冷蔵庫の隙間に

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冷蔵庫の隙間に

 そんな出来事も忘れつつあった半月後。  冷蔵庫の隙間に落ちていた新聞購読申込書のお客様控えを見つけた。このまま忘れてしまいたくて丸めて捨てようとしたが、その瞬間にあの新聞勧誘員の顔が()ぎった。  まず、「彼がなんで僕を騙すのか?」と疑義の念を抱き、次に「僕が何を騙された?」というシンプルな疑問へと変化した。僕は丸めかけたお客様控えを広げてみた。  そこには初月無料と記されていた。つづいて、毎月最終の金曜日に翌月分の購読料が銀行口座から引き落とされるとある。つまり僕は現時点で一銭も盗られていないのだ。それより、口座には限りなく「0」に近い金額しかないじゃないか。  僕は時刻を確認し迷わず家を出て銀行へと急いだ。久しぶりに走った。何らかの目的のために走るのも、日中に外出するのもいつぶりだろう。あんなに嫌っていたことが不思議と嫌じゃなかった。騙されていなかったという事実が気分を高揚させた。それを祝福するように風が優しく僕を撫でた。  それから一年後の現在も、変わらず新聞をとりつづけている。  僕は日々その新聞を読み、これまでの新聞をすべて保管し過去のものを順に読み返してもいる。それは僕自身が書いた、新聞勧誘員曰く「あなたのためだけの新聞」だからだ。  つまるところそれは、株式会社ホワイトスペース社が発行する『空白新聞』という名の新聞だった。  一般的な新聞の半分のサイズで、ページ数は8ページ。2枚の新聞紙を二つ折りにした『空白新聞』は薄く、チラシに混じってしまうと見つけにくい難点もあるが。一番の特徴は紙面には何も書かれていないということだ。その名のとおり紙面は、ほぼ〝空白〟によって占められている。印字されているのは一面右上に『空白新聞』の毛筆文字と「ホワイトスペース社」の住所・電話番号の記載。欄外上部に日付があり、ページ数がナンバリングされていて、ところどころに「今日の出来事は?」「今日のスポーツは?」「読んだ本は?」など、書きこみへと誘う小見出し的な文言の活字があり、それらが日替わりで記載されている。注意書きにはこうある。「あくまで参考例です。あなたが思いのままに自由に書いてください」。  僕はその『空白新聞』をチラシの中から発見したとき、それは僕へ宛てられた手紙のように思えた。誰かが何らかの目的を持ってしたためた手紙のように。とはいえ、そこには空白しかなく、その空白は僕自身が埋めなくてはならないのだ。最初は何を書いていいやらわからず、その日の天気をできるだけ詳細に書いた。ある日には例文に答え、読んだ本のタイトルとちょっとした感想を書いた。そんなことをつづけていくうちに、次第に空白を埋めたいという欲求が生まれ、ありとあらゆることを書くようになった。たまに四コマ漫画なんかも描いたりして。今では空白はびっしりと埋め尽くされている。  現在の僕は、少なくとも新聞が届く世界に生きている。  それに、毎月の最終金曜日までに銀行口座に翌月の購読料分を入金することが、外の世界との具体的な繋がりのように感じている。通帳に印字された文字や金額がそれを証明してくれてる。  そうして毎日、僕は空白新聞の記事を書いている。ある人はそれをただの日記だと言うかもしれない。でもこの新聞は過去の記録じゃない。過去の自分が未来の自分へ宛てた手紙であり、それを読んだ未来の自分が新しい一歩を踏み出すための新聞だ。あの新聞勧誘員の言うとおり「あなたのためだけの新聞」だったんだ。  新聞業界が斜陽産業の代表格とされるなかで、発行部数が右肩上がりの『空白新聞』は注目されている。発行元のホワイトスペース社はマスコミによる取材で引っ張りだこだ。何かのインタビュー記事で、紙に文字を書くことがとても大切なのだとホワイトスペース社の社長は答えていたが。今後も紙媒体を主としながら、WEB版のリリースに向けても動いていることを明かしていた。「より多くの〝あなただけの新聞〟を増やしてもらいたい」と語る社長は、「あなたが世界を作るのです」と熱いメッセージを送っていた。  最後に、「令和の若者には、とくに。自分を信じてほしい」と付け加えた社長。その顔は、あの新聞勧誘員とよく似ていた。  
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