1/1
0人が本棚に入れています
本棚に追加
/10ページ

 千二百人入れば満員、千四百人入れば超満員というやや小さい会場であるが、後楽園ホールはすり鉢状という形状からなり、どの位置からでもリングが見やすく、一番離れた壁際の立ち見席でも、肉眼でリング上をはっきりと見ることができるため、古くから戦いの聖地として、ボクシングやプロレスの試合がおこなわれている。むず痒い芽吹きの春風吹きすさむスプリングシーズンも、どんよりとした梅雨の時期も通り抜け、じりじりとした真夏の後楽園ホールでは、プロレスのメインイベントが行われている最中であった。リング上にはレスラーが四人、二人はリングサイドで待ち構えており、もう二人はリングの中央で組み合っていた。メインインイベントのカード、ベビーの棚橋、KUSHIDA、組とヒールの内藤、BUSHI組の戦いであった。リング中央では、棚橋と内藤が組み合っている。後楽園ホールの観客はリング中央の二人の動作を逐一見逃すまいと千四百人の視線は一点に集まっていた。 ヨシダは、リング正面の指定席のパイプ椅子に座り、リング中央の選手の動きを他の千四百人と同様に目で追っていた。ただ、ヨシダは、内藤へ視線を送っていた。席の下に置いてある飲みかけの生ビールを手に取り、一口ぐびりと喉をならした。リング上の試合は中盤に達しており、リング中央のレスラー二人は、互いに相手の頬を張り合い、時にはエルボースマッシュを織り交ぜながら攻防は続いていた。棚橋の張り手に耐え切れず、内藤が棚橋の裏膝をけりあげ、リングに座らせると、ロープに走り込み、ロープの反動で、リング中央に座る棚橋の顔面目がけて低空のドロップキックを放った。棚橋は後方へ吹き飛ばされ、リング上に大の字で倒れる。ヨシダは、大声で内藤へ声援を送った。カバーに入った内藤、押さえつけられる棚橋に対してカウントを数えるレフリーと共にヨシダもスリーカウントを数える。 「内藤いけー、いけー。ワン、ツー、ス。。。あああー。」 紙一重で、棚橋が背中を地面から離した。 「おしい、なんともおしい。」 ヨシダは声を上げて悔しがった。 ヨシダは熱烈なプロレスファンだった。彼のプロレス観戦歴は長く、大学生の頃に深夜テレビで放送していたプロレスの試合をたまたま見たことからプロレスにのめり込み、以降現在まで二十年以上見続けている。最近では月に少なくても一度はプロレス会場に足を運んでいる。ただし、観戦はいつも一人で、一人の世界にのめり込みながら、大声で歓声を上げていた。ただ、一人で観戦していても、観客との一体感を感じており、同郷の見知らぬ人間とともに、騒いでいるような錯覚を楽しんでいた。プロレスとはそういうものである。 メインイベントの試合が始まってから、ヨシダは頻繁に横に座る観客の様子を気にしていた。特に試合が中盤に入ると、明らかにヨシダは隣席の観客の様子を怪訝そうにうかがう機会が増えた。そしてなぜか小さく舌打ちをした。舌打ちは観客の歓声にかき消されて、隣席の観客には聞こえていないようだったが、ヨシダは明らかにイライラとして貧乏ゆすりをしながら、何度か臨席を向いて、嫌味たっぷりに片目を細め苦い顔をした。内藤への声援はさらに大きなものとなり、ヨシダはさらに両手を口に添えて声を張り上げ、、応援した。 新日本プロレスの夏の後楽園ホールの興行にアキは、一人で観戦に来ていた。一人での観戦はいつものことであり、一人でお気に入りの選手を応援していると、他の観客のことはなにも気にならなかった。真夏の後楽園ホールは、千四百人の観客を収容し、腕や顔や首の露出した肌に付いた水しぶきは自分の汗なのか、室内に充満する誰の汗が蒸発したのかわからない水蒸気が結露したものか、わからない程であったが、指定席の無機質なパイプ椅子に背を預け、じっとりとした感触を背に感じながらも、そんなことは気にせず、アキはお気に入りのベビーの選手である棚橋を応援していた。 ちょうど、本日の興行のメインイベント、真っ最中である。アキの棚橋ファン歴は長かった。棚橋は自らの完成された肉体美が霞んでしまう程の身体能力、プロレステクニックを持ち、そして観客を興奮の渦へと巻きこむプロレス脳は現存するいかなるプロレスラーよりも冴えわたっており、正真正銘の正統派レスラーであった。アキは、正統派のレスラーが悪役レスラーをやっつけるという、勧善懲悪のプロレスを好んでいて、正統派レスラーである棚橋のプロレスセンスに魅了されていた。 「たなはしー、いけー、よしっ、いけー」 リング中央では棚橋がBUSHIに対してドラゴンスクリューを繰り出したところであった。痛みにのた打ち回るBUSHIをさらに、リングサイドに引っ張っていき、棚橋自身は、リングから降りるとともに、ロープを挟んだ状態でドラゴンスクリューをBUSHIにかけた。アキは、さらに声を張り上げて、棚橋へ声援を送っていた。 「よしっ、ドラゴンスクリュー、いけー」 リング内で悶絶するBUSHIを尻目に、棚橋は颯爽とコーナーのトップに飛び乗り、両腕を広げてバランスを取ると、共に四方の観客へアピールをするとトップロープから飛び上がり、悶絶するBUSHIめがけて、自らの体を浴びせていった。レフリーが颯爽と飛び上がり、リングに横たわる二人に駆け寄り、BUSHIの肩が地面に接地していることを確認すると、カウントをとり始めた。 「よしっ、ハイフライフロー、いけー、いけー、ワンッ、ツー、スリー、ヨシッ」 リング中央では、棚橋がBUSHIからスリーカウントを決めて、レフリーから勝ち名乗りを受けているところだった。観客は、大歓声を上げており、至る所から「たなはしー、たなはしー」と大声が響いていた。メインイベントが始まってから、ヨシダの隣の席からも棚橋を応援する大声が聞こえ、ヨシダはイライラとした。ヨシダは、正統派のレスラーよりも内藤のような悪役レスラー、ヒールの選手をあえて応援するようなひねくれた感情を持っていたわけではなかった。ただ、常に正義が勝つという構図は、あまり好きではなかった。ただ、悪ぶっている人間をあえて好んで応援していたというものではなかったが、ただベビー、ヒールの境を越えて、その時代々々で自分が強く魅力を感じるレスラーを自然に応援していた。今の内藤には時代の風が吹いていた。そう思ってヨシダは今内藤を応援していた。席に着いた時から隣席の席の観客はたいそうな棚橋ファンであることがわかった。というのも棚橋の入場時には、その臨席の観客は大声で応援するとともに、「エース」と書かれた真っ赤なマフラータオルを両手に抱えて、リングからも見えるように高く掲げていた。その女性はまだ大学生くらいに見え、とても若く見えた。その女性は薄い緑色の七分丈のワンピースを着て、小さなリュックサックを膝の上に乗せて、タオルを掲げて大声で応援していたのである。忙しい人である。 メインイベントが始まり選手が入場してからずっとヨシダは内藤のことを応援し続けていたが、そんな声援など、まるで聞こえていないかのように、隣の女性は棚橋のことを応援し続けていた。異なる選手を隣席に座った観客通しがメインイベント最中に、三十分以上も応援し続けているのは、共に気まずく、異質なものとして意識せずにはいられなかった。試合の最中に、ヨシダは頻繁に片目を細めて、横に座る女性のことをちらちらと見ていたが、同様に女性からの冷たい視線もヨシダは感じていた。 「あれー、アキ?」 ヨシダの後ろの席から、唐突に女性のキンキンとした声が聞こえた。リング上では、棚橋がマイク握り、ファンへの感謝の言葉を述べており、しばらくするとエアギターのパフォーマンスが複数回に分けて大音量と共に、披露されていた。延々と続きそうな雰囲気である。 「あれー、アキだよね。何してるのこんなところで。」 後ろのキンキン声の女性は隣に座る棚橋ファンの女性になれなれしく話しかけ始めた。隣に座る女性は先ほど、大声で棚橋の応援をしていた女性で、アキと呼ばれているようだった。アキと呼ばれた女性は、ちらっと後ろの方を向いて苦笑いをした。そして、話し掛けてきたキンキン声の女性の方を一瞥したが、さっと俯いてしまった。 「短大一年生のクラスで一緒だったアキだよね。あんたプロレス好きだったの?」 後ろの女性はしつこく話しかけてくる。 「この子、アキっていうんだけど、短大の時の同級生なんだけど。大学生のくせに全然喋らないんだよ。何しに大学来ているのかわからないようなやつなんだよ。」 「まじかー、大学で楽しまないって、バカだね。何のために大学に入学したんだよ。時間の無駄。」 一緒に観戦にきていると思われる男性二人組が口をそろえる。その女性は男性二人とプロレス観戦に来ているようだった。そして、隣で棚橋を熱心に応援していた女性はアキという名前のようだった。ヨシダはちらちらとアキの方を見ていた。かわいそうなくらいに俯いている。棚橋のエアギターのパフォーマンスはすでに三回目に差し掛かっているが、場内の歓声が止むことはなかった。皆熱心だった。 「なんか言えよ。相変わらず、クチナシだな。」 三人組の足元には空のビール缶やつまみの空袋が散らばっていて、観戦史ながら酒が進み、かなり酔っ払っているようだった。棚橋のパフォーマンスに熱中していないことを鑑みると、最近増えているライトなプロレス観戦者と思われる。メインイベントの試合が終わった後にすぐに席を立ちレスラーが話している間に帰路につく観客が増えてきたように思える。レスラーのパフォーマンスに熱中しない観戦者は、プロレスの観戦歴がきわめて浅い者たちだと思われた。三人組はだらしなく足を前の席に放り出していた。 「今日はつまらないやつに会っちゃったし、プロレスの試合もつまらなかったな。なんだよあの筋肉ナルシスト。何回エアギターやれば気が済むんだよ。ねー。」 女性は棚橋のパフォーマンスを口汚く、罵倒し始めた。アキはさらに、深く俯き、リュックを抱えた手は、ギュッと握られ、口はへの字になっていた。 「男のくせに、金髪で気持ち悪いレスラーだな。あんなのどこが格好いいんだろうねー。」 まだ、棚橋の悪口を言っている女性に、ついてきた二人の男性は大きくうなずいて、賛同している素振りを見せた。 「アキは、相変わらず一人で行動してるんだねー。本当につまんない人生を送っているんだ。棚橋のファンなんだ?ばっかじゃないのプロレスなんか見て、興奮して。気持ち悪い。」 アキは何も言えないようだった。泣き出しそうな顔をしていた。 「それとも隣のおじさんと一緒に見に来たんじゃないの?さっきからちらちらアキの方を見てるけど。気持ち悪―い。」  不意に自分のことが話題になり、ヨシダは驚いて、リングの方を見て、聞こえないふりをした。 「なんか言えよ。おじさん。アキと連絡先交換しちゃえよ。お似合じゃん。何も話せないクチナシどおしで。ずーっと何も話さずに、一人でプロレス見てればいいよね。」 「なにか私のことを言っているようですが、隣の女性とは一緒にプロレス観戦に来ているわけではないですよ。共に一人で見に来ています。それに、棚橋のことを悪く言うのはやめてください。新日本プロレスのトップレスラーで、日本プロレス界の宝ですから。」 ヨシダは、すーっと一息に反論をした。 「何言ってんの。気持ち悪い。宝だって。馬鹿じゃないの。」 リング上では、棚橋が愛してまーすと、拳を天に向けて叫んでいる。ヨシダとアキは棚橋のパフォーマンスを一言も聞き漏らすまいと、リング中央に視線を注ぎ続けている。 そして、一緒に愛してまーすと叫んでいた。棚橋が大声援のなか、花道を引き揚げていくと、徐々に観客も帰り始めた。ヨシダが後ろを向いて確認すると、三人組はアキとヨシダがリング上に集中している間にそそくさと早々に引き上げたようだった。ビールの空き缶と、つまみの空袋は大量に放置されていた。 プロレスの試合が終わった後の疲労感と高揚感は不思議なもので、試合中は高揚感しかないのに、試合が終わると、何かを思い出したかのようにどっと疲労感がやってくるのである。 ヨシダも他の観客と同様にリュックに飲み物や、パンフレットをしまい、帰り支度を始めた。隣の席を見ろと、アキと呼ばれていた女性もゆっくりと自分の荷物をずっと大事そうに抱えていたリュックにしまっていた。ヨシダは少しの間その女性を見ていたが、その女性もヨシダの方を向いて、小さく会釈をしていった。リュックを腹に抱えたまま、帰路に向かう観客の渦にまぎれていった。少し恥ずかしそうな後ろ姿だった。
/10ページ

最初のコメントを投稿しよう!