているようであり、ヨシダはほっとしていた。会社にも復帰したようであった。ただ、そのことはこの旅が始まってからは、二人とも一度も口にしていなかった。富士山が進行方向の右側に見えた時には、アキはうれしそうに写真を撮っていた。今回は、初めて二人でプロレス観戦の遠征に行くこととなった。神戸ワールド記念ホールへのプロレス観戦旅行である。二人して、旅行に行くのは初めてのことである。
先日、落ち込んでいたアキを慰めていたヨシダであったが、その後、アキから連絡があり、プロレス観戦遠征の話があった。ヨシダとしては、とても楽しみにしていたものでもある。現在、新日本プロレス所属の中邑選手が米国最大手のWWEへの移籍が決まり、新日本プロレスを退団することとなったのである。現在、中邑選手の退団のための数回の興行が急遽くまれており、関東地区と関西地区での開催が決まっていた。今回は、か関西地区開催の試合に参加することとなっているのである。これまでの退団興行は、すでにかなりの盛り上がりを見せており、退団が決まってからの中邑選手の参加試合はプレミアムチケットと化していた。今回は、アキがそのチケットを買ってくれいていた。
「中邑選手の退団が決まる前から、実はこのチケットを二枚買っていたんです。いつかヨシダさんと一緒にいけたらよいなと思って買っていたのです。」
アキが窓の外を眺めながら話し始めた。
「この前は、ランチもおごってもらいましたし、色々とご迷惑、ご心配をかけていたので、今回は私が段取りしました。」
アキはそうつづけた。チケット代はアキが払ってくれたが、年配者のヨシダが、宿代、電車代は出そうかと思っていた。そんな東海道新幹線の道中である。
中邑選手のプロレス・格闘技人生はとても興味深い。彼はとても懐の深い選手である。詳細説明は専門誌に譲るが、京都出身で、青山学院時代にレスリングで頭角を現し、格闘技の道場に通っていたらしい。そして、新日本プロレスに入団後は、アントニオ猪木の指示のもとに、K-1選手との戦いへと突き進んでいった。そして、最年少のIWGP保持者でもあったはずである。時は格闘技最盛期。猪木のもくろみとしては、最強の格闘技であるプロレスを持っていって、K-1やPRIDEなどの総合格闘技ブームに乗っていこうとしたのだが、プロレスラーがことごとく、リアルファイトの前に倒れていった時代でもある。プロレスの哀愁の時代である。そんな時代に満を持して投入されたのが中邑だったと私は思っている。そんなプロレス人生の幕開け。目にあざを携えた中邑の姿は初期の中邑の幻影である。そして棚橋との戦い、ケイオスの誕生など、紆余曲折を経て、現在の格闘芸術家スタイル、ストロングスタイルへの回帰、柔軟スタイルの中邑が生み出されていき、その姿は現在の新日本プロレスの隆盛と重なる。そんな中邑の新日退団とWWE入団である。感慨もひとしおで、ヨシダは中邑の大ファンということではなかったが、この退団興行のどれかにはいかないと後悔するという思いを持っていた。長い間プロレスを見てきたプロレスファンにとって、この試合だけは必ず見に行かなければいけないという試合は必ずある。それに気が付かずに、観戦した人間の風のうわさで実はとても良い試合だったということもあるし、今回のように事前に素晴らしい興行となることがわかっている興行もある。今回はまさに後者のそれである。それは数年に一回あるかないかというもので、今回の中邑の試合はまさにそれだった。口述する小橋の日本武道館での引退試合も実はまさにそれなのである。
かくして、アキとヨシダは新神戸駅で新幹線を降り、三宮駅へ向かう電車へと乗り換えた。今日のホテルは三宮にある。アキがヨシダの分も含めて、予約してくれていた。
「人が多いですね。でも東京と雰囲気が違いますね。私の地元ではないのですが、地元のような感じがします。」
三宮駅を出ると、駅前の交差点には車と歩行者が入り乱れており、そこに飲食店やコンビニなどの店舗が混じり、混沌としている。一本長く伸びる道を見ると、ずっと坂道が続いていて、その先には山が見える。都会と自然が共存している。不思議な町である。ガード下には、数多くの店舗が入っている。お客が外まではみ出ているような立ち飲み居酒屋もあれば、古い電化製品が店頭に並べてあって、ほこりだらけの店先で、お客が誰もいないような店まで色々な店舗が入っている。そのガード下の店舗の一つに、プロレス居酒屋がある。ヨシダは昔から、三宮のガード下にプロレス居酒屋があるのは知っていたが、来たことは一度もなかった。
「開場時間までまだあと五時間くらいあるね。宿泊先はこの近くかな。」
ヨシダは、アキに聞いた。今回はアキがすべて段取りをしてくれたので、旅行の詳細を知っているのはアキだけだった。
「宿泊先は駅から歩いてすぐ近くの所です。まだ開場まで時間がありますね。どこかでお昼ご飯を食べますか。」
「そうしましょう。とりあえず、ガードしたを歩いてみますか。」
東京から遠く離れた場所で二人でガード下の店舗を見ながら、歩くのはヨシダにとってとても楽しい瞬間であった。アキもとても楽しそうに、きょろきょろとしている。
数分歩いていると、タコ焼き屋やお好み焼きやがあり、二人して店頭のベンチに座り、タコ焼きを食べた。まだ熱い作りたてのタコ焼きをほおばるアキの横顔はやはり美しかった。ヨシダも負けじとタコ焼きをほおばった。今日はアキはプロレスTシャツではなく、ふつうの恰好をしていた。ガード下を歩いていると、前方にプロレス居酒屋らしき店が見えた、というのも店先に週刊プロレスが並べてあったのである。
「ところでプロレス居酒屋というのが、この三宮のガード下にあることしっていますか。実はあそこに見える店がプロレス居酒屋なのですよ。」
「それは知りませんでした。おお。店頭に週刊プロレスのバックナンバーが置いてある。おお。これは売り物なのですね。二百円と書いてある。おお。長州力のフィギアが置いてある。おお。これは二千円ですね。ちょっと高いですね。」
「楽しそうですね。時間はまだまだありますので、入ってみましょう。」
店内の作りは普通の居酒屋と同じであったし、メニューも特別なものはなかったが、普通と違うところは、店内に大きなスクリーンが設置してあり、そこにプロレスの試合が放送されていた。店員に促されて、奥のテーブル席についた。
「おお。中邑対AJスタイルズのインターコンチ戦が放送されていますよ。おお。懐かしい。」
アキはとても興奮していうようだった。ヨシダも冷静を装いながらも、心拍数が上がっていることが自分でもわかった。
「なかなかすごいですね。とてもプロレスファン向けの居酒屋です。僕もとても興奮しているところですよ。」
店員が生ビールとジンジャーエールを持ってやってきた。すでに枝豆と軟骨の唐揚げは机の上に置いてある。アキとヨシダはグラスを合わせて、中邑退団興行に参加できることを喜びあった。
「私はあまり中邑選手のファンということではないのですが、棚橋選手と長いことともに新日本を支えてきた選手という意味で、とても重要な選手だと思っています。今回の退団興行も大変な盛り上がりになると思いますね。」
アキの想像と同じく、ヨシダもとんでもない興行になることを予想していた。ある種の退団バブルである。
「私も、中邑選手のファンというわけではありませんが、あの入場シーンや、ゴング前の独特の動き、そして必殺技のボマイエからは目を離すことはできません。そんな存在です。」
ヨシダはぐびぐびと生ビールをおいしそうに飲んだ。
「お好み焼きもたのみましょうか。」
「ぜひ。」
ヨシダは、すでにいい気分で正面のスクリーンを眺めていた。AJスタイルズのスーパーマンパンチが見事中邑の顎にクリーンヒットしているところであった。いい気分になったままヨシダはビールを飲み続けた。
「今日は、色々と段取りをしてもらってありがとう。とてもいい気分だよ。それに、なによりアキさんが元気になってよかった。それがなによりだよ。そしておいしくお酒がのめる。幸せなことです。」
ヨシダは饒舌に喜びを語った。
「この前はヨシダさんが慰めてくれて、元気になれました。もう大丈夫です。今日は純粋にプロレスを楽しみます。私達の声援がレスラーを傷つけているのかもしれませんが、それはレスラーとファンの共犯関係なのです。彼らもファンがいなけば興行を打つことはできない。ある種共存関係なのだとわたしは思っています。そう考えるととても気持ちが楽になりました。レスラーは選ばれた人間しかできない。それは、それ相応の覚悟、責任、重圧、心身へのダメ―ジがあることを彼らは知っているからです。選ばれた人間だけができる、それがプロレスなのだと思います。」
アキは酒を飲んでいるわけではないのだが、饒舌にプロレス論を口にした。ヨシダはほっと胸をなでおろした。そんな気持ちだった。その後、数杯の生ビールを飲み、ほろ酔い気分でヨシダは店を後にした。アキは酔っ払っているわけではなかったが、頬が高揚しており、酔っ払っているように見えた。
「それでは、神戸ワールド記念ホールに向かいましょう。大丈夫ですか。ヨシダさん。」
ヨシダは大変いい気分になっているようだった。
「おお、大丈夫、大丈夫。」
二人は、店を出て、会場へ向かった。
神戸ワールドに近づくと、プロレスファンと思しき人たちが、増えてきた。やはり皆、思い思いのTシャツを着ている。だが、今回はやはり悪魔将軍のTシャツを着ている人が群を抜いていた。いつもの通り、ヨシダは入場すると生ビールを買った。今回は珍しく、アキもヨシダの後ろに並んだ。
「珍しいね。今日はビールをぐいっといっちゃいますか。」
ヨシダがおどけて見せると、アキが小さくうなずいた。二人して、プラスチックのコップに入ったビールを持って自分たちの座席を目指した。席に着くと、二人はこつんとコップを合わせて、杯を交わした。
「今日は、中邑の日本の最後の試合です。中邑の素晴らしい門出を祝って、乾杯としましょう。」
ヨシダが小さく口上を述べた。
「かんぱい」
アキが小さく音頭を取った。
カン、カン、カン、カン
甲高い、ゴングの音が開場に響く。ざわざわしていた開場内が一瞬静かになるが、リングアナウンサーの声が聞こえてくると開場内はそれ以前よりもさらに騒然として、観客の声がいくつも合わさり、波のように押し寄せてくる。
リングアナが今日の試合順を説明し、最後に中邑の試合の紹介をした。
「メインイベント、6人タッグマッチ、中邑真輔・・・・・」
開場内の熱量は一時、沸点に達した。
「楽しみだねー。メインイベント。」
ヨシダはしみじみと語った。
第一試合、第二試合と順調に進み、休憩をはさんで、数試合行った後に、やっとメインイベントが始まった。すでに、試合開始から二時間は経過していた。リングアナウンサーが、メインに出場する選手の名前を読み上げ、最後に中邑の名前がコールされると、館内は熱気に包まれた。すると、館内のほとんどの観客が『中邑真輔』と書かれた真っ赤なA4の紙を頭上に掲げた。熱狂の渦はさらに、高まってきた。
大歓声の中、静かに、さもこの会場の主役は自分ではないよといった趣で中邑が入場してきた。大歓声である。
そして、ゴングがなる。
先発は他の2選手であった。中邑はコーナーに陣取った。他2選手がリング内でやりあっている。数分の間に、2選手がやりあった後に、1選手が中邑とタッチをすると、もう一方の選手も、別コーナーに戻ってタッチをした。タッチした相手は、棚橋である。棚橋と中邑の最後の戦いが、ここに生まれた。館内は今日一番の最高潮を迎える。
リング上では、中邑と棚橋が手四つの形で組んでいる。中邑が、ロープまで棚橋を押し込むと、脱力ポーズをした。そして、張り手をする二人。そして、エルボーを共に繰り返す二人。そして、棚橋のドラゴンスクリュー、中邑のリバースパワースラムがぐさりと決まった。
試合は、中邑と棚橋以外の2人が、勝敗を決めた。試合後に、ケニーオメガが乱入してきて、中邑のICベルトに挑戦を表明すると、棚橋が中邑の前に立ち、中邑はもういない、自分が相手だという。とても、感動的なシーンであったのを覚えている。中邑以外の全員が、リング上を去った後、一人リング内に残った中邑は、一度深く頭を垂れた。そして、これまでのファン、関係者、仲間のレスラーへの感謝の思いを伝え、いつも通りの咆哮を上げた。帰り際に、同じチームの仲間レスラーが、リング上に上がり、再び、叫ぶ。一番強いのはプロレスなんだと。これもまた、過去の中邑の激戦が生んだ名台詞である。過去に、総合格闘技へ参戦していたときに、セルゲイイグナチョフを退けて、叫んだものだったと思う。プロレスラーが、一番強いということを、第一線で主張し、体現しなければいけなかった時代の中邑である。その時の、記憶、記録はファンの脳裏に刻まれている。過去の美しいストーリー、苦々しいストーリー、見たくもないような辛いストーリーを知ったうえで、我々プロレスファンは、現在進行形の美しいストーリーを見続ける。プロレスファンというのは、いかにも幸せな人種であるとそう思った。こんなにも潔い、すがすがしい団体移籍をこれまで僕は見たことがなかった。通常、プロレスラーの団体移籍というのには、しがらみであったり、怨恨であったり、金銭の関係であったり、なかなかすんなりとは決まらないものである。また、選手が流出する方の団体は、移籍をすんなりとは許さなかったり、移籍後も文句を言ってきたりと、すんなりと物事が進まないようなイメージが多かったが、今回は移籍元の新日本プロレスは、退団試合まで用意して、中邑の移籍の後ろ押しをしている。とても美しい団体移籍であった。とても感傷的な気持ちにはなっている。これはWWEの中邑もフォローしていかないと、損をするなと僕は思った。移籍後のデビュー戦は、Youtubeにて無料配信され、全世界のプロレスファンがその戦いを見ることとなった。危険で、魅力的で、素晴らしい試合だった。相手の外国人レスラーはかつて日本で活躍していた覆面レスラーだった。ただ、現在はマスクを脱いでいる。名前は忘れた。
試合が終わり会場を出る時、僕はアキをちらりと見た。試合中は、アキは終始熱い声援を上げていたが、中邑が最後にリング中央で叫んでいる時、アキは少し涙ぐんでいるようだった。そんな、アキの横顔を僕はずっと見ていたかった。中邑の咆哮が終わった後、アキはWWEに行っても中邑選手には頑張ってほしいですねとつぶやいた。僕は小さくうなずいた。
四十歳過ぎの年齢となった自分ではあるが、これまでに自分がこんな気持ちになることは想像してもいなかった。不思議な気持ちだった。中邑の試合に感動しながら、僕はそれとは違うことでドキドキしていた。こんな年を取ってから、こんな気持ちになってよいのかそれは自分には判断できなかったが、プロレスの試合に興奮して、感動するのと同じくらいに、僕はアキのことが気になっているようだった。ああ、僕はアキのことが好きなのかもしれない。きっとそうなのだろうと、僕は思っていた。興奮した観客の人ごみにもまれながら、何とか開場の入り口まで戻ってきた。アキはななめ右後ろについて来ていた。僕は人ごみの中で、アキの小さな左手を探した。小さな左手には小さな時計が光っていて、僕はその左手を見つけることができた。
僕はアキの左手を軽く握った。握った時は、アキの肩はびくっと上がり、小さな左手はこわばった。次第にほぐれていった。アキは何も言わずに、手を握り返してくれた。僕は、ずっと握っていたかった。アキは、なにもいわなかった。二人が泊まるホテルはアキが予約してくれたところであった。
僕はホテルの場所を知らなかったので、ホテルの場所がわかるかいとアキに聞いた。アキは、はいといった。そして、アキがななめ右前を歩いて、僕を連れて案内してくれた。手はつなぎ続けていた。段々、手が湿っぽくなってきたのを僕は覚えている。でもいつまでも手を握っていたかった。手をつながれて、女性に大通りを案内されている大男の姿はさぞ滑稽だったかもしれないが、そんなこともどうでもよかった。今思うととても、恥ずかしい光景だったような気がする。アキに連れられて到着したのは、全国展開しているような有名なビジネスホテルだった。なかなかアキが中に入らないので、どうしたのと聞いたら、アキは手を握っているので・・と俯いていた。はっとして、やっとアキの手を離した。ごめんよ。僕も俯いた。手を離して、やっと僕たちはビジネスホテルへ入った。ホテルへ入ると、チェックイン後お部屋は五階ですと案内された。ホテルの中は、ビジネスホテルとはいえ、清潔にと持たれており、すっきりとした室内であった。五階へ向かうエレベーターの中では、先ほどの神戸ワールドでの大歓声が嘘のように沈黙が支配していた。もう手を握ってはいなかった。しかし、僕の気持ちはとても高ぶっていた。試合開始のゴングを聞いた時のように。中邑が大きく咆哮したときのように。五階の部屋の前について、アキが手にしていた鍵で、ドアを開けた。アキが先に入り、僕はそれに続いて入っていった。ホテルのエントランス同様に、部屋も清潔に保たれていた。おそらく比較的最近に建てられたホテルだと思われた。静かなホテルの一室にて、どこかでカーンと乾いた音と大きな歓声が聞こえた気がした。
そんな四十歳の日曜日。ビジネスホテルの小さなベットの上で僕はアキにキスをした。
ぼんやりとそのことを自宅のベッドで思い出し、またどこかで、カーンと響いた音が聞こえた気がした。
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