45人が本棚に入れています
本棚に追加
「吉野くん!」
課長が鋭い声で俺を呼ぶ。
「はーい」
どうせ大した用事ではないだろうと、俺はゆっくり立ち上がり時間をかけて課長の席まで歩いていった。
「何でしょうか」
「君、長谷川産業さんへの工程表、作ったのか?」
課長の言葉に俺は息を呑む。すっかり忘れていたのだ。
「……あー、まだでーす」
「納期は来週の水曜日だろう。今日は何曜日?」
「金曜です……」
金曜日だしもう15時を過ぎている。
「どうするつもりなんだ?」
「月曜にちゃちゃっと作りますよ」
すこし焦りながらも俺は明るい声を出した。この上司の前でうろたえたら更に叱責が飛んでくるので、とにかく余裕ある態度を貫かないといけない。
「まさかノーチェックで先方に渡すつもりじゃないだろうな」
「あー、駄目っすか?」
課長は眉間に指を当てて深い溜息をついた。
「……君は1か月前にそれをやって古沢商事さんに契約を切られそうになっただろう」
確かにそんなこともあったっけ。でも、古沢商事の怒りの原因は俺だけじゃないんだけどな。そもそも、現場の社員がやらかしたのを営業の俺がフォローして、それ自体は向こうも評価してくれている。ただ、書類にいくつか不備があったのが、ちょっと逆鱗に触れただけで……ん?「ちょっと」と「逆鱗」って矛盾してるかな。
「あの時、君の作る書類は私と係長で確認すると伝えたはずだが」
「じゃあ、月曜の午前中には仕上げるんで、午後に見て貰えれば」
「月曜日は私はずっと会議、係長は午後出張」
「それなら火曜日に」
「火、水と私は泊まりで出張だし、係長は休暇を申請している」
「そりゃ困りましたね」
軽めに言ったら課長に睨まれてしまった。でも、急な仕事が入って作業が進まなかったのもあるし(そのまま忘れてしまったのだが)、仕方がないじゃないか。しかしこれ以上議論するのも面倒臭かったので、俺はさっさと引き下がることにした。
「んじゃ、17時までに作りますよ。一応、大枠は作ってあるんで」
残業してチェックするのか、月曜日の午前中にするのかはそっちの自由だ。俺は係長のところへ行き、
「そういうことなんで、お願いします」
と、頼んだ。係長はどちらかといえば俺寄りの適当タイプなので、(あまり深く考えずに)快諾してくれる。だからもちろん、課長とは今ひとつ気が合わない。あんなに若くして課長になるくらいだし、とにかく仕事ができるのは確かなのだが、自分に厳しい半面部下に求めるハードルも高いから評判は微妙だ。俺は面食いだからつい従ってしまうのだが、好みの顔でなかったらさっさと異動を希望しているところだ。
席に戻ると、隣に座っている同僚の本田さんがアーモンドチョコの包みをくれた。
「また叱られてる~」
「別にどうってことないっすよ」
「昨日も言われてたでしょ」
そういえば報告書の文章が酷いとネチネチやられたんだった。一晩経ったらすっかり忘れていた。
「課長、残業してチェックするんじゃない?土曜に直しに来いって言われたらどうすんの」
「それは嫌っすね」
本田さんは苦笑しながらチョコを頬張っている。
「じゃあ、あんたも残るしかないんじゃない?」
「それも困るなあ。夜に約束があるんですよ」
「へ~、デート?」
「まあ、そんなところ……」
俺はごまかして仕事に専念するふりをした。女の本田さんには喋れない……いや、男でもノンケには言えないか。実は、あまりにも出会いが無さすぎるので、思い切ってゲイ専門のマッチングアプリに登録してみたのだ。「同好の士から真剣交際まで」がウリの気軽に登録できる系で、趣味嗜好がとにかく細かく登録できるのが気に入っている……のだが、条件を詰め込み過ぎてなかなかお声がかからなかったのは失敗かもしれない。もう少し気軽に遊べる風にしておけばよかった。
しかし!2週間前、ついにメッセージを受信したのだ。顔写真は無かったが(これは俺も顔出しNGにしているから仕方がない)、6歳年上の32歳で身長170cm、文面から俺の好みって感じが溢れている。俺は舞い上がってしまった。これはもう、運命じゃないの?こんなひとが「早く会いたいです」ってさ。すぐさま会う約束をしてしまった。それが今夜なのだ。
だから、工程表を遅くとも18時までには仕上げなくちゃいけない。課長に提出したらどんなに冷たい視線を向けられようと一目散に退社する。
あーもうどうしよう。自己紹介文に「最初はお友達からじっくりお付き合いしたいです」なんて真面目くさったこと書かなければよかったな。いきなりイチャイチャしたいと思ってしまっている。こんな状態では、あのひとに引かれてしまうな。
……いやいや、あの文章はけっこう積極的な感じだったぞ。もしかしたら、逢ったその日にいいことできるんじゃないか?
俺はうわの空で工程表を作っていた。適当過ぎて誤字脱字だらけだ。ちゃんと修正しないと、また課長に大目玉を食らうだろう。課長もなあ、もう少ししおらしいところがあれば可愛いのに……って上司に対しておかしなことを考えちゃ駄目か。
それにしても、あんなに理想の相手に声をかけてもらえるなんて、ちょっと出来過ぎじゃないだろうか。サクラを疑ってみたりもしたが、あまりそれっぽくないのだ。最近はサクラも巧妙でいかにも素人風にしてくるらしいが。まあそこは賭けではある。ルックスが許容範囲外でも、趣味は合いそうだから飲み友達にはなるかもしれない。別に募集はしてないけど。
あれこれ考えながら俺は猛スピードで工程表を仕上げた。一応、古沢商事にそのまま渡してしまった時のようなミスはしていないことを確認して、時計を見ると17時45分。課長と係長にチェックを依頼するメールを送信すると、俺はそそくさと職場を出た。本田さんがニヤニヤしているような気がした。
最初のコメントを投稿しよう!