新聞勧誘員 現る

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新聞勧誘員 現る

 僕は新聞をとることになった。新聞なんて読むつもりもないのに。  最初のうちは断る気まんまんだった。玄関で新聞勧誘員が「新聞購読のすすめ」の定型文を機械的に空読みするのを聞きながら、僕は断りの文句を考え準備していた。だが新聞勧誘員は定型文のパートが終わると、「あなたに新聞を読む気がないことは重々承知で申し上げております」と牽制し、「ですが、これは一般的な新聞ではありません。あなたの新聞なのです」と言った。そこから一気に潮目が変わった。 「これは、あなたに必要な、あなたのためだけの新聞です」  とくべつに秘密を明かすかのような言い方だった。馴れ馴れしさを感じさせないある種の親密さがあった。  彼は新聞勧誘員にして、新聞勧誘員らしからぬことも言った。 「あなたはもうこれ以上、涙を流さないほうがいい。適度になら、涙を流すことはストレス解消になるなどと言われることもありますが、あなたはもう充分に泣いたはずです。そうではありませんか?」  僕の目を覗きこみながら、それこそ心療内科医のように質問してきた。その瞬間、僕は患者だった。彼の診察を受けていた。彼に心を見透かされ、何もかもを見られている気がして少し落ち着かなかったし、彼が取った間合いが近すぎることによる圧迫感で、呼吸がうまくできなくなっていた。鼻で息をしているのか口で息をしているのか、吸っているのか吐いているのかも分からなくなり、そのうちに息ができなくなった。玄関を隔てる分厚いガラスが目の前に広がる。僕は水槽の中にいて、新聞勧誘員はガラスの外側でこちら側を見ていた。僕は玄関先で半ば溺れるように曖昧模糊な呼吸を繰り返していた。    しばらく何も答えられずにいた。すると新聞勧誘員は目の前の沈黙を、消毒液か何かを含ませた綿で手当てをするみたいに優しく埋めた。 「涙を枯らしてしまうと、心まで枯れてしまいます。あなたは、あなた自身のために、それを守らなければなりません」  その言葉に思わず涙がこみ上げてきた。でも僕は泣きはしなかった。彼にそう言われたからじゃなく。新聞勧誘員の前で泣くという異常行動を避ける理性がまだ残っていたようだった。そんな僕の目を再度覗きこみながら、新聞勧誘員は後ろ手にしていた鶯色のバインダーを差し出して、「あなたにはこの新聞が必要です。あなたになら、何となくそれが分かるはずです」と言った。バインダーには新聞購読申込書が挟まれていた。僕はその申込書の必要事項を記入しサインをした。彼が言うように、何となくその新聞が必要だという気がした。  それが月末に程近い日のことで、翌月1日から新聞が届くはずだった。  しかし新聞は届かなかった。翌日も翌々日も届かなかった。それで僕は新聞を申し込んだことを忘れてしまおうとした。はっきり言って僕には新聞をとる気なんてさらさらなかったんだ。これまでも新聞が必要だと思ったこともない。そもそも外の世界の情報を知りたくもなかったし、隔離された場所に身を置くことを自ら望んでもいた。部屋のテレビはとうの昔に自死を遂げていたし。カーテンレールの玉は一致団結し、僕の意を汲み外の世界の光が部屋に入りこむのを阻止していたのだ。サンキュー、テレビジョン。サンキュー、カーテンレール。  それなのに何故か、新聞を待ちわびる気持ちが消えて失くなることはなかった。  一週間が過ぎても新聞は届かなかった。  暫くぶりにアパート入り口の集合ポストを開けてみたが、そこにも新聞はなかった。ポストに詰め込まれていたチラシの山を手に、部屋に戻った僕の口から溜息混じりに、「騙された」という言葉がぽろっとこぼれた。僕は思った。これは外の世界を拒んでいることに対しての何かしらの罰か、あるいはたちの悪い嫌がらせなんだ、と。  僕はもう一度溜息をついた。今度ははっきりとした諦めの溜息だった。  
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